第19章  海の上で生まれた奈都芽を待ち受けていたもの③

 奈都芽はあの父に怒られた日のことを必死に思い返した。



「見なかった」


「そうですか」


 そう言うと、陽ちゃんは壁際まで歩き、白い布のようなものがかけられた棚のようなところの前で止まった。棚は天井近くまであり、横幅もゆうに二メートルは超えていた。


 ……それは小さい時からずっと私が知りたかった秘密……もしかして……陽ちゃんがあの秘密を知っているの?……。


 奈都芽があとをついてきたのを確認すると、陽ちゃんは


「実は、あの部屋で家元さまが読んでおられたのは——」


 と言うと、白い布を下からサッと上にめくった。




だったのです」




「え?」奈都芽の頭の中は真っ白になった。


 ……あの部屋で母が読んでいたのはお父さんの小説?……。




「この棚にあるのはすべて旦那様が書かれた原稿です」


「……お父さんの原稿……」


 そう言いながら奈都芽は棚の真ん中あたりにある原稿用紙を手にした。手書きで書かれたその文字は確かに父のものだった。


 原稿を手に呆然とする奈都芽に陽ちゃんがつづけた。




「『部屋に入るな』という家のルールがあったでしょ? あれは、あの部屋で家元さまが旦那様の小説を集中して読むためだったのですよ」




「な、なにを言ってるの?」思わず奈都芽は声が大きくなってしまった。「母はいつもイライラして、神経が過敏で。それであの部屋に入るなってことだったんでしょ!」


「もちろんそれもあります。しかし、あの部屋で家元さまがやっていたことは、旦那様の小説を必死に読みアドバイスを送る。そして小説家になるという夢を支えることだったのですよ」


「ウ、ウソでしょ……」奈都芽は小さく呟いた。




「お二人の素晴らしいところは、お互いを理解し、支え合ってきたことです。傷ついた家元さまの心を励ましつづけた旦那様。そして、小説家になるという旦那様の夢をサポートしつづけた家元さま。なんといっても素晴らしいのは、です」




「今までずっと?」奈都芽は困惑した表情を浮かべた。


「ええ、刑務所に入ってからもずっとですよ」


「ウソ、それは絶対ウソよ!」


「いいえ、100%真実です。だって、あたしが連絡係だったのですから」


「陽ちゃんが……連絡係?」


「これまでおじょうさんにずっと黙っていてすみません。家元さまに絶対に言うなと言われていたのです。実は、中身はずっと教えてもらえなかったのですが、あたしはいつも白い段ボールのようなものを運ぶ役目をしていたのです」




「ねえ、もしかして……」


 奈都芽はその時あることを思い出した。




「もしかして……昔……和箪笥の部屋でお父さんからの手紙を見せくれたこともそれと関係していたの?」


「はい。あれはたまたま家元さまが段ボールから取り出し、箪笥に隠しているところを目撃したのです」


 まさかこのおしゃべりの陽ちゃんが長く秘密にしていたなんて。奈都芽は陽ちゃんの顔をまじまじと見つめた。ようやく秘密を話せた安堵からか、陽ちゃんはホッとした表情を浮かべた。




「家元さまはこんなこともおっしゃっていました。『夫の役割もやらなくては。父がいないからといって世間になめられてはいけない』。そう考えて気を張って生きてきた、と。だから、人と接するのが苦手なのにPTAの役員を引き受けたり、おじょうさんの披露宴で弟子を引き連れて茶道のお披露目をしたそうです」


