第5回 北海道を守った男たちの戦い

 今年もやってきました。終戦記念日、8月15日。


 今回は、この終戦にちなんで、絶対に「教科書には載ってない」話を紹介します。


 太平洋戦争時、樋口ひぐち季一郎きいちろう(1888~1970)という軍人がいました。


 今回は、この樋口季一郎さんが主人公。

 兵庫県淡路島で産まれた樋口。


 彼を一躍有名にさせた事件が「オトポール事件」と言います。

 

 1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘やすえのりひろ陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣しています


 この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス政権下のドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びたとされています。


 そうした状況下で、翌1938年(昭和13年)3月、何千人というユダヤ人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていました。


 しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満洲国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていました。


 極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、部下であったハルビン憲兵隊特高課長の河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。


 さらに膠着状態にあった出国の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行っています。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国でしたが、樋口は南満洲鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させています。しかし、この具体的内容については異説も多いほか、そもそもこのようなことが実際にあったのかを疑問視する声もありますが。


 ユダヤ人を救った日本人として一番有名なのは、杉原千畝ちうねだと思いますが、樋口もまたユダヤ人を救った一人と言われています。


 そして、ここからが重要。


 1945年(昭和20年)8月15日、12時。


 いわゆる玉音放送によって、5年も続いた太平洋戦争は「終結」します。そう、終わった「はず」でした。


 ところが、同日、ソ連軍はカムチャッカ州ペトロパヴロフスク海軍基地で作戦行動開始。兵士が乗船しています。


 彼らが向かった場所が「占守しゅむしゅ島」。


 「それ、どこやねん?」って人が大半だと思いますが、カムチャッカ半島のすぐ近く、千島列島の一番北の端で、北海道からもはるかに離れています。


 現在でもほとんど人が住んでいない、まさに絶海の孤島に等しい、寒い場所です。


 が、当時、日本軍は陸軍第5方面軍が、樋口季一郎中将の元、約2万5000人(実質的な動員兵力は8500人ほどだったとも)の兵士が守っていました。


 元々、日本の軍部は対米作戦の一環として、アメリカに備えるためにここに兵力を置いていましたが、当然、8月8日に、日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦してきたソ連に対する備えもあったでしょう。


 しかし、そんな彼らでさえ、終戦を迎え、これでやっと本土に帰れると安堵していたのです。


 8月17日午後、北千島守備隊司令部は16日の大本営からの停戦命令を受け、幌筵ほろむしる島の柏原に各部隊長を集め、会同を開いています。この時、翌18日16時をもって停戦とされ、ただしやむを得ない場合の自衛戦闘は認められる、と決められたそうです。


 8月18日午前2時半頃、占守島竹田浜という浜に突如、正体不明の軍が上陸、攻撃を開始。当初、日本軍は米軍が襲ってきたと思ったそうです。


 当然、日本軍は自衛戦闘を開始。


 以降の詳細は、長いので割愛します。詳しく知りたい方はWikipediaやYou Tubeで「占守島の戦い」を検索して下さい。今ではいっぱい出てきます。


 特に有名なのは、四嶺しれい山の戦闘で、陸軍戦車隊を率いていた池田末男すえお大佐が、戦車隊を率いて果敢に突撃、戦死しています。


 その池田末男の戦車第11連隊にちなんで、今でも陸上自衛隊第11旅団(北海道札幌市・真駒内駐屯地)隷下の機甲部隊である第11戦車隊(北海道恵庭市・北恵庭駐屯地)は、この池田が指揮した帝国陸軍戦車第11連隊の隊号「11」と愛称「士魂しこん」を引き継いで「士魂部隊」と呼ばれているそうです。


 それはともかく、何とかソ連軍を撃退した日本軍。


 下手をすればここで負ければ、ソ連軍は北海道まで進軍して、上陸し、占領され、今頃北海道はソ連(ロシア)の物になっていた可能性もあります。


 そうすると、北海道産まれの私なぞ、そもそもこの世に産まれてなかった可能性すらあるので、こうした偉大な先人のことを、学校で教えるべきだと思うのですが。


 ちなみに、1945年2月のヤルタ会談で結ばれた秘密協定で、ソ連が日本との戦争に参戦すること、その場合は戦後、北緯50度線以南の樺太南部(南樺太)などをソ連に返還し、千島列島については引き渡すことが米ソの間で、決められていたと言われています。


 もっとも、8月15日にアメリカのトルーマン大統領が、ソ連のスターリン首相に送った日本軍の降伏受け入れ分担に関する通知では、千島列島についてソ連の分担地域とは記されていなかったとされています。


 そのため、ソ連側は千島列島及び北海道北東部をソ連担当地区とすることを求め、アメリカも17日付の回答で北海道北東部については拒否したものの千島列島については同意したと言われています。


 まあ、どちらにしろ、アメリカもソ連もしたたかで、一歩間違えば今の北海道はなかったと言える紙一重の状況でした。


 とにかく、この樋口季一郎、池田末男らの奮戦によって、占守島自体の戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立します。


 23日に日本軍は武装解除されていますが、捕虜となった日本兵はその後多くがポツダム宣言の趣旨に反する形で連行され、シベリアへ抑留されたというのが、実に悲しい歴史の悲劇です。


 今の日本人にもっともっと知って欲しい、北海道を取り巻く悲しい、そして勇ましい歴史の記録です。

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