「東關」考①

 「石亭の戦い」には諸々の問題、疑念があるが、賈逵以下の豫州軍が向かった「東關」が目下の問題となる。


 「東關」は通常、後年「東關之敗(東關之役)」と呼ばれる、孫權の死直後に吳の大將軍諸葛恪が魏の司馬昭等を破った戦いが行われた地と解されている。

 位置としては魏の揚州、淮南郡の南方、合肥東南の巢湖近傍で、『三國志集解』の賈逵傳には「東關、在今安徽和州含山縣西南七十里、濡須塢之北。」とあり、『新唐書』地理志に淮南道の廬州廬江郡の巢縣条に「東南四十里有故東關。」とある。唐代の含山縣は『元和郡縣志』に「含山縣、本歷陽縣地。」とあり、淮南郡東南の江水に程近い地である。


 『三國志』に見える「東關」は、賈逵傳を除いて、李嚴傳(蜀書十)の裴注に見える用例(「委君於者」)以外は全てこの地を指して使われている。また、孫晧傳(吳書三)の「晧出東關」以外は全て「東關之敗」に係わる用例である。

 また、『晉書』文帝紀(卷二)・石苞傳(卷三十三)・王裒傳(卷八十八孝友傳)にも同戦役に関する記述がある。

 但し、逆に言えば、孫晧傳の記述を除けば、地名としての東關は「東關之敗」以外では見えず、賈逵傳が唯一の例外という事になる。

 これは晉代(『晉書』)に於いても同様で、東關が次に見えるのは毛寶傳(卷八十一)の「寶進攻祖約、軍次東關、破合肥、尋召歸石頭。」という咸和三年(328)六月に当たる記述となる。この「東關」は同時に見える合肥・石頭という地名から見ても同地の事で間違いはない。

 『晉書』地理志(以下、地理志)では他に巴東郡条に「東關縣」が見えるが、巴東郡は梁州であり、明らかに別地である。因みに、その後、東關が見えるのは南朝梁代で、『(北)魏書』に見える梁初の中山王元英の南征時及び、梁末陳初(主として『陳書』)に集中している。

 この他、『晉書』宣帝紀(卷一)にも「東關」が見えるが、これについては後述する。


 賈逵傳に見える「東關」がこれ等の東關と同地であるとしたならば、賈逵の当初の経路はどのようになるであろうか。起点となるのは、「從西陽直向東關」とある様に「西陽」である。

 西陽縣は『續漢書』郡國志では荊州江夏郡に、地理志では豫州弋陽郡に屬している。これは魏代に江夏郡から、その東北部の弋陽郡が分立された際に、豫州に屬す事になった故である。

 魏代の弋陽郡は西に魏の荊州江夏郡、南に吳の揚州蘄春郡に接し、蘄春の南は江水を挟んで吳の荊州武昌(旧江夏)郡に対する。旧江夏郡はこの時点で魏(江夏)・吳(武昌・蘄春)に分かたれているが、江水・漢水が合流する地域に当たり、漢末から三国時代を通じて、魏・吳の接壌地帯となっている。その一部である弋陽郡は魏の対吳前線の一つである。

 豫州と荊州、そして、その東の揚州の界には大別山を擁する大別山脈が横たわり、弋陽郡はその西北に当たり、その南の蘄春郡が西南、合肥が屬す九江(淮南)郡が東北で、曹休が目指す皖(廬江郡)は東南、丁度、西陽とは正反対の位置にある。


 この弋陽郡、「西陽」から東關に向かうとすれば、その経路はほぼ東であり、大別山脈の北を行き、おそらく合肥を経由して、東南の巢湖方面に向かう事になる。

 この経路は、曹休が壽春、或いは合肥からやや西寄りに南下して皖へ、司馬懿が宛からほぼ真直ぐに南下し、恐らくは襄陽を経由して江陵に向かうという経路と比較して異質である。

 更に言えば、この経路では曹休と賈逵の経路は合肥周辺で交差する事になる。

 この進路に意味を求めれば、皖(廬江郡)方面に侵攻する曹休の側背となる巢湖周辺への吳の進出を防ぐという事になるであろうが、豫州から賈逵の軍を以てする必然性については疑念が残る。

 或いは、それを為さなければならないほどの大軍を、曹休が揚州・徐州方面から動員したという事だろうか。


 更に不審なのは、賈逵傳に「逵至五將山、休更表賊有請降者、求深入應之。詔宣王駐軍、逵東與休合進。」とある如く、賈逵が「五將山」に至った時点で、曹休の上表を受けて、賈逵に下された詔命が「東與休合進」、つまり「東」に向かい曹休と合流せよ、であった事である。なお、この「賊有請降者」というのは、吳の鄱陽太守周魴の事であるが、ここでは措く。

 東關へ向かっていた賈逵は「合進」する予定は無くとも、本より「東」していた筈である。であれば、「與休合進」は兎も角、「東」せよという命令は不要である。従って、「東」が衍字など、何らかの誤りでなければ、賈逵は当初、「東」以外に向かっていたという想定が生じる。


 そこで着目すべきは、滿寵傳(魏書二十六)の「秋、使曹休從廬江南入合肥、令寵向夏口。」という記述である。

 なお、この「從廬江南入合肥」を「廬江り南して合肥に入り」と読むと、廬江と合肥の位置関係に疑念が生じるが、これは既に見たように「從」は目的・経由を取る事があるので、ここでも「廬江(向い、)南して合肥に入り」とでも読むべきであろう。

 この読み方に従うと、賈逵の「從西陽直向東關」も、「西陽(向い、)東關に直向する」と読む事もできる。つまり西陽を経由して東關に向かうという事になる。

 この場合、賈逵の起点が不分明になり、西陽を経由する事が「直向」と言えるのかという問題が生じる。ただ、「直向」については兎も角、後述する様に賈逵の起点が西陽ではないという可能性もある。

 因みに、滿寵傳の集解で胡三省は「逵自豫州起兵、西以向東關。」と解釋している。しかし、西陽は魏の縣である筈で、「取」るのは不審である。更に「休自壽春向皖、西陽在皖之西、而東關又在皖之東、今與休合、蓋使合兵向東關也。」とも続けており、「(曹休と)兵を合わせて東關に向かう」のでは、曹休がどこに向かっているのか不明で、まったく意味が通らない。


 ともあれ、ここで問題とすべきは「令寵向夏口」とある「夏口」である。夏口は地理志の武昌郡沙羨縣に「有夏口、對沔口、有津。」とあり、江水に漢水が合流する沔口(漢口)に相対する江水南岸の津である。

 武昌郡は漢代の江夏郡の江水南岸で、吳が改名している。但し、「夏口」は江水西・漢水北に在る後代の漢口、地理志に見える「沔口」を指す場合もある。この記述がどちらであるのか判然としないが、概ね同位置と言ってもよく、西陽からはやや西寄りであるがほぼ南に位置する。

 滿寵は賈逵傳に「逵督前將軍滿寵・東莞太守胡質等四軍」と、賈逵の督下にあり、当然ながら行動を倶にしていた筈である。すると、賈逵が向かっていたのも夏口でなければならず、その進路は曹休・司馬懿と同じく、南下するものであったという事になる。

 強いて他の可能性を言えば、賈逵が東關(東)へ向かう一方で、滿寵を「」て夏口(南)へ向かわせたという事になるが、それを「督」したと言うのかという疑念が残る。

 となると、賈逵も南に向かっていた事になり、「東關」も西陽の南でなければならない。

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