「母が……そう言ったの?」


 これまで周囲に威圧的な態度をとっていた母の心のうちに初めて触れた奈都芽は目の前の情景がガラリと変わっていくのを感じた。


 長くつづいた母と娘のボタンの掛け違いが、陽ちゃんによって正しい位置に直されていった。




「さあ、おじょうさん。そろそろあたしたちも出かけましょうよ。今なら家元さまのニコニコした笑顔が見られますよ」


 ……そうだ、母のことだ……。奈都芽はこの部屋に来てからずっと気になっていたことを尋ねた。


「ねえ、どうして母はニコニコ笑っているの?」


「それは旦那様の冤罪が晴れ、小説家になるという夢が叶ったからですよ」




 ……それじゃあ、本当に母はお父さんのことを愛してるってことなのね……。




 奈都芽はこれまで陽ちゃんが話してくれたことが真実であることを確信した。


「それで、母は今どこに行ってるの?」


「覚えていませんか? を」


 もちろん奈都芽は陽ちゃんとよく通ったその神社のことを覚えていた。不思議なことに、その神社はかつて父とよく行っていた神社と、さらには『道上』先生から教えられた神社とも同じ名前だった。




「家元さまはこの実家に戻ってきてから、毎日お参りをしてお願いしていたそうですよ。旦那様の冤罪が晴れるのと、小説家になるという夢が叶えられることを」


 陽ちゃんは白い布を元に戻し、原稿の入った棚が覆い隠された。


「確かに家元さまはウソをついていました。でも、あたしが思うに、世の中には『許されるウソ』とそうでないウソがあるような気がします。どうか家元さまのことを許してあげてくださいね」


 そう言うと、陽ちゃんは意気揚々と部屋を出ていった。






 部屋を出ていく陽ちゃんの後ろ姿を見ながら、奈都芽はある事実に気づいた。




 母は私を守るためにウソをついてきた。それは、子供を守るためにやむを得ずついたウソだった。『許されるウソ』といってもいいだろう。


 だけど……はたして……ウソをついていたのは母だけだったのだろうか?




 中学の時も、結婚する時も。


「お父さんが亡くなった」と母がうなずく時、すぐ隣で何も言わなかった私はウソをついたことにならないのだろうか?




 そこまで考えてきた奈都芽の頭の中にある疑問が湧いた。




「カバラ様との『約束』は守らなくてはいけなかったんだろう?


 あのホテルで契約をしてから『鳥の足跡』が出てくるまでの間はどうだったんだろう?」




 ……南野のお義母さんが薫さんのお父様を絶賛した時……「奈都芽さん、お父さまの話をしてごめんなさいね」と言われた時……あの時、「実はお父さんは今刑務所に服役しています」と言えたんじゃないの?……だって、あの時はまだこの足跡は出てなかった……。




 奈都芽は右手の親指の『鳥の足跡』を見ると、さらに自分に問いかけた。




 ……夫が『冤罪』のファイルを整理している時……まだ足跡が出ていなかったあの時、「刑務所にいるお父さんを一緒に助けてほしい」と本当のことを言えたんじゃないの?……お義母さんと違い、少なくとも夫は『冤罪』に理解がある。いや理解があるどころか、『冤罪』を晴らすことに積極的な人だ。その上何でも話を聞いてくれる。それなのに……結局、自分の身を守るために真実から目を背けてきた……それだけじゃない。ずっとその前から、お父さんがあの事件を起こしたときから私も母と同じようにウソをついていた……。




 カバラ様との『約束』が始まる前から、実はずっとお父さんを『亡き者』としていた。




 だ。


 だ。






 これまでの自らの過ちに気づいた奈都芽は、力なくフラフラと母の和机のところまで歩いていった。そして、机の上の家族写真を見つめた。


 そこで奈都芽は改めてある事実に気づいた。母が一度だけの家族写真をずっと大切に持っていたという事実を。






 ……もしかすると、母はもう一度、家族三人で写真を撮りたかったのかもしれない……でも……。






「ウソだけはつくな。ウソをつくとロクなことがない」




 その時、奈都芽は父に教えられたあの言葉を思い出した。一度ウソをつくとそれはどんどん成長しつづける。あのピノキオの鼻のように。




 私のせいで、もう二度と家族で写真を撮ることはできない。たとえどれだけ星に願いをかけたとしても。


 だって、私が『許されないウソ』をつきつづけてきたのだから。




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