第19章  海の上で生まれた奈都芽を待ち受けていたもの②

 それはまさに、奈都芽が小学校に上がる少し前に撮影したたった一枚の家族写真だった。



 ……ほんとだ……いつも着物を着ている母が……着物を着てない……。



「あたしもこの時はほとほと困りました。川田家所蔵の超一級品の着物を持って行かせていただいたのですが、『茶道とは縁を切ったから着物は着ない!』とえらい剣幕で怒鳴られて。江戸時代から続く川田家の後継者ともあろうお方が記念撮影にドレスだなんて」


 その時のことを思い出したのか、陽ちゃんは少し辛そうな顔をした。




 ……そうか、陽ちゃんに言われて初めてわかったわ。あの時母が着物ではなくドレスを着ていた理由が……。




 長い時を経て母の秘密を知った奈都芽だったが、その時ふとあることに気づいた。


「ねえ……もしかして、あの時、陽ちゃんはあの街に来てたってこと?」


「もちろん。だって、ほら見てください。おじょうさんのピンクのワンピースを」


 そう言われた奈都芽はもう一度写真を見た。




 ……あ……服の……服のサイズが……。




「ね? でしょ? あたしが用意しました。大きすぎたことが後でバレて、先代様からひどく怒られましたがね」


 そう言うと、陽ちゃんはペロリと舌を出した。


 奈都芽の頭の中は嵐に突然見舞われたように混乱した。




 ……こ、このぶかぶかの服って……陽ちゃんが準備したものだったの……え?……ちょっと待って……じゃあ、もしかして……。




 奈都芽は海底からじわじわと浮かび上がるように湧いてきた疑問を陽ちゃんに尋ねた。


「ねえ、陽ちゃんってずっと母と会っていたの?」


「ええ、先代様と家元さまの連絡係があたしの仕事でしたから」


「れ、連絡係?」


「だから、おじょうさんのことも少しは知っているんですよ。『入るな』と言われていた家元さまの部屋に勝手に入って旦那様に叱られたこと、なんてこともね」


「……」


 あれは小学四年生、十歳のころ、『ウソはつくな』と父に叱られた光景が奈都芽の頭の中に蘇ってきた。




 ……ちょっと待って……そういえばあの時、母は……。




 奈都芽はハッと気づいた顔をした。


「そうです。実は、あの日、家元さまが駅前のホテルで会っていた相手はあたしです」


 何十年来の秘密を聞かされた奈都芽は陽ちゃんの顔を呆然と見つめた。陽ちゃんはそんな奈都芽を見ながら、微笑んだ。


「その当時からずっとそうでした。家元さまと旦那様は互いを理解し、愛しあっておりました」


「愛しあってた?」奈都芽はすぐに反発した。「母はお父さんを捨てたのよ!」


「私が中学に入ったばかりの頃、『旦那さん、ずいぶん苦しんだようで』って言われて平然とそれを受け入れて。家元さまと呼ばれていい生活をする上でお父さんのことが邪魔だったのよ。だから、母はお父さんを『亡き者』として捨てたのよ!」


「いいえ、それは違います。といってもあたしもついさっき家元さまの口から初めて聞いたのですがね。『父が人を殺し、刑務所に入っている』ということがわかれば、おじょうさんの生活がままならないことになってしまう。そう悩んでいたところ、たまたま周りの人が勝手に病死したと噂をしてくれた。結果、ウソになるかもしれないが、おじょうさんの生活を守るために『亡き者』としたと言っておりました」




 そう言われた奈都芽は少し考えを巡らした。母がそんなことを。だが、すぐに


「でも——」と奈都芽は大きな声を出した。「仮にそうだとしても、私はこの家に引っ越してきたすぐのことを忘れない。あの時の母のことが許せない。『』って。いくら私の為にお父さんを『亡き者』とした方がいいと言っても、家の中でお父さんの話をするなだなんてどうかしてるわ! どうして愛するお父さんの話をしちゃいけないのよ!」


「やはり、あの時のことがおじょうさんの心に傷を残しているのですね。それについてはあたしも心配をしていたんです。いくらなんでもやりすぎではないか、と。実は、あの時のことも家元さまは話されておりました。『思春期の奈都芽の心が少しでも平安であるように』と思ってのことだったそうです。『新しい環境の中、気持ちを切り替え、勉強に集中させたかった』ともおっしゃっていました」


