第19章 海の上で生まれた奈都芽を待ち受けていたもの①
「よ、陽ちゃん……」
奈都芽は戸惑うように言った。
そこにいたのは母ではなく、陽ちゃんだった。
白いシャツを着て、畳の上で力なく座り込んでいた。天井を見つめ、まるで意識を失ったかのような表情を浮かべていた。
「ど、どうしたの? な、何があったの? 陽ちゃん」
部屋を開けたとき怒りに満ちていた奈都芽だが、その異変に気づき声をかけた。
その大きな肩を強く揺すると、ようやく陽ちゃんは意識を取り戻したかのような顔つきになった。
「今でも信じられません……『この部屋に入りなさい』と気さくに声をかけてもらって……あんなにニコニコ嬉しそうに笑う家元さまを初めて見ました……ご自身のこれまでの色々なことまで話してくれて」
……あの母が自分の部屋に入ることを許した? ニコニコ笑った? それに、色んなことを陽ちゃんに話した?……ど、どうして?……。
陽ちゃんが話したことを、奈都芽は信じることができなかった。少しの間、そのことを考えていた奈都芽だったが、すぐに怒りの感情が蘇ってきた。
「そんなことより母は今どこにいるの!」奈都芽の声が部屋中に響きわたった。
「家元さまは、今お礼を言うためにお出かけに——」
「もう! 大事な話があるっていうのにどこに行ったのよ!」遮るように奈都芽が言った。
今まで見たことない奈都芽の表情に陽ちゃんは驚いた顔をした。
「あの……おじょうさん、まあ落ち着いてください。どうしたんですか?」
「もう! ウソばかりつく母のことが許せないのよ!」
「ウソ? 家元さまがどんなウソをつきました?」
「お父さんが死んだって、ずっと今までウソをついてきたじゃない! 私が中学の頃この家に来てすぐの時も、結婚する前に夫やお義母さんとあのホテルで話した時も!」
「でも、あれはおじょうさんを守るためのウソです。それにしても、家元さまがついたウソが原因でなにか問題でもあったのですか?」
「それよ! お父さんが死んだってウソを母がついたおかげで私は——」
大声で話してきた奈都芽の口が突然塞がれ、それ以上の言葉が出てくることはなかった。
……カバラ様の力だわ。どんなに話そうとしても口が開かない。あのホテル・ソルスィエールでの『約束』は喋れないんだったわ……母がウソをついていたからついつい安易に『約束』をしてしまった。あの『約束』がなければ、お父さんのことを夫やお義母さんに堂々と話すことができるのに……。
言いたいことが言えない奈都芽が、真っ赤な顔をして叫んだ。
「とにかく母のウソが許せないのよ!」
そう叫んだ奈都芽はゼーゼーと息を切らした。はじめその様子を困惑の表情で見ていた陽ちゃんだったが、奈都芽を気遣うようにゆっくりと話し出した。
「あたしもついさっき家元さまから色々話を聞いてわかったことがたくさんあります。これまで長く身の回りのお世話をさせていただいてきましたが、家元さまのことがよくわかっていませんでした。でも、色々と教えていただきそれらの疑問が晴れました。今ならおじょうさんに家元さまの本当の姿を伝えることができるかもしれません」
「母の本当の姿? そんなの聞くまでもないわ。私が一番よくわかってる。母は私のことが嫌いなのよ!」
「いつも言ってるじゃないですか、おじょうさん。それは誤解です。家元さまはおじょうさんのことを愛してますよ。ただ、家元さまの場合は少し特殊な事情があるのですよ」
「なにが特殊な事情よ! 手をつないだことも、同じ布団で寝たことも、お風呂に一緒に入ったこともない人が愛してるなんて言っても信じられるはずがないじゃない!」
「したいと思っても、できないことがあるのですよ、人間には。本当は、家元さまもおじょうさんにそうしたかった。手をつないだり、抱きしめたり、笑い合ったり。でも、できなかった。実は、家元さまは人とコミュニケーションするのが難しいそうです。なんといったかな……たしか『愛着障害』とお医者様に診断をされたそうです」
「え?……母が?……」奈都芽は戸惑った顔をした。
「ずっと通院をされているそうです。幼少期の母との関係、つまり先代の家元さまのしつけがあまりに厳しすぎたことがその原因だそうです。虐待に近いほど厳しい教育だったそうです。一流の茶道の家元にする、という思いが強すぎたのでしょうね。思春期を過ぎたあたりから衝突を繰り返し、家元さまがご結婚する頃にはお二人は絶縁状態になっていた」
陽ちゃんはそう言うと、悲しそうな表情を浮かべた。陽ちゃんの話を聞いた奈都芽の頭の中にあることが浮かんできた。
「ねえ、もしかして……だから母は祖母を私に会わせなかったり、『亡き者』として扱ったってことなの?」
ええ、と陽ちゃんはうなずいた。
奈都芽は生まれて初めて母の真実の姿をぼんやりと見たような気がした。とはいえ、長年積み重なった母への怒りはすぐには収まらなかった。
「でも、弁護士になりたいって言った時なんて『好きにすれば』って言い放ったり、新しい弁護士事務所に移った時は『やめれば』とか言ってきたわ。やっぱり母は私を愛してるだなんて信じられないわ」
荒々しい奈都芽の口調を聞いた陽ちゃんはゆっくりと首を振った。
「その話も先ほどされておりました。茶道の道を強制されつづけた家元さまはおじょうさんには『好きなように』生きて欲しいと考えてきたそうですよ。それに弁護士の仕事や資格の勉強は大変だから無理をするな、というのがその本心だったそうです。しかし、その思いを上手く伝えられなかった、と」
「そ、そんな……」
真実を聞かされた奈都芽は右と左を入れ替えられたような気持ちになった。
「だってそうでしょ、おじょうさん。無理やり、強制されることの辛さを誰より知っているのは家元さまでよ。だから、ほら——」
そう言いながら、陽ちゃんは母の和机の上に伏せてあった写真立てを立てた。
「この時、着物ではなくてドレスを着ているでしょ?」
そう言われた奈都芽はしばらくそれが何の写真であるか理解できなかった。
……え? これって?……。奈都芽が戸惑っていると、陽ちゃんが答えを示した。
「おじょうさんの七五三の写真ですよ」
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