第6回 インドネシアと日本人の名将軍
何だかずっと近現代ばかり扱ってる気がしますが。
実は大学時代に私が先攻していたのは、「中世の日本史」。つまり、戦国時代辺りが一番詳しいのですが。
ただ、勉強している間に、近現代にも興味を持つようになりました。
今回もまた、「教科書に載ってない」歴史の光の部分。
よく、戦前の日本軍は「占領したところの現地民を酷使して、散々苦しめた」ということを聞きますが、そうした側面が「全くなかった」とは言いません。
ただ、それ以外に素晴らしい日本軍人がいたことも事実。
今回、紹介するのは、そんな人物。
今村家は、仙台藩士の家系で、今村均も仙台で産まれています。
その彼を有名にしたのは、太平洋戦争の初戦。
第16軍司令官を拝命し、開戦時はオランダ領東インド(現インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮しています。
そして、この蘭印作戦を成功し、占領した後。
オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放して資金や物資を援助。さらには現地民の官吏登用等独立を支援する一方、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮しています。
攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校を建設したり、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めたりするなど現地住民の慰撫に努めたのです。
かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行ったんですが。
実はこれが「ありえない」くらいすごいのは、当時、オランダを始め、ヨーロッパ人の植民地支配というのは相当ひどいものでした。
つまり、「現地人をいじめる」、「自由に働かせない」、「産業も支援しない」のが当たり前。これには「白人優位説」、「黄色人種の差別」の意味合いも入ってますが。
それをあっさり覆して、インドネシアを復興し、しかも支配側のオランダ人でさえ寛容に扱う。
それはまさに前代未聞の植民地政策でした。
その一方で、日本では衣料が不足して配給制となっており、日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきますが、今村は何とこの要求を拒否。
今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという、現地民の宗教心まで傷つけると考えたとされています。これは政府や軍部などから強烈な批判を浴びましたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告し、ジャワの軍政を賞賛しています。
また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌『インドネシア・ラヤ』が、ジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配ったりしています。
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を「軟弱」だと批判する者も多くいて、1942年(昭和17年)3月には今村とは親しい仲だった参謀総長・杉山
実際、陸軍中央の今村の軍政に対する批判は根強く、総理大臣兼陸軍大臣の東條英機が、状況調査のため軍務局長の武藤
この時、武藤は今村に「シンガポール同様、強圧政策が必要」と説いた(シンガポールは日本軍に占領されていたが、圧政を敷いていた)が、今村は日本軍の「占領地統治要綱」に定めてある「公正な威徳で民衆を悦服させ、軍需資源施設を破壊復旧する」という規定に則っていると反論し、激しい議論が交わされました。
武藤との議論が平行線となった今村は富永に「昨年、大臣の名を以て全陸軍に布告された『
このように、今村軍政の元、インドネシアでは非常に宥和的な政策が取られ、そのことが原因で、戦後にインドネシア独立戦争が起こった時、現地にいた日本軍がインドネシア軍に参加して一緒に戦ったとされています。
この辺りは、映画「ムルデカ17805」を見ればわかります。
その今村は、後にラバウルに移り、終戦。オーストラリア軍の有罪判決により、東京の巣鴨拘置所服役を申し渡されるも、多数の部下が移送される、パプアニューギニアのマヌス島に移ることを希望。
結局、マヌス島に移った後、巣鴨に移りますが、1954年に刑期満了で出所。その後は防衛庁の顧問などをやり、1968年(昭和43年)に82歳の長寿で亡くなっています。
この今村を評価した新聞が残されています。
1942年(昭和17年)3月10日(陸軍記念日)付の『読売新聞』の記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」、「人情将軍今村中将」と評されています。
また、当時、出征した 漫画家の水木しげるは、兵役でラバウルに居た際に視察に来た今村から言葉をかけられたことがあるそうです。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評しています。
日本軍人=全員悪人(アウトレイジか?)というのは、あくまでも「戦後の左翼教育が影響」しているわけで、そうではない人がいたことも、本当は教えるべきだと思うのですが。
今村均。もっと知られてほしい人物です。
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