 そこまで話すと陽ちゃんは複雑な表情を浮かべた。




 ……私の為に?……そ、そんなことを……あの母が?……。




 奈都芽は母の顔を頭に浮かべた。


 母の言動が自分のためだったかもしれないと、冷静に受け止めはじめていた奈都芽だったが、やはり納得がいかないことがあった。


「少しはわかったわ、母のことが。でも、どう考えてみても、おかしいことがあるわ。母はお父さんを捨てたことに変わりはないわ」


「そんな、なんてことを。家元さまが旦那様を捨てただなんて」


「だってそうじゃない! お父さんが逮捕された途端、離婚したじゃない!」奈都芽は叫ぶように言った。


「そ、それは——」


「それに、あの家もすぐに売り払ってしまったじゃない! あのお父さんとの思い出のいっぱい詰まった家を!」


「で、ですから、それは——」


「もしかしたら『冤罪』かもしれないのに。逮捕されたらすぐに離婚をして、家を売ったのよ! どこからどう見ても母はお父さんを捨てたじゃない!」


 吐き捨てるようにそう大声で叫ぶと、奈都芽の目から涙が流れ出した。


 奈都芽が泣くのを見た陽ちゃんはポケットの中から大きなハンカチを取り出し、奈都芽の涙を拭いた。そしてゆっくりと話し出した。




「反対したそうですよ、家元さまも」


「え?」


 奈都芽は顔を上げ、陽ちゃんの顔を見た。


 ……な、なに言ってるの?……。


「離婚することも、家を売却することも。家元さまは反対だったそうです」


 そう言うと陽ちゃんは奈都芽の顔を見ながらゆっくりとうなずいた。


「ねえ……ごめん……なにを言ってるか、さっぱりわかんない……だって、逮捕されてすぐに母は離婚と家の売却の手続きをすませたじゃない。だから、母はお父さんを捨て——」


「さっき本人の口から聞きました。実は、だったそうです」




 そう言われた奈都芽は陽ちゃんの顔を見た。しばらく間があり、部屋に静けさが漂った。だが、すぐに奈都芽がその平穏を壊した。


「ハッハッ。もう陽ちゃんは母のことを神様みたいに信じすぎているのよ。そんなのは母の作り話かもしれないでしょ? だって、考えてみてよ。そんなこと、お父さんがいつ母に言ったというの? だって、二人は会うこともなかったのよ」


「いいえ、よく思い出してください。会ったことがあったじゃないですか」


「……」奈都芽は返す言葉がなく、陽ちゃんの顔を見つめていた。


「覚えていないんですか? あたしとおじょうさんがあの城の前の駐車場で会った夜のことを」


 陽ちゃんはそう言い終わると、ニッコリと微笑んだ。その笑顔を見つめているうちに、奈都芽の頭の中にあの夜のことがぼんやりと浮かんできた。遠くの方でパトカーのサイレンの鳴る音が響いたような気がした。




 ……あの夜、母に車に乗せられて……向かった先は……。




「そうです。じゃないですか。あの警察署で面会した時に、旦那様がおっしゃったそうです。離婚のことや家の売却、おじょうさんの進路や家元さまが跡を継ぐことなどもね」


 奈都芽はなにがなんだか、わからくなってしまった。




 ……たしかにあの日、二人は面会をした。でも、それにしてもまさかあの時お父さんが……これまで私が見ていた世界はいったいなんだったんだろう? なにが真実でなにがウソなんだろう?……。




 黒が実は白だったと聞かされたような気持ちになった奈都芽は混乱した。


 頭の中で母と父との関係を整理しようとしたが、それはこれまで積み重ねてきた年月がそう簡単にさせることはなかった。不安な表情を浮かべる奈都芽に陽ちゃんが言った。


「だからさっき言ったでしょ? 家元さまと旦那様は互いを理解し、愛しあってた、と」


 そう言われた奈都芽は頭の中であの家で過ごしたことを思い出していた。


「でも、やっぱり母とお父さんの仲がよかったなんて信じられない。だって、二人は会話することもなかったのよ」


「それは、先ほども言ったように家元さまが『愛着障害』が原因でコミュニケーションが苦手だったからです」


「でも、そうだとすると二人は話ができないことになるでしょ? 愛しあっていたっていうけど、気持ちを確かめあうことができないじゃない」


「ノートや手紙を交換していたそうです」


「そんなことを……」




 同じ屋根の下で過ごしていたはずの奈都芽はまた新たな事実を知らされ、驚いた表情を浮かべた。と同時に、「でも……」と思った。


「でも、陽ちゃん。いくら手紙とかノートを交換していたっていったって、母はいつも部屋でひとり籠ってばかりいたのよ? そんなに私やお父さんのことを愛していたんなら三人で過ごせばよかったじゃない」


「部屋でひとり過ごすことも旦那様の提案だったそうですよ。無理にコミュニケーションをとることはない、『愛着障害』と長く付き合っていこうとおっしゃってくれたそうです」


「……それにしても……これまでの話を思い返すと、お父さんは辛いことばかりじゃない? 母はひとりで部屋に閉じこもってばかりで、代わりにお父さんが家のこととか私の面倒を見てくれて」


 そう奈都芽が言うと、陽ちゃんは少し首を傾げた。




「おじょうさんは、家元さまがあの部屋でなにをしていたのかご存知ないのですか?」




 そう言われた奈都芽は記憶を辿った。


「それくらい覚えているわ。母はあの部屋でひとり読書をしていたのよ」


「それでは、どんな本を読んでいたのか覚えていますか?」


 そう言われた奈都芽はさらに深く記憶の中を辿ってみた。




 ……そう、それがいつもわからなくて……時に母が笑っていたこともあったりして「あの母が面白いと思う本ってどんな本だろう?」と気になってしょうがなくて……。




「わからない」


 奈都芽が首を振ると、陽ちゃんは尋ねた。




「おじょうさんは一度だけ家元さまの部屋に入ったのですよね? その時、?」


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