「石亭」疑案

灰人

「石亭」疑案

 魏の太和二年(228)、吳の黄武七年に魏と吳の間で行われた戦いは、翌年の孫權の称帝、名実共に三帝が鼎立する切っ掛けとなったとも言え、三國時代の一つの画期とも言える戦いである。しかし、同年前半の諸葛亮の北伐、所謂「街亭の戦い」に比して、言及される事が少ない。

 陳壽撰『三國志』に於けるその記述には諸々の疑問、不明瞭な点があるが、今日に於いては、史料上の制約から、その実態を審らかにする事は困難である。そこで、不審点を挙げ連ねていく事で、僅かなりともその実像を照らし出してみたい。


 なお、この戦いは、『三國志』魏書(明帝紀)・同吳書(吳主傳)共に「於石亭」と記されており、「石亭の戦い」と呼ぶのが妥当かと思われる。

 「石亭」の正確な位置は不明だが、『三國志集解』に「一統志:古石亭在今潛山縣東北。」とあり、この「潛山縣」は当時で言えば、皖縣(廬江郡)に当たる。

 従って、全体としては「皖の戦い」と言ってもよいが、その最終局面での戦いが「石亭」であり、基本的にそちらを用いる。


 先ず、事の順序として、戦いの概要を簡単に触れておく。


 「石亭の戦い」について、明帝紀の記述は、以下の如く、簡潔なものである。


 秋九月、曹休率諸軍至皖、與吳將陸議戰於石亭、敗績。


 これだけでは曹休が皖(石亭)に至って吳の陸議に敗れたというのみで、そこに至る経緯は全く不明である。

 なお、吳主(孫權)傳では「秋八月、權至皖口、使將軍陸遜督諸將大破休於石亭。」とほぼ同様の内容を伝えるが、曹休の敗退が「八月」となっている。これは「(孫)權至皖口」が八月であり、曹休の撃破自体は九月であったと思われる。何れにせよ、経緯は判然としない。


 当事者たる曹休の傳には以下の如く、前後の経緯がある程度記されている。

 なお、文中の「帝」は明帝(曹叡)、「司馬宣王」は司馬懿であるが、「督休」とある部分は、司馬懿が漢水を下り、「(曹)休諸軍」を督して尋陽に向かうでは、状況としておかしく、「二道」にもならないので、「休督」の誤記で、司馬懿・曹休が並記されていると見るべきである。


 太和二年、帝爲二道征吳、遣司馬宣王從漢水下、督休諸軍向尋陽。賊將偽降、休深入、戰不利、退還宿石亭。軍夜驚、士卒亂、棄甲兵輜重甚多。(魏書九曹休傳)


 この時点で曹休は大司馬・都督揚州(諸軍事)・揚州牧であり、軍事面及び、廷臣としての首座を占めており、司馬懿は驃騎大將軍・(都)督荊・豫二州諸軍事で、両者はほぼ同格であるが、名義上は曹休が格上である。その点でも、司馬懿が「督休」というのは有り得ない。


 さて、明帝は「漢水り下」る司馬懿と、「尋陽へ向」う曹休との「二道」によって、「征吳」を為さんとしている。曹休傳の記述からは両者の起点が不明だが、司馬懿については『晉書』宣帝紀に「太和元年六月、天子詔帝屯于宛」とあり、前年の時点で南陽郡の宛に屯している。宛縣は淯水を経て、漢水に通じており、「漢水從り下る」事ができる。

 曹休に関して明記は無いが、曹休は揚州牧であり、揚州の治は基本的に壽春で、その南方の合肥は前線の拠点であるから、このどちらかであろう。後に見る様に、滿寵傳に「南入合肥」とあるので、合肥北方、つまり壽春と見るのが妥当である。向かう先の「尋陽」は廬江郡の南西、江水の縁辺に近い地で、西の江夏郡、南の豫章郡との交に当たる。

 従って、「二道」というのは、宛から淯水・漢水を下って荊州中部(南郡・江夏郡)へ向かう司馬懿と、壽春から合肥を経由して廬江郡を西南に向かう曹休の東西二軍を云っている。


 ところが、魏はこの「二道」以外にも軍を動かしており、それが賈逵傳の以下の記述である。


 太和二年、帝使逵督前將軍滿寵・東莞太守胡質等四軍、從西陽直向東關、曹休從皖、司馬宣王從江陵。(魏書十五賈逵傳)


 この「從西陽直向東關」という賈逵以下、滿寵・胡質等「四軍」が言わば第三の「道」という事になる。この第三「道」は豫州刺史賈逵が「督」しており、前將軍滿寵は豫州の汝南太守でもある。

 「四軍」は滿寵・胡質に賈逵自身の軍を含めても、もう一軍が不明であり、徐州の東莞太守胡質等が参加しているが、軍は豫州軍を主体として編成されていたと思われる。

 豫州は曹休の揚州と、司馬懿の荊州の間に位置し、この軍は中路軍とでも言うべきであろう。但し、主將である賈逵は豫州刺史(四品;以下官品は『通典』に依る)に過ぎず、大司馬曹休・驃騎大將軍司馬懿(共に一品)に比べ明らかに下であり、徐州軍(胡質)が加わっている事からも、輔翼的な軍であったと思われる。

 この軍は「直向東關」とあるように「東關」へ向かったとされている。なお、曹休は「從皖」、司馬懿は「從江陵」とあるが、この「從」を「り」と起点として読むと、曹休・司馬懿は吳領である筈の皖・江陵から何処かへ向かった事になり明らかにおかしい。この場合は目的地・経由地として見るべきだろう。


 この魏軍の侵攻に対する吳の対応が以下の如く、吳書陸遜傳に見える。なお、「七年」とは、吳の紀年「黄武」によるものであり、同傳に「(陸遜)本名議」とある様に、明帝紀に見える「陸議」は彼の事である。


 七年、權使鄱陽太守周魴譎魏大司馬曹休、休果擧眾入皖、乃召遜假黄鉞、爲大都督、逆休。休既覺知、恥見欺誘、自恃兵馬精多、遂交戰。遜自爲中部、令朱桓・全琮爲左右翼、三道俱進、果衝休伏兵、因驅走之、追亡逐北、徑至夾石、斬獲萬餘、牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械略盡。(吳書十三陸遜傳)


 諸傳を勘案すれば、魏(明帝)は司馬懿・曹休の「二道」に加え、賈逵以下の將を以て「征吳」を為すが、吳の周魴が「偽降」によって曹休を「いつわ」り、それを受けた曹休が進軍して「皖」に入ったので、孫權は陸遜を「大都督」に、朱桓・全琮を「左右翼」として迎撃し、これを撃破した、となる。

 補足すれば、この周魴の「偽降」は吳主傳の黄武七年五月条に「鄱陽太守周魴偽叛、誘魏將曹休。」として見える。従って、「二道征吳」はこれ以前から実行されていた事になる。ただ、この記述は孫權が周魴に命じた時点である可能性もあり、曹休が周魴の「降」を受けたのは、これ以降であるかもしれない。

 曹休傳では曹休の向かった先が「尋陽」になっているが、これは皖の西南であり、その経路の先に位置する。逆に言えば、皖は尋陽への途上にあるという事になる。戦いが行われたのが、曹休傳では「石亭」以前、陸遜傳では「夾石」以前となり、細部に違いはあるが、概略としては以上の如くになる。

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