「東關」考③

 賈逵傳の記述から、「東關」が、東關であるという事には多大な疑問がある。


 では、そもそも孫權は当時、何処にいたのであろうか。

 吳主傳に「冬、魏嗣王稱尊號、改元爲黄初。二年四月、劉備稱帝於蜀。權自公安都鄂、改名武昌、以武昌・下雉・尋陽・陽新・柴桑・沙羨六縣爲武昌郡。五月、建業言甘露降。八月、城武昌、……」という記述がある。

 「魏嗣王」こと曹丕が漢帝(獻帝)の禪󠄃りを受けて即位改元したのが黃初元年(220)十月であり、翌二年(221)には劉備も帝位を称し、孫權は公安から鄂に遷り、武昌と改名している。

 従って、魏の黄初二年(221)以降、孫權が在ったのは鄂(武昌)という事になる。陸遜傳でも曹休を撃破した後に「諸軍振旅過武昌」と、「諸軍」が武昌を経由して帰還している。


 武昌郡とされた諸縣は『續漢書』郡國志では江夏郡に屬し、その江水南岸の地であり、武昌(旧鄂)は、同じく江水の南岸である沙羨(夏口)の東、西陽のほぼ真南に位置する。

 旧江夏郡一帯は江水の屈曲部であり、荊州を東北に流れてきた江水が、漢水と合流し、大別山脈に遮られて、東南へと流れを変えた南側が吳の武昌郡に当たる。なお、江水が南から流れ来た贛水と合流し、大別山脈を回り込む様に再び東北へと流れを変えた北岸が、曹休の向かう廬江郡である。

 以後、孫權は同傳の黄武七年(228)条に「權至皖口」とあるように一時的に出征する事はあれど、「黄龍元年春、公卿百司皆勸權正尊號。夏四月、夏口・武昌並言黄龍・鳳凰見。丙申、南郊即皇帝位、……秋九月、權遷都建業、……」と、黄龍元年(229)に皇帝として即位し、同年の九月に建業に遷都するまで、基本的に同地に在り続ける。


 賈逵傳の記述は「明帝即位」後に置かれ、そもそも賈逵が豫州刺史となったのは「文帝即王位」、乃ち延康元年、つまり黄初元年(220)以降であるから、同傳の「時」時点の孫權の在所は鄂(武昌)という事になる。すると、「東關」も同地の事としなければ辻褄が合わない。黄武七年の「權至皖口」の様に、一時的に「在」るという解釈もできるが、文脈からそうは読み難い。

 一方で、「東關」が鄂(武昌)である場合、江夏郡(旧江夏郡江北・魏領江夏郡)を西に、旧江夏郡の蘄春郡を経由するが廬江郡を東にしており、豫州の南に当たり、「汝南・弋陽諸郡」を北にして、「豫州」をどこにするかという問題は残るが、概ね「四百餘里」の範囲に入る。

 再び、『元豐九域志』を参照すれば、弋陽郡に当たる光州の「南至本州界一百八十里、自界首至黃州三百六十里」が黃州であり、その対岸が吳の武昌(鄂)に当たる。黃州の「南至本州界五里、自界首至鄂州一百五十里」とあるのが鄂州だが、この鄂州は魏代の夏口に当たり、武昌は「州東北一百八十里」であるので、黃州界から最大でも三十里以内の位置にある。乃ち、光州の「州界」から黃州の「州界」までで365里、これを魏代の里程にすれば「四百餘里」にはなる。


 従って、「東關」が鄂(武昌)であるというのは、賈逵傳の記述と地理的に合致し、滿寵が向かう「夏口」とも概ね一致する。そして、その場合の中路軍の経路も豫州から南下する事になり、曹休・司馬懿の方向に合致する。また、「開直道臨江」も西陽から真っ直ぐ南下すれば江水に至り、「直向東關」という表現とも一致する。

 つまり、「東關」が東關であるとする場合に生じる問題点がほぼ解消する。なお、鄂(武昌)は江水に面していると言ってもいい地であるので、「去江四百餘里」についてだけは合致しないので、やはり、これは豫州を「去四百餘里」、或いは豫州が「去江四百餘里」である事を云うのだろう。


 では、「東關」が鄂(武昌)であるという証左はあるであろうか。上に見たとおり、三國志中の「東關」の用例からは見出せない。

 また、賈逵は項が遠隔で、孫權に「北方之虞」が無い事から「潦口」に屯を移したと云うので、そこから西陽を経て「東關」に向かったと見られ、「潦口」は項よりも、鄂(武昌)に接近した位置と思われるが、その位置は不明である。

 或いは、曹休の上表時に至っていたという「五將山」の位置が判明すれば、「東關」の位置を推定する手掛かりとなるが、やはり、不明である。


 「五將山」については、『晉書』などに見えるが、關中(雍州)の地名であり明らかに別地である。賈逵傳集解には、「梁章鉅曰:『續後漢書音義』云:在淮・沔之間。」とある。

 この『續後漢書』とは南宋蕭常の撰になるが、ただ「在淮・沔之間」とするのみで、何を根拠とするのかは不明である。「淮・沔之間」に在るというのを信じれば、その位置は淮水と沔水(漢水)の間、すなわち淮水の上流域から、沔水が江水に合流する沔口までの間となる。

 この範囲は概ね魏の江夏郡に一致し、西陽から夏口に向かう一帯に当たる。従って、『續後漢書』に従えば、「五將山」は大別山脈の西麓以西にある事になる。但し、その範囲に在ると見做したから、「淮・沔之間」という記述になったという可能性もある。

 また、同範囲内で、強いて類似した名前を探すと『大清一統志』に西陽一帯に当たる清代の光山縣の「南一百二十里」に「五馬山」が見えるが、関連は不明である。


 「潦口」については他の史書には全く見えない。「口」という地名は河川の河口部、他川との合流点に多く見える地名であるから、「潦口」も「潦水」の河口、恐らくは淮水或いはその支流との合流点にあると思われるが、「潦水」も水名としては見えない。

 なお、再び集解によれば、『方輿紀要』卷五十一に「潦河在南陽府鎮平縣東四十里、源出南陽縣之馬峙坪、南流之新野界、入於淯河。」とある。現在の南陽市新野縣北に「潦口村」があり同地であろうが、これは宛と襄陽の間であり、荊州の範囲内である。豫州の「屯」を移すに相応しいとは言い難く、東關・鄂(武昌)のどちらからも遠ざかる事になり、屯を移す意味がない。

 但し、一つ言い添えると、滿寵傳に「破吳於江陵有功、更拜伏波將軍、屯新野。」とある。これは黄初年間の事だが、当時、滿寵は汝南太守(・揚武將軍)であった筈で、一時的とは言え、豫州汝南の太守が何ゆえ、荊州南陽郡の新野に屯所を移したのか不明であるが、「潦口」との関連がある可能性がある。

 また、新野方面から夏口に向かえば、先の「五將山」の範囲、江夏郡を通る事になる。但し、東關に向かっても、江夏郡北部は経由する事になるので、「淮・沔之間」を通る事にはなる。

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