常闇之神社で暮らす平凡な狼神の日常

夢咲蕾花

第1話 三千世界の狭間の世界

「あんたはうまく行かなかったんじゃない。星の巡りが悪かっただけなの。ここで、せめて生を謳歌なさい」


 目の前にぼんやりと見える、美貌の狐娘がそう言った。

 白い体毛、紫紺の目、九本の尾。手にした、青く輝く刀に、自分は斬られた。

 意識が攪拌されてぐるぐる渦巻き、微睡むような感覚がして、視界が暗転した。



 自分は典型的な「何をやってもうまく行かない人間」だった。

 仕事もプライベートも趣味も、何をやってもダメ。

 後から入ってきた後輩に追い抜かれ、恋人は「優しい人止まりでつまらない」と見切りをつけて去っていってしまい、趣味のゲームも特別うまくないので、なんというか他人のスーパープレーと比較して落ち込んでしまう。学生時代もそんな感じだった。いじめられることはなかったが、陽の当たる側に立つこともなく、ひっそりとなんの味もしない、無味乾燥なままに終わった。

 日がな一日くだらない動画を見て過ごす午後に嫌気がさして外に散歩に出たのが運の尽きだった。

 路地の細道に突っ込んできた、明らかに酔っ払い運転と思しき乗用車に逃げ場がないそこで轢かれ、頭が潰れる感触がして、人生が終わった。

 こんな生き様なのに、死にたくないとも思ったし、いっそ救済だと諦める自分もいた。


 意識が帰ってくる——。


 まず、いい匂いがした。

 縁日の甘酒のような匂いと、ツンとくる酒の匂い。それから古びた木の香りがして、体を包むふわふわしている温かいものから、柔軟剤の匂いがする。なんというか、神社の匂いだ。


 ぴく、と指が動いた。


 ——生きている?


 まぶたがひくついて、嗅覚に続いてまぶたを差す、やや暗い日差しが差し込んでくる。次いで味覚——固まった唾液の苦い味がした。喉が渇いた……。


「ん……ぐ……」


 意識が覚醒してきて、自分は目をこじ開けて起き上がった。

 場所は……病院ではない。

 漆喰壁に、木の天井。畳……隣に、美しい女性がお手本にしたくなるような正座をして座っていた。


「お目覚めになられましたか」

「あなたは……」


 黒髪に、二本の角。鬼のような女性だ。

 ここは……あの世?


大守奏真おおかみそうま様、貴方様は生前の非業の死によりこの幽世かくりよに招かれました」

「は……? 俺の名前か、それ。違うぞ、俺の名は……俺の、名……」


 なんだっただろう。思い出せない。

 自分はなんという名前だったか。

 生前、と言われてもピンとこないが——すぐに、あの車に轢かれる光景がフラッシュバックし、「っ……」と額を押さえた。


「生前の不要な記憶は排除しています。中には好んで全てを思い出す方もいらっしゃいますが、下手に死の瞬間を克明に思い出すと、精神の復調に大変時間がかかりますので」

「そっか……。……俺は、死んだ、のか?」

「ええ。残念ながら。令和六年七月三十日午後十三時五十二分に亡くなられました。有給中の出来事でしたね」

「……ここは、幽世って。……幽世って、何?」

「あの世とこの世の狭間。この世界における幽世とは、三千世界——全宇宙の狭間にある異世界という認識で構いませんよ」


 そこまで説明されて、青年——奏真は、自分の体に違和感があることに気づいた。

 狼の耳と、尻尾が四本生えているのだ。自分も鬼とか、夢で見た狐みたいな人外になったのだろう。


「この幽世の住民は大半が妖怪です。生前、あるいはその前世の記憶に準拠した種族になります。あなたは狼と縁があった故、狼神おおかみという種族になったのですね」


 女性は狼神、と空中で字を書いて、教えてくれた。

 狼の、狼神。


「失礼、名乗り遅れました。私は氏子総代を務めております、緋扇ひおうぎにございます」

「あっ、ご丁寧にどうも。俺は大守? 奏真、です」


 名前が思い出せない以上、大守奏真という名前を使うしかない。


「いろいろ思うことはあると思いますが、お食事を。ご安心を、黄泉竈食よもつへぐひなど気にしなくとも、もう死んでいるので」

「は……はは」


 それは笑っていいのだろうか。

 緋扇はすっと立ち上がって部屋から出ていった。しばらくして、折敷を持った緋扇がやってきた。

 盛り付けられているのはたまご粥と、トロトロに煮込まれた野菜の煮込み、お麩が浮かんだ味噌汁に甘酒。病人に振る舞う食事という感じだ。


「ごゆっくり」

「いただきます」


 奏真は漆器のスプーンでたまご粥をすくい、口に入れた。塩味というよりは出汁で味付けした感じで、旨味が感じられる。二口三口と食べて、柔らかい野菜の煮込みを頬張る。白菜とにんじん、ピーマンを煮込んだものだ。味付けは醤油ベースで、食べやすい。

 味噌汁は熱すぎずぬるすぎない温度で、優しい薄味である。奏真としてはもう少しガツンと味噌の味が欲しかったが、体を慮ってのことだろう。

 甘酒は、以前どこかで病人に振る舞うには理想的な食事と聞いたことがある。米麹の粒が、口の中で踊る。

 しばらく夢中で食事を続けた。


 こんなふうに血の通った食事を摂るのはいつぶりだろう。

 あっちの世界にいた頃は、大抵は工場が作ったコンビニ弁当が大半で、誰かの手料理なんて十何年も食べていなかったように思う。


 食事を終えた奏真は手を合わせて「ごちそうさま」と言って、スプーンを置いた。

 しばらく部屋を見て回る。立ち上がると体がふらついたが、筋肉が衰えているということはない。背格好は生前の頃と変わらぬ中肉中背である。


 ここは一階のようで、外には神社が見えた。

 大きな拝殿に、それからその近くの一際大きな建物。その建物の二階にある手すり付きの縁側に、夢で見た美しい狐の女性がもたれかかっていた。そばには彼氏か旦那のような距離感の、非常に大柄な片角の鬼男が寄り添っている。その傍には、角を持つ小さな狐娘(?)がおり、鬼男の裾を引っ張っている。


