第7回 坂本龍馬暗殺犯の推測
だいぶ近代に話が偏ってきたので、少し前の幕末にスポットを当てます。
日本史において「邪馬台国論争」、「本能寺の変の真相」と共に「日本史三大ミステリー」とも言われる「坂本龍馬暗殺犯について」が、今回のテーマ。
まずは、状況説明から。
土佐藩出身の志士、坂本龍馬が暗殺されたのは、慶応3年(1867年)11月15日。
暗殺された場所は、京都の「
龍馬はその日、陸援隊の隊長で盟友でもある、中岡慎太郎と一緒に、近江屋の二階に滞在していました。
夜の8時頃。龍馬と慎太郎が話していた時に、
下の階にいた、近江屋の
龍馬も慎太郎もこの時、帯刀しておらず、龍馬は額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害されています。
慎太郎はしばらく生きていましたが、その後絶命しています。
この「十津川郷士」が問題の暗殺犯なのですが、これが相当「怪しい」ことがわかってます。
坂本龍馬暗殺に関しては、ざっくり大まかな説は、以下の四つに分けられます。
①新撰組
②
③薩摩藩
④その他
このうち、現在では②の見廻組説が濃厚とされています。
まずは、①の新撰組説から。
新撰組は、歴史上、有名な幕末の幕府側の「剣客集団」で京都の治安維持に務めていました。つまり、「反幕府」の立場の龍馬をつけ狙うには、一番疑われやすいんですが。
当初は、この「新撰組」が一番怪しいと言われていたらしいです。
ただし、この説を主張したのが、龍馬と同郷の土佐藩出身の
つまり、簡単に言うと「どうせお前らがやったんだろ」という憶測に近く、実際に谷干城は新撰組を極端に恨み、流山(現在の千葉県)で局長の近藤勇を捕らえた時、一方的に龍馬暗殺に関与した、と私怨に近い形で、ロクに取り調べもせずに近藤を「斬首」しています。
その上、さらに同じく新撰組の大石
また、襲撃犯が「こなくそ(この野郎)」という四国訛りを話していたため、伊予松山藩出身の新撰組隊士、原田左之助も疑われましたが、原田は関与を否定しています。
以上によって、
「新撰組はないと思う」
のです。
②見廻組説。
これが現在、一番有力とされているのですが。
実はここにも「落とし穴」があります。
見廻組は、新撰組と共に、京都の治安維持を担った幕臣の組織でした。
そのうちの今井
翌明治3年(1870年)3月。龍馬暗殺の「刑事犯」として、
その時、彼は見廻組の隊長である「佐々木
つまり、これが現在「定説」と言われている説ですが。
ところが。
実は、刑が軽すぎるのです。龍馬暗殺に、さらに戦犯扱いなら、死刑でもおかしくないはずなのに、この今井信郎は明治5年(1872年)に、あっさり特赦放免されてます。
それに、当時の法務大臣に当たる役職には土佐藩の佐々木
さらに、西郷隆盛の「家伝」があり、それによると、
「西郷は裁判中、今井の助命に奔走した」と書いてあるそうです。
つまり、「薩摩藩が真犯人で、
という推論が立ちますが、あくまでも推測に過ぎません。
そこで、③薩摩藩説。
実は昔から薩摩藩説はありました。そもそも薩長同盟によって、確かに倒幕には向かったけど、大政奉還によって、倒幕の大義名分を失ったのは、薩摩藩だったのです。つまり、薩摩にとって、龍馬は『邪魔な存在』だったというわけ。
ところが、西郷隆盛は、幕末の頃は確かに「目的のためには手段を選ばない、マキャベリスト的な一面があった」とされていますが、己の保身や栄達のために、策を講じるようなところはなく、むしろ維新後は政治的な策略をしていない、と言われています。
それがために、西郷は盟友の大久保利通に追い込まれ、西南戦争で自害しているのですが。
そこで、怪しいのは、西郷の側近の
もちろん、これには証拠がありませんが。
そして、④その他説。
これについては、諸説あり、ひどいのになると、フリーメイソン陰謀説まであるらしいですが、明らかに
事件の10日前の11月5日。
坂本龍馬は、岩倉
しかも、その頃、西郷隆盛は京都にはいなかったのです。
実質的な薩摩藩の指導者だった西郷がいないのに、薩摩藩が動くだろうか、という推測が立ちます。
一方で、龍馬が出したとされる「船中八策」の建白書。これには「徳川
さらに、海援隊の中島
海援隊は、もちろん龍馬が作った組織で、中島信行はその中枢にいた人物です。
その女中が言うには、
「暗殺犯は、逃げる途中に、薩摩弁を話していた」
と言っていたそうです。
また、事件の前々日に、元・新撰組の伊東
ただ、これは恐らく、「新撰組が狙っている」と嘘の情報を流したカムフラージュだったと思います。実際には、この時、伊東らが龍馬暗殺を計画していたのかもしれません。
そこで、やはり怪しいのは岩倉具視。岩倉という男は、目的のためには手段を選ばない男で、汚いことは何でもやった、と言われています。
有名なのは、薩長を勝たせるために「錦の御旗」を偽造して、嘘の御旗を作ったというもの。
ここからは、あくまでも私の推論ですが、私は、岩倉が薩摩藩士になりきった、
御陵衛士というのは、新選組を脱退した、伊東甲子太郎が作った組織ですが、実はそいつらのバックには、薩摩藩がいたということが明らかになってます。
さらに怪しいのが、御陵衛士の中に、
つまり、岩倉は、したたかな男だから、自分に『足がつかない』ように、薩摩藩を利用しようとした。でも、薩摩藩も利用されるだけじゃ
あたりが、一番しっくりきます。
ただ、さすがに富山一人で暗殺は無理なので、富山の他に、同じく御陵衛士の阿部十郎という男も怪しいので、他にも御陵衛士がいたのかもしれません。
ちなみに、阿部十郎は中村半次郎と知り合いで、戊辰戦争では薩摩藩の中村半次郎に属し、鳥羽・伏見の戦いなどに参加して戦ったそうです。
御陵衛士は、隊長の伊東甲子太郎を含め、15名ほど。その伊東甲子太郎は、龍馬暗殺からわずか3日後の11月18日に、新撰組によって襲撃されて殺され、御陵衛士は実質的に解散し、残党のほとんどは薩摩藩邸に逃げ込んだと言われています。
とにかく、真相はわからないまでも、私は岩倉具視あたりが一番怪しい黒幕だと見ています。
推理小説や警察の捜査でよく言われるのが「殺人事件において、一番怪しいのは、被害者が死んだことで最も得をした人物」だそうです。
岩倉が維新後に栄達していることからも、怪しいと思うのですが、恐らく証拠は出ないでしょうね。
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