第2話 入居

 奏真はここ数日社務所に寝泊まりしつつ書類を書いていた。この妖怪だらけの世界にも戸籍や住民票といったものはあるらしく、諸々の書類作りに追われていたのだ。

 先ほど緋扇が言ったようにこの世界には金銭という通貨価値の概念が薄く、とはいえ全くそれらがないわけでもないらしい。働貨という、労働力や物資を封入した札がその代わりになるらしく、また物々交換や労働力の提供も、取引の材料になるらしい。

 現在緋扇が行なっているのは奏真の棲家となるアパートの契約などだ。数日前から電話を繰り返し、しきりに何事かの折衝を行なっている。

 頼りきりで申し訳ないが、奏真にはこの世界の勝手がわからないので、頼るより他ない。


「ところで緋扇さん」

「はい、なんでしょう」

「狼神ってどういう妖怪なんですか?」


 書類を作成している人に聞くべきではないと思ったが、自分のことなので聞いてみた。


「……犬神はご存知ですか?」

「ええと……確かゲームで見たんですけど、首から下を埋めて、届くかどうかってところに餌を置いて餓える寸前まで置いて、首を落として作る式神でしたっけ」

「ええ、差異はあれ概ねその通りです。狼神はその数段惨い作り方をする式神です。……聞かれますか?」

「……はい」


 ボールペンを置いて、緋扇はゆっくり語る。


「餓えさせた狼を数頭、もしくは十数頭用意して共食いをさせるのです。蠱毒を、狼で行うわけですね。蠱毒はご存知ですか?」

「いえ……」

「蠱毒とは本来虫や蛇なんかを壺に入れて共食いさせ、残った最後の一匹に強力な呪力が宿るとされる呪術の一種で、奏真さんがいらっしゃった世界に妖怪や妖術の類はなかったと思いますが……実在する世界もあるのです。そして、大半の霊的存在が存在する世界において、蠱毒は忌み嫌われる術です」

「そんな……生き物をなんだと……」

「力を欲する者がいる以上、需要があればなんでもしますよ、術師という生き物は。そして、共食いの末残った狼を一年間、飢餓状態を綱渡させ生きながらえさせ、満月の夜に首を落として完成させるというものです。狼神が存在する世界においては、妖狐や化け狸に並ぶイヌ科妖怪の代表格です」

「こっくりさんの、狗にあたるわけですね」

「そうです。とはいえ、あなたにその邪悪さや残虐さがあるわけではないですよ。あなたはあなたです。自分を見失わないように」


 戒めるような口調で緋扇はそう言った。奏真は今一度己の胸に手を当て、深呼吸する。

 緋扇は書類を一枚差し出してきた。


「実印がないので血判を押してもらいますが、よろしいですか? こちらにサインと、血判をお願いします」

「ああ、はい」


 書類は入居先の契約書だった。奏真はボールペンで大守奏真とサインし、印のところに、先端を焼いて消毒した小さなメスのようなナイフで親指を少しだけ切り、血判を捺した。

 一通りの書類へのサインが終わると、緋扇は「明日からはアパート暮らしですね」と言った。


「アパート……」

「不安ですか?」

「ええ、はい……仕事とか見つけられるかどうか」

「意欲さえあれば雇ってもらえますよ。最初はわからない、できないなんてのが当たり前ですし、いざとなれば神社で雑用でもすればいいのです」

「神社の雑用ですか?」

「ええ。境内の掃除から土産物屋の雑用、書類整理に名刺のラッピング作業に……あと炊事仕事なんかもありますね。すべきことはたくさんあります」


 奏真は意外と家庭的な仕事も神社には含まれるんだなと思ったが、大勢が共同生活する環境では当たり前かと思った。


「あとは術師として生計を立てるのが手っ取り早いですね。狼神ほどの妖怪ならそちらの方が手っ取り早いかもしれません。詳しくは明日以降、一旦アパートで荷物を整理した後で斡旋所でお話ししてください」

「わかりました」


 一つ頷き、奏真は緋扇に頭を下げた。


「色々ありがとうございます、緋扇さん」

「いえ。これも仕事ですし、好きでやっていることなので」


 緋扇はそれだけ言って、表情のわかりづらい顔に微かに笑みを浮かべた。

 さてもこれから引越しである。

 引越しといっても、数日の神社の手伝いで手に入れた生活必需品は既に運搬を手配されているし、奏真の手元にある働貨は色をつけて五五〇働貨(約五万五〇〇〇円。一働貨一〇〇円、一働銭一円の価値)。早いとこ仕事を見つけねばならない。最悪神社に来れば炊き出しだけで食っていけるらしいが、それでは生活に潤いがない。

 奏真とてこの世界が第二の人生——否、妖生であることは実感している。うまく行くかどうかはわからないし、また失敗するかもしれないが、何もしないまま終わらせる気はなかった。

 この世界でなら夢を——幸せな、誰かに必要とされる生を歩めるんじゃないかという希望がある。


「お、いたいた」


 そこにやってきたのは五隊——蘇桜隊すざくたい総長で九尾の妖狐である白狐、稲尾椿姫だった。

 奏真の魂を斬ったあの美しい女性だ。


「あんた、大守奏真でしょ」

「えっ、あ……はい!」

「これ、護符ね。義務じゃないけど、つけといた方がいいわよ」


 椿姫はそう言って、藍色の数珠飾り——ミサンガを渡してきた。

 奏真は礼を言って左手首に取り付けて、手首を軽く回す。

 氏子総代の緋扇は椿姫に対して一礼すると、椿姫も「ご苦労様」と応じた。

 気になっていることがあったので、奏真は思い切って聞いてみた。


「あの、椿姫さん」

「ん?」

「どうして俺を救ってくださったんですか? もちろんそれがお役目だからっていうのはわかっていますが……」

「人助けに見返りっているの?」


 何言ってんだこいつ、という当然のような顔で、椿姫はそう言った。

 奏真はその反応に、ああそうか、と察した。

 神使は決して打算でやっているわけではないのだ、このお役目を。彼らは、あるいは彼女らは自らの行いに絶対的な自信と誇りを持ってやっている。だから、人助けにも迷いがないし、質問にも迷わず答える。

