「東關」考②

 「東關」の位置に疑念が生じた所で、賈逵傳に戻り、太和二年条の前段を見ると、以下の如き記述がある。


 。每出兵爲寇、輒西。國家征伐、亦由淮・沔。是時、東西有急、并軍相救、故常少敗。逵以爲宜開直道臨江、若權自守、則二方無救;若二方無救、則東關可取。乃移屯潦口、陳攻取之計、帝善之。


 「時に孫權東關に在り、豫州の南に當り、江を去ること四百餘里」、乃ち当時、孫權が「東關」に在り、それは豫州の南で、江水から四百余里であった、となる。

 この記述のうち、「當豫州南」については、東關は豫州の東南に接する揚州(壽春)の東南(南部)にある巢湖の東南域であるから、広く「南」と言えない事はないが、やや外れている。なお、詳しくは措くが、後の晉代には、東南は「東」と認識される事が多い。

 「去江四百餘里」については、後世の北宋代王存等の撰になる地理書『元豐九域志』では和州歴陽郡に「州西五十五里」と云う含山縣があり、同縣に「東關一寨」が屬している。なお、『元豐九域志』は時代的な隔たりがあるが、「石亭の戦い」に係わる地域の位置関係や里程が記述されている事から、適宜参照する。

 和州は「東至本州界一十里、自界首至太平州三十一里」・「南至本州界一百一十五里、自界首至太平州六十五里」・「東南至本州界一十五里、自界首至太平州三十八里」とある。

 同書は方角とその方面の州境(「本州界」)、その州境(「界首」)から隣州への距離を記しており、この場合の太平州は江南路、乃ち江水の南であり、東・南・東南で至ると云う「州界」は江水に当たる。


 その里程にやや差があるが、十数里から、距離のある南で百十五里であるから、その西五十五里の含山縣からでも二百里を超える事は考えられない。魏と宋(北宋)代の里程には差があるが、その差は尺換算で3:4程であるので、倍以上の差を生む程のものではない。従って、東關が江水から「四百餘里」であるというのは明らかにおかしい。

 或いは「江」は衍字であり、「(東關は)豫州の南、(豫州を)去ること四百餘里に當る」、或いは豫州を主語として、「豫州の南(は)、江を去ること四百餘里に當る」と読むべきであるかもしれない。その場合、「豫州」をどこに置くかという問題は残るが、一応、東關或いは江水から「四百餘里」の範囲内には豫州は入ると言える。

 因みに、『元豐九域志』に依れば、和州の「西北至本州界一百一十五里、自界首至廬州一百二十里」と云う廬州の、「西北至本州界六十五里、自界首至壽州一百七十五里」が、下蔡に治する壽州で、その下蔡の北が魏・晉代の豫州なので、合計475(宋)里、実際は方角にややずれがあるので400里程になり、魏里では500里を越えるが、位置によっては辛うじて「四百餘里」と言えない事もないだろう。


 しかし、続く一文に「兵を出し寇を爲すごとに、すなわち西しては江夏り、東しては廬江りす」とある。この「從」も目的・経由地を示す「へ」ととるべきかもしれない。

 何れにしても、孫權が「東關に在り」て兵を出す場合、西は吳の武昌(江夏)郡から、或いは魏の江夏郡へ、東は吳の廬江郡から、或いは魏の廬江郡へ、であったという事である。ところが、東關は魏・吳どちらの廬江郡からも東にあり、西に江夏、東に廬江という場所としては相応しくない。


 更に読み進めば、「是の時 州軍 項に在りて、汝南・弋陽の諸郡、境を守る已み。(孫)權に北方之おそれ無く、東西に急有らば、軍を并せて相ひ救ひ、故に常に敗るること少なし」とある。項は地理志では梁國に屬すが、豫州の弋陽など淮南の郡を除いたほぼ中央に位置する。

 つまり、豫州の軍は淮北、州中部の項に在り、南方の汝南郡・弋陽郡は郡(州)境を守るだけであったから、孫權に「北方之虞」が無かった、と云う。しかし、州軍が項に在る事は兎も角、汝南・弋陽が境を守るだけであっても、東關の「北」方(西北)には合肥や壽春、魏の揚州があり、「虞」が無いとは言い難い。


 そして、記述は「逵 以爲おもへらくよろしく直道を開きて江に臨み、し權 自ら守らば、則ち二方に救け無く;し二方 救け無くば、則ち東關取る可し。乃ち屯を潦口に移し、攻取之計を陳す」と続く。

 江水に臨む「直道」を開通させて、孫權に自ら守らせれば、「二方」(廬江・江夏)を救援する事ができず、「二方」が救援する事がなければ、「東關」を取る事ができる、と云う。

 「若二方無救」は「二方に救援がなければ」と取れなくもないが、孫權が「在」り、「守」っている筈の「東關」を取る事ができるというのだから、「二方」からの救援という事であろう。

 従って、豫州軍が取るべき「東關」が淮南郡・廬江郡の東(東南)に位置しているというのは、豫州からの「直道」の意味、「二方」との位置関係から見てもおかしい。そもそも、東關を取るべきは豫州ではなく、揚州の筈である。


 また、滿寵傳に依れば、後に滿寵が「今所從道、背湖旁江、易進難退、此兵之窪地也。若入無彊口、宜深爲之備」と上疏し、曹休の帰途が阻まれる事を危惧している。

 実際に曹休は、吳軍が「從無彊口斷夾石」した事で、「徑至夾石、斬獲萬餘、牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械略盡。」という苦境に陥る事になる。この「無彊口」は滿寵傳集解に「夾石東南」などとするが、他書には見えず、正確な位置は不詳である。ただ、「夾石」に至る場所であるのは間違いない。

 その「夾石」は賈逵傳集解に「今桐城縣北四十七里北峽關。」とあり、臧覇傳に「張遼之討陳蘭、霸別遣至皖、討吳將韓當、使權不得救蘭。當遣兵逆霸、霸與戰於逢龍、當復遣兵邀霸於夾石、與戰破之、還屯舒。」とあるのと同地であろう。

 因みに同名の地が荊州江陵附近にもあった事が、王昶傳・潘璋傳に見えるが、これは無関係である。

 臧覇は皖に至り、逢龍・夾石で吳將韓當と戦い、舒に還ったとあるのだから、夾石は皖・舒間に在った事になる。舒は廬江郡に屬し、合肥南方、皖への経路の途中に位置するから、皖から合肥への帰途に当たる。

 呂蒙傳にも皖へ救援に向かう張遼が、その陥落を知り、夾石で兵を反した事が見える。確かに、この位置を「斷」たれれば、合肥方面への帰還が困難となるから、滿寵の危惧は当を得ている。


 しかし、その夾石を吳軍が断とうとするならば、西は大別山脈、北は魏領であるから、その軍は南から曹休軍と擦れ違うというのでなければ、濡須・東關など東の巢湖方面から向かうという事になる。或いは、いま少し江水の上流から、曹休軍の背後に回りこむという事も考えられるが、何れにせよ廬江郡東部を経由して、という事になる。

 ところが、賈逵が当初から東關に向かっていたのならば、本より、そうした事態に備える為であった筈で、滿寵が殊更に危惧する必要はない。

 従って、少なくとも滿寵が上疏した時点では、曹休の後背、夾石方面に備えるべき軍が存在しなかった事になる。となると、賈逵が東關に向かっていたというのも疑わしくなる。

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