第2話

 警視庁警備部は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


「現場の状況は?」「警備員一名と教員一名が死亡、犯人の学生らは少なくとも五人とのことです!」「犯人が銃器を持っているため、パトカーの侵入ができません!」「死者は本当に二名だけなのか?」「大学近くの丸田公園に左派系の学生たちが集結しているとの情報あり!」「警邏隊に問い合わせ中です!」「第一機動隊に出動用意を整えさせろ!」「現場には人質がいる可能性が高いです。下手に犯人を刺激すれば大惨事になります!」


 情報が錯綜し、制服の警官たちが事務所の中を走り回る。誰一人として適切な判断を下すことができない状況に、焦りだけが募っていく。


 一つ一つの決断に責任が伴うのはどの組織でも変わらないし、下手をすれば路頭に迷いかねないような重い責任を率先して背負える者など稀だ。


 情報が混乱していれば判断はさらに難しくなる。その上、警備部の最高責任者である警備部長は、現在警視総監に呼び出されていて不在。


 警察のような縦社会で、責任者不在という状況がどれほど深刻な事態を招くのかなど想像に難くない。


 混乱が限界を越えそうになったその時、一際大きな声が警備部の中に響いた。


「とりあえず落ち着け。第一、第二機動隊、銃器運用部隊は直ちに出動。特科車両隊も放水車を一個中隊出してくれ。それと全機動隊は即応体制を整えて待機だ」


 警備部の警官たちは、一斉に口を閉じて部屋の入口に目線を向ける。


 そこには、六十代ほどの年老いた警官が立っていた。


 彼はゆっくりとした足取りで部屋の一番奥へと向かうと警備部長の席に腰を下ろす。


 彼の名前は高岳功。


 階級は警視長で、第44代警視庁警備部長の任を拝命してから四年目、警察に入ってからは四十年以上のベテランだ。


 もう一年もしないうちに定年が来る老警察官だが、制服の着こなしと眼光の鋭さは第一線で命を張って働く警官のそれだった。


「高岳警視長。機動隊は全て大学に向かわせますか?」


 警官の一人が高岳警視長に聞く。


「いや。第二機動隊と放水車六両は、大学ではなく丸田公園に向かわせろ。大学に行くのは第一機動隊と銃器運用部隊、それに放水車二両だ」


 高岳警視長は、年の割に明瞭な口調で命じる。


「銃器運用部隊は必要ですか?」


 壮年の警官が少し嫌そうな表情で聞いた。口調にも銃器運用部隊に対する不快感と不信感が滲み出ている。


「現場には人質がいる可能性が極めて高い。当然だろう」


 高岳警視長は特に表情を変えることもなく言った。


「丸田公園に集結している学生というのは真偽不明です。警邏隊に確認させてから第三か第四機動隊でも出動させれば問題ないのでは?」


 若い警官が、パソコンから顔を上げて高岳警視長に聞く。


「念の為だ。別にいなけりゃいないで、丸田公園から大学までは十分もかからない。そのまま向かえばいいだろう。それと、交通課の方に交通規制も命じておけよ。さっ、早く仕事を始めるんだ」


 その声に、あれほど慌てていて頼りなかった警官たちは一斉に動き出した。


 命令がないと脆いのは縦社会の弱点だが、命令とある程度のマニュアルさえあれば、その実行において縦社会の右に出る組織はない。


 公安警察や警邏隊が情報収集に奔走し、交通機動隊が迅速に大学周辺の道路を封鎖した。


 機動隊の駐屯する警察署では、当直の機動隊員たちが乱闘服を着て防護盾を持ち続々と人員輸送車に乗り込んでいく。


 そこに緊急招集された非番の隊員たちもちらほらと合流し始めた。


 全ての情報は固いセキュリティに守られた通信ネットワークを通じて警視庁警備部へと集約され、警備部長の高岳警視長を中心とした指揮本部が、膨大かつ正確な情報に基づいて最適な判断を下す。


 だが、マニュアルを完璧にこなしても、事件が会議室ではなく現場で起きている以上、全てが順調とはいかない。


 ここでも、予測不能なトラブルが警察の前に立ちはだかった。


「銃器運用部隊は出動できないとのことです!」「何故だ!」「北海島にて警察航空隊と演習中とのこと!」「ならば直ちに呼び戻せ!」「どんだけ距離があると思っているんですか!すぐには無理です!」