「気になりますか?」

「おわっ」

「失礼、声をかけても反応がなかったので」

「すみません、緋扇さん……あの方達は? 夢で見た女性もいて……その、」

「稲尾椿姫様、稲尾燈真様、そしてそのご子息である稲尾桜花様ですね。夫婦揃って最強格の神格妖怪にあらせられます」

「神格……」


 九尾の、椿姫とかいう女性は息子のじゃれつきに笑顔で応じ、ほっぺたをこねくり回している。

 とても神様という、厳格な雰囲気ではない。


「夢というのは『門』のことですね」

「門?」

「現世から迷い込んできた非業の魂を迎え入れ、その際に迷いを断ち切る場所です。神使の方々が持ち回りで、断ち切りの儀を行われているのです」

「断罪、ではないんですね」

「常闇様は罪を否定されません。全ての生命には罪も悪意もあるとお考えです」

「常闇様?」

「ここではなんですし、拝殿に参りましょうか」


 奏真は緋扇に連れられ、部屋を出た。

 ちなみに奏真の格好は死人に着せるような白装束の分厚い生地の長襦袢で、襟も、右側が前になっている。


「あたまに三角形の頭巾でもつけたら様になりますかね」

「いわばここは死者の集まりですから、皮肉にもなりませんがね」


 そういえば非業の死を遂げたものが来るんだったか。ここではうらめしや——まさにそれが当たり前。

 社務所の通路を通る氏子は、男女問わず妖怪ばかりだった。犬の尻尾の者、鬼、石のような色の肌をした者(緋扇が鬼瓦という妖怪ですよと教えてくれた)。


 外に出ると、蝉がシャワシャワ鳴いている。日差しは眩しいが、不可思議なフィルターでもかかっているように、わずかに夜の気配も感じる。

 境内には屋台が並び、一定の間隔おきに溶けてない氷が置いてあって涼を漂わせている。

 公演も併設されているようで、そこからは子供のはしゃぎ声が聞こえてきた。「らいかがにげたー!」「おっかけろー!」「みずふうせんまだまだあるぞー!」と聞こえてくる。

 どうやら「らいか」という何者かを追いかけて、水風船をぶつける遊びをしているらしい。


「参拝される方は、この石畳の道を歩んで参ります。あの鳥居の前で、一礼を」


 鳥居——藍色の巨大な鳥居が鎮座している。中央の神額には「常闇之神社」の文字が金色で、恐らくは黄金で刻まれていた。

 奏真は緋扇と共に一礼。


「常闇様は、見下されることを非常に嫌います。力強く、無敵で、それでいてわがままかつ少々傲慢であらせられますゆえ」

「そこは、ステロタイプな神様なんですかね」

「そうですね。あまり陰口は言えませんが、なかなかに愉快な神様であらせられます」


 妖怪だらけのこの世界、そして神格妖怪という言葉からして、その常闇様も実在するのだろうか。

 拝殿にやってきて、緋扇は札を渡してきた。


「これは?」

「賽銭箱に。幽世にはお金という概念が普及していないので、物を納めます」


 奏真は札を賽銭箱に入れた。

 それから二礼二拍手、一礼。

 別に、願うことはないが……なんとなく、「楽しく過ごせますように」と祈った。


「拝殿に上がりましょう。草履を脱いで」


 奏真は草履を脱ぎ、先に行く緋扇に続いた。

 拝殿の中には、高さ二〇メートルに達する石像が一体、鎮座している。


 荒々しい女神だった。

 整った顔貌に、額には三つ目があり、背中には二重の法陣を背負っている。そして腕は四本あり、それぞれ槍と剣、弩を構えていた。

 腰には注連縄を巻いており、相撲取りのような前掛けを腰にかけている。上半身は裸——ではなく、胸部には装甲のような、甲殻のようなものが張り付いていた。

 下半身は四本脚であり、尾が伸び、その先端は二股に割れている。


 異形の神。

 ヒト、という形から逸脱している。

 ヒトこそ神の似姿というが、その常識を超えていた。まさに妖怪の神——人間という常識にとらわれない異相の神であった。


「この世界で最強の、忌兵隊きへいたい総長が十人がかりでも傷ひとつつかない神……それが常闇様です。無礼のないように」

「は……い……」


 ただ、迫力に飲まれるしかなかった。

 まるでそこで息をしているような威圧感が石像から感じられる。


「あら、新入り?」


 突然後ろから声をかけられ、奏真はびっくりした。

 振り返るとそこには石像と全く同じ顔——三つ目はないが——の、四本腕の妙齢の女性。

 後光を背負うように立っている。


「夜葉さん、脅かさないでください」


 緋扇は彼女を夜葉、と呼んだ。

 ——常闇様では、ない?

 だがその異質すぎる気配、影を落とさぬ肉体……。ただの妖怪ではないだろう。


「菘ちゃんに手出ししたらお仕置きだから、覚えておいてね」


 それだけ言って、夜葉という女性は踵を返して去っていった。


「誰ですか、今の」

「……ロリコンのど変態ですよ」


 緋扇は疲れたような顔で、そう言った。

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