第2話

 3年前、世界は「光食雲」と呼ばれる黒い雲に覆われ、地球に日光が差し込むことはなくなった。この雲には奇妙な特性がいくつかあった。


まず、通常の雲よりもはるかに高い位置に広がっている。光を吸収するが、そのエネルギーの行方は不明だ。採集しようとすると容器内で霧散し、重量は変わらないのに容器内の圧力が低下する。つまり、どこかに消えてしまうのだ。また、気圧差とは無関係に水平・垂直両方向に流動し、昼の空だけを覆う。


 これは雲が現れてまもなくに多くのメディアでも報道されて広く認知されたことだった。最初は小さく、当初は光を捕食する新種の生物ではないかと考えられていたが、捕獲も採取もできず、その規模が拡大するにつれて気候への影響が顕著になり、社会に混乱が広がった。ミサイルによって散らす試みが失敗した段階で世間の雰囲気は大きく変わった。

 この黒い雲のような何かへの敗北を自覚しながら、社会は回り続けた。気温だけでなく、経済的にも冷え込み多くの人々が困窮し始める。そんな中、日本政府はコロニー政策を打ち出した。

 コロニー生活では、貴重なエネルギーを消費せずに光を得る手段は月明かりしかなく、人々の活動時間は夜が中心となっていった。


 *

 

 アキラの捜索は夜間に行い、雲が昇る前に帰還したものの、今日のノルマはまだ手つかずだった。ジュンは数日の休暇程度なら罰則を受けない程度には勤勉だったが、体力に余裕がある今のうちに時間外労働をこなすことにした。もとより山は月明かりがあろうとなかろうと、相応に暗いことには変わりがないのだから活動時間にこだわる必要もない。


 シラカバの立ち並ぶ足元に荷物を置くと、すでに木々が切り倒されて開けた作業場へと向かった。ヘッドランプの明かりを頼りに、目的の木を探し始める。伐採した後の処理や安全面を考慮して、木を切る順番をつけている。書かれた数字を順にたどっていくと、その数字から班員達が自分の不在の間も働き者であった形跡がみられた。


「さてと、始めますか!」

 暗い森の中、一人で斧を振るう。昨日のノルマ不足分を稼がねばならない。カーン!カーン!と小気味良い音を響かせながら斧を木の横っ腹に打ち付ける。この仕事をするようになって1年半ほどが経つが、始めはちゃんとチェーンソーを使っていたものだった。エネルギー不足が顕著になり、人間が生活可能な状態を維持するには人間の活動の大半を食糧・エネルギー生産に充てるという自転車操業しかないと世界で認識された。


 太陽光エネルギーの貯蔵庫とも言える樹木は、エネルギー回収のため大規模に伐採されることとなった。当初は、放置すれば腐敗してしまうだろうという懸念から、大規模な伐採と工場のセット運用が計画されていた。しかし、エネルギー収支が合わず、さらに伐採した木のほとんどが建材として使用できないことが判明した。そのため、計画は人力による伐採へと移行することになった。

 気温の大幅な低下により樹木は枯れてしまったが、予想に反して腐敗の進行は遅かった。この状況下で、斧を手にした木こりたちが急増することとなったのだ。

 もっとも、人間が消費する食糧を育てるのに必要なエネルギーと、材木から得られるエネルギーを比較すれば、この作業が赤字であることは明らかだった。しかし、他に選択肢がない以上、この作業は続けられていった。


「お先真っ暗な人類ですなっと」

 黙々と斧を振っていると1本目がおおよそ終わり、あとは倒してやるだけと言うところまできた。

「安全確認よし!倒すぞー!」

 人がおらずとも安全のための注意勧告をしたうえで、最後の一振りを打ち込む。パキパキという音が乾燥した空気でよく響き、木はボンッと雪面に倒れた。

 そして目の前に雪が舞い上がった瞬間――。


 真っ黒な物体が雪面を破って地面から吹き上がった。わずかな月明かりとヘッドランプによってぼんやりと照らされて黒い柱の全貌が見えてくる。天まで昇る黒い柱は1棟のビルほどの太さで屹立し輪郭が少し揺らいでいる。


 ジュンは斧を握りしめたまま、突如現れた未知の現象に向かって駆け出した。好奇心を抑えきれず、息も絶え絶えに黒い柱の前まで一気に走り切る。

「こいつは一体何なんだ。」

 息を整えながら、ジュンは黒い柱を熱心に観察する。その姿は、多くの資料に記録された空を覆う雲そのものだった。陰影を捉えがたいほどの漆黒だが、よく見ると細かな粒子が流れているのが分かる。