 だから奏真も頭を下げた。


「本当にありがとうございます」

「いいってこと。じゃあ緋扇さん、お願いね」

「お任せください」


 椿姫は踵を返し、縮小させている九本の尾を振って去っていった。

 ややあって諸々の手続きを終えた奏真と緋扇は、その日の午後二時に社務所で寝泊まりしていた部屋に別れを告げることになった。

 緋扇は「何かあれば戻ってくればいいですからね」と言ってくれ、しかし奏真はそれに甘えるわけにもいかないと、荷物をリュックサックに詰めて外に出た。

 ちなみに服装は、男性氏子さんのお下がりである衣類を何着かもらっている。今着ているのは青色のシャツに黒いジーンズ、黒のスニーカーという格好だ。


「ええと……川沿いの文月荘……」


 奏真は手渡された地図を手に街を——泡沫の里を歩いていた。

 バスに乗って二十分ほど移動して、川沿いのバス停——文月川停留所で降りる。

 ここから上流の方へ向かって歩いていくと、文月荘はあるらしい。


 往来の人々は新入りである奏真は気にも留めず、銘々の日常を過ごしている。種族は違えど、圧倒的に妖怪が多かった。中には人間もいるが、この世界は妖気が濃いらしく、人間でさえ老化が非常にゆっくりだという。

 川沿いには公園やコンビニなどがあり、しばらく進むと文月荘という看板が見えてきた。あれだろうと、奏真はようやっと辿り着いた感動に打ち震える。

 今日から一国一城の主人だ。社務所での日々が苦痛だったわけではないが、やはり一人暮らしの気軽さに勝るものはない。

 生前の己は二十五歳だったし、結婚願望は特別なかった。なので一人暮らしに虚しさを感じたことはない。うまくいかないことの方に焦りや恐怖があったくらいだ。


 文月荘はL字型の二階建ての建造物があり、中央に大きな楠があり、管理人室は一階にあると聞いていた。

 駐車場と駐輪場も完備。奏真は車は愚か自転車さえないので駐車場は借りていないが、部屋は二階——二〇二号室を借りていた。

 一階の管理人室——一〇一号室のベルを鳴らし、手土産になさいと緋扇から預かっていた常闇饅頭をエコバッグから取り出しておいた。


「はい、どなたでしょう」


 出てきたのは初老の化け狸の男性だ。バンドで固定するタイプの眼鏡をかけており、安っぽいジャージの上下である。


「二〇二号室に入居してきた大守奏真です。ご挨拶に伺いました」

「ああ、聞いてるよ。よろしくね」

「はい、こちらこそ。これ、挨拶にとお持ちしたものです」


 奏真は饅頭を渡した。管理人は朗らかな笑みで受け取り、鍵を渡してくれる。合鍵と三つセットになった束だ。


「無くさないようにね」

「はい、ありがとうございます」


 奏真は礼を言って鍵を受け取り、漆喰塗りの階段を登って行った。

 いわゆるボロアパートという感じで、築二十年は経っていそうである。漆喰はところどころ剥がれ、金属が剥き出しになっている。

 部屋数は一階も二階も四号室まである。奏真は二〇二号室の鍵を開けた。

 中に入ると、1Kの八畳間が出迎えてくれた。

 玄関のすぐのところに備え付けの洗濯機があり、こぢんまりとした台所とキッチンがある。右手にトイレとバスルームがあり、その先に八畳間の部屋。


「緋扇さん、こんなに気を使ってくれたのか……」


 生活に困らないだけの設備がそこにあった。

 最低限の食器、日用品、棚などの収納に、electricPadエレパッドというタブレット端末まである。

 社務所で何人かから「緋扇さんが担当になって良かったな」と言われたが、こういうことに違いない。一見無表情で怖そうな鬼の女性だが、気配りが十二分に行き届く女性だったのだ。

 これは改めて礼をしなくてはなるまい。奏真はそう思った。


 ちなみにこの幽世は人里のエリアならばどこでも公共電波が完備されており、現世でいう都市部ならどこでもWi-Fi使い放題みたいな感じらしい。

 どうも妖怪には念話という、テレパシーに近い通信方法があるので電波通信事業で儲けを出そうというのが難しいらしく、ならばいっそと神社の出資で無料提供という形にしていた。

 負の感情が蔓延るくらいなら、神社の恩恵で陽の妖気を振り撒く方がいい——とか。この幽世には「魍魎もうりょう」という化け物がいるらしく、彼らを肥え太らせるのが負の感情なのだとか。

 奏真は与えられたelectricPhoneエレフォンを取り出し、電波状況を見た。電波強度は三つ。充電は九四パーセント。忙しくていじっている暇がなかったので、バッテリーはほとんど減ってない。


「さて……明日は早速神社の斡旋所にいかないとな……。物価が低いとはいえ遊んでばっかもいられないし」


 幽世はとにかく物が安く手に入る。ジュースも、現世なら一六〇円とか、二〇〇円が当たり前だが、ここではエナジードリンクすら一〇〇円相当の一働貨で住む。

 とりあえず、今日は早めに休もうと奏真は思った。

 積んである段ボールの荷解きは、明日以降少しずつやろうと決め、奏真はひとまず置いてある座椅子に腰掛けてエレパッドを開くのだった。

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