 高岳警視長が出動を命じた『警視庁銃器運用部隊』とは、銃器犯罪に対処するため設立された警察特殊部隊だ。


 これまでも、各機動隊には銃器犯罪への対応を行う部隊としてライフル隊が存在していたが、それらの部隊は射撃に秀でた隊員に狙撃用のライフルを支給しただけの臨時編成部隊で、慢性的な練度・装備不足に悩まされてきた。


 そこで一部機動隊員の働きかけによって設立されたのが常設部隊である銃器運用部隊だ。


 彼らは短機関銃やセミオート狙撃銃、自動拳銃、さらには防弾ベストなどで武装し、練度も装備も世界トップレベルの実力を誇る。


 だが、銃器運用部隊は少数精鋭部隊であるため戦闘要員はたった五名しかいない。そのため全員が参加しなければならない訓練が多く、即応体制にあることの方が稀だ。


「ならば銃器運用部隊は後からの投入でいい。だが第一、第二機動隊は銃器を持っていないな。仕方ない。第三、第四機動隊を、隊員全員に拳銃を装備させた上で出動させろ。それと、各機動隊のライフル隊は全て出動させるんだ」


 高岳警視長は銃器運用部隊へのつなぎとして、ライフル隊を使用することにした。


 確かに能力が疑問視されているとはいえ、ライフル隊だって無能の集まりでは無い。


 遠距離から犯人を無力化できるライフルは一般警官の回転式拳銃とは比べ物にならない性能を持つし、一部部隊は回転式拳銃を使った近接戦闘訓練も年一回ほど行なっている。


 とはいえ、防護装備や盾は普通の機動隊員と同じで、防弾性能はほぼゼロ。その上、自動拳銃などの激しい銃撃戦に対応した装備は有していないので、人質の無い状況下での犯人射殺ならばともかく人質救出作戦に投入するには役不足だ。


 そして今回の場合、人質はほぼ間違いなく存在している。


 学生の避難は警邏隊によって完了したものの、医学部棟は狙撃されるリスクを考慮して警邏隊も入っておらず、民間人の出入りも確認されていない。


 かといって医学部の生徒全員が今回の事件に関わっているとは考えにくく、想定される犯罪者の人数と開講していた授業の出席率を加味して、少なくとも30人の人質と20名の武装したテロリストが医学部棟内にいると見積もられていた。


 だからこそ銃器運用部隊が必要なのだが、無いものは仕方がない。手持ちのカードで最善を尽くすしかないのだ。


 一通りの指示を終えた高岳警視長は、眉間にシワを寄せつつ椅子に背中を沈めた。


「平穏に退官したかったんだがな」


 警察官となってから国民の安全だけを願い警備部長にまで上り詰め、犯罪を未然に防ぐことに尽力した彼の努力は、残念ながら最後の最後で裏切られた。


 しかも、今回の作戦で判断を誤れば、警視庁を懲戒免職されて退職金すら受け取れなくなる可能性もある。高岳と家族は路頭に迷うだろう。


 上層部から責任を押し付けられて人生を失った警官がいることを、警察組織の上層部にまで上り詰めた高岳警視長はよく知っている。


 高岳警視長はため息をついたが、一番辛いのはこれから現場で戦う若い警官たちだと自らに言い聞かせて背筋を伸ばした。


「現場に警視庁の撮影班を派遣して、可能な限り警察経由で映像を共有してくれ。マスコミの情報はピンキリすぎて使い物にならん」


 彼は手すきの部下にそう命令して、部屋の壁に設置されたディスプレイに目線を向けた。


 そこには、いち早く現場に到着した国営の公共放送局によって撮影された東大学の映像が流れている。


 アナウンサーの滔々とした声と現場の殺伐とした声が入り混じったテレビには、煉瓦造りの歴史ありげな東大学の校舎を背景に、防護盾を持って大学を包囲する機動隊員たちが映し出されていた。


 画面越しにも現場のひりつくような緊張感は伝わってくる。だが、それは観客向けの映像ではあったが、本質的な情報を提供するための映像ではなかった。


 機動隊の規模については若干誇張されているし、堂々とした放水車ばかりが何度も放送されて隊員は脇役程度にしか写っていない。


 とはいえ、そこからでも得られる情報はある。


 銃で武装した第三、第四機動隊はまだ到着していないか、到着していてもごく少数の先遣隊だけだろう。だが第一機動隊と特科車両隊の放水車は到着しているらしい。


 機動隊員たちは慌ただしく準備を整えているが、特に騒ぎは起こっていなかった。


 平穏な前線の状況を見て、高岳警視長は少し安堵する。


 次の瞬間、カメラが激しく揺れて映像が途切れた。

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