第17話
自衛隊の指揮所で激論が交わされているのと同時刻、多くの機動隊員を受け入れて野戦病院と化した丸田病院の重傷患者ベッドに、晴矢警視が横たわっていた。
病院内は周辺の病院から集結した医師看護師や救急隊員たちが忙しく走り回っており騒がしいが、治療を終えた重傷患者のために用意されたこの病室は、看護師もほとんど立ち入らないために静かだ。
冷たい沈黙の中に、生命維持装置の鳴らす電子音だけが聞こえる。
清潔なベッドに身を横たえた晴矢の白い肌は所々が黒く煤けていて、その綺麗な顔には僅かな苦悶が浮かんでいた。
レースのカーテンから差し込む月明かりが、病室に花模様の影を落としている。
こんこんと眠る晴矢の傍では、見舞客用の丸椅子に座った楽一警部が、祈るような表情で晴矢の寝顔を見つめていた。
本来なら、常に清潔でなければならない重傷患者用の病室に見舞いなど簡単ではない。だが、多くの警察官を収容した結果として院長すら治療に駆けずり回っている丸田病院の指揮系統は、ほとんど警視庁側が握っている。
止めに入る余裕がある看護師などすでにおらず、警視庁に所属する楽一が重傷患者用の病室に入るのはさして難しくなかった。
楽一が見舞いに到着してから数時間が経過し、時刻が十二時を回る頃、晴矢はゆっくりと目を開ける。
金色の瞳が周囲を見回して楽一の姿を目に映すと、酸素マスクに覆われた唇が微かに開いた。
「楽一、どうして」
晴矢は、そこで深く考え込むように一呼吸置く。
「泣いてるんだ?」
晴矢の金瞳に映る楽一は、押し殺したような表情で泣いていた。
塩の混じった水滴が楽一の頬を伝って、煤で汚れた乱闘服に落ちる。
「すみません。あの時の」
直後、晴矢の表情がすっと硬くなった。
「お前が何について謝ったのかは分かっている。その上で命令する。お前は謝るな。私が惨めな気分になる」
晴矢は鋭い口調で楽一の言葉を遮る。
「っ……すみません」
「だから謝るなって」
晴矢は酸素マスクに覆われた唇に優しげな笑みを浮かべた。
「だが嬉しいよ。まさか私の見舞いに来てくれるとはね」
「大切な仲間ですから」
「尊敬する上官が殉職する原因を作った仲間でもかい?」
自嘲と悪意の混じった晴矢の言葉に、楽一は傷付いたような顔をした。
「ごめん。ちょっと意地が悪かったよ」
そんな楽一の様子に、晴矢は謝る。
「いいんです。やはり自分は、あなたに許されるべきじゃない。自分の練度不足で上官を殺し、精神的弱さからあなたに責任を押し付けた俺が許されるなら、我々警察の仕事なんてありませんよね」
楽一はそう言って立ち上がった。
「俺は、これから第32戦闘団司令部に向かいます」
戦闘団。国内の組織では自衛隊のみが使用しているその呼称に、晴矢は自衛隊に対して治安出動が発令されたことを察した。
「自衛隊との重要な協議があったというのに、あなたの見舞いを優先してしまいました。あの日のことを、どうしても赦して欲しかったからです。大勢の国民と同胞の命がかかっているのに。本当にバカですよね。俺」
「っ……」
晴矢は絶句した。このまま楽一に去ってほしくないという思いが胸を締め付けるのに、言葉が出てこない。
「どうか嗤ってください。それでは晴矢警視、失礼します」
楽一は敬礼して晴矢に背を向けた。
「待ってくれ!」
なんとか絞り出されたその声にも、楽一は足を止めない。楽一がドアノブに手をかけたまさにその時、彼の背中にどさっと衝撃が走った。
「晴矢警視?」
「動くな。少しでいいから、ここにいてくれ」
緑がかった白の病衣を着た晴矢が、楽一に後ろから抱きついていた。
柔らかな体の感触が楽一の背中を撫でて、楽一は驚きと緊張に息を止める。
数秒の沈黙。力強く楽一を抱きしめていた晴矢の腕からふっと力が抜けて、彼女の体は楽一の背中を崩れ落ちていく。
楽一は正面から晴矢を抱き支えた。
力では楽一よりも晴矢の方がずっと勝っているのに、楽一の抱きしめた晴矢の体は硝子細工のように華奢だった。
「ちゃんと寝ていないと、傷口が開きますよ」
楽一は緊張に乾いた唇でそう言う。
「寒いな」
晴矢はぼんやりとした表情で呟く。
「早くベッドに戻ってくださ」
「あの日みたいだ」
楽一の目が見開かれた。
「長田県警が懐かしいな。冬は寒かったけど、自然豊かな心地よい職場だった。それに、優奈隊長もいた」
「そうですね」
「戻りたい。また会いたいよ。楽一。今の私なら優奈隊長を死なせなかった。大切なものをちゃんと守り抜けた。それなのに、またこれだ。また仲間を死なせた。なぜだろうな。どれだけ強くなっても、大切なものを守り切るには足りない。どこまで強くなれば、喪失から逃れられるんだ?なあ、教えてくれよ楽一」
晴矢は弱音を吐く。
「分かりません。それを知っていれば、俺もあなたを傷付けたりなどしなかった。でも……。いえ、一つだけ教えてください。……俺は、あなたの大切なものに含まれますか」
楽一は緊張と恐怖を感じつつも聞いた。
晴矢は意表をつかれたように固まると、ためらいがちに頷く。
微かに聞こえ始めたヘリコプターの音が、少しずつ近づいてくる。どうやら、なかなか来ない楽一に痺れを切らした自衛隊が、迎えを寄越したようだ。
「どうやら迎えが来たようです」
楽一は晴矢の肩を抱きしめながら、そう言う。
「帰ってこれるよな?」
「当然です。テレビか何かで見ていてください。犯人のドアップが全国に生中継される時、画面の端に俺の顔も写っているかもしれません」
その言葉に、晴矢は少し笑顔を浮かべた。
「楽しみにしているよ」
「それと、もし生きて帰ってこれたら」
「なんだ?」
「……あの日言い損ねてしまった続きを、言ってもいいですか?」
楽一は、顔を赤くしつつそう言う。二人の間に、長い沈黙が降りる。
「あ……ああ。楽しみにしているよ」
そういう晴矢の顔は真っ赤だった。
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