 恐るおそる柱に腕を伸ばすと滝に触れたように手を弾き返された。黒い粒の流れる勢いが強い。日の出とともに地中から溢れ出すこの雲は世界を一変させた、人類の憎しみの的である。この雲の正体は一体何なのか。

 ジュンは思考を巡らせながら、眼前の光景に釘付けになっていた。ふと我に返り、上を見上げると雲が空を覆っている。一方で、雲を吐き出し終えた雪面には大きな穴が口を開けていた。

「雲の発生源がわかれば...!」

 ジュンは右手で斧の柄を強く握りながら迷わずその中へ入って行った。


 *


 大穴の先は洞窟のような空間に続いていた。ジュンは車一台がやっと通れそうな幅の急な坂道を下っていく。徐々に傾斜は緩やかになり、天井も高くなってきた。

 ヘッドランプの明かりを頼りに奥へと進みながら、ジュンは壁面に手を触れてみた。土や石の地層が固く固まっている。霜がついていないのは、外気よりも暖かいせいだろうか。昆虫や蝙蝠といった、洞窟を棲家とする生き物の気配は全くない。


 思いつく限り注意深く観察を続けていると、初めての分岐点に出くわした。ジュンは斧で壁面に傷をつけ、目印を残しながら右の道を選んだ。

 狭い道と広い空間が交互に現れる洞窟を20分以上歩き続けたころ、ふと有害なガスの存在が頭をよぎった。自分の行動があまりに無謀だったことに気づき、額に浮かんだ汗が急に冷たく感じられた。

 それでも、ジュンは奥へ進むことを選んだ。未知なるものへの好奇心が、危険への警戒心を上回っていたのだ。


 初めて足を止めた。疲れたわけではない。つい数年前まで山岳サークルに所属していたジュンは体力には自信があった。

 足を止めた理由は、足元に見つけた誰かの足跡だった。人間の大人にしては小さく、かといって子供にしては指がしっかりと地面を掴んで歩くような、奇妙な素足の痕跡。こんな洞窟に一体どんな生き物が棲んでいるというのか。出入り口はさっきまで塞がっていたはずだ。

 困惑と興奮が入り混じる中、ジュンは周囲をより注意深く観察しながら、足跡を辿っていった。途中から足跡は2つに増えている。大きさがやや違うことから、別の個体のものだと推測された。左右の足跡が2組、奥へと続いていく。

 「どんな生物だ?哺乳類であることは間違いなさそうだけど...猿の類が寒さを避けて洞窟に住み着いたのか」

 ジュンは思考を巡らせる。思い浮かぶ推察を自分で否定する。

「そもそも、ここまでの距離をキレイに2足歩行するような動物なんて記憶にないな。どうにも頭の回転が悪い」

 一人で洞窟にいるストレスか、不安を隠すためか、つい独り言が漏れる。


 その途端、奥から物音が聞こえた。いや、鳴き声だ。甲高い、悲鳴にも聞こえるような叫び声。続いてドタドタの低い音が響いてくる。

「近づいてきてる!」

 めぐる頭の中の思考を言葉にしてゆっくり落ち着かせる。

「落ち着け、まずは隠れて観察だ。逃げ切れる相手かどうかもわからない。」

 とにもかくにもここは狭すぎて危険と判断して、少し広い空間のある場所まで走って戻る。ドタドタと響く足音とギーギーと頭の奥まで刺さる声はどんどん近づいてくる。


 ジュンは緩やかな傾斜のある広い場所まで戻ると、ヘッドランプを消し、できるだけ姿勢を低くして息を潜めた。入り組んだ壁面に体の半分だけでも隠すようにしながら、近づいてくる音に意識を集中する。

 すぐ近くで鳴き声が聞こえ始めた。ヘッドランプを消したばかりで、目はまだ暗闇に慣れていない。二つの声がすぐそばで止まり、会話をしているようだ。のこぎりで金属を引っかくような甲高い鳴き声が響く。距離はおよそ5mといったところか。

 かすかに見えるシルエットは子供ほどの大きさだ。彼らは言葉を話しているようだが、聞き慣れた言語ではない。


 ジュンは片手で口を押さえ、必死に息を殺す。突然、声が止んだ。どうしたのかと耳を澄ますと、スンスンと鼻を啜る音が聞こえてきた。

 すると途端にギャーッと雄たけびを上げながらこちらに猛突進してきた。

「臭いでばれたか!クソったれ!」

 ジュンは咄嗟に叫びながらも、迫り来る危険に対して身構えた。


 急いでヘッドランプのスイッチを押すと目の前にいる2匹の生物が姿をあらわになる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る