第18章 『願い』と『約束』③
それからの数日間、奈都芽はふわふわと大海を漂う小さな瓶のような気持ちで過ごした。
目にするものはどこかぼんやりと滲み、耳にする音はどこか遠くの世界から聞こえてくるようだった。
その日の夕食は南野の母の家で三人で食べた。
「後片付けは私が」と奈都芽が行い、南野と南野の母はリビングでテレビを見ていた。
「おー!」
皿を洗う水の音をかき消すように南野が大きな声を出した。「早く、こっちへおいでよ!」
まだ洗い物の途中だったが、言われるままに奈都芽は二人のところへ行った。
「『冤罪』が証明されたんだよ!」
南野は興奮し、奈都芽はテレビに映し出された男の姿に釘づけとなった。
何が起こったのか、しばらく奈都芽は理解ができなかった。
そこに映し出されていたのはまさしく奈都芽の父だった。
若い女性アナウンサーが気の毒そうな顔つきで話し出した。
「長らく収監されていた『
……お、お父さん!……。
紛れもなく奈都芽の父だった。だが、奈都芽の口はその言葉を発することはできなかった。カバラ様との約束が奈都芽の口を開かすことはなかった。
奈都芽の長年の夢だった父の『冤罪』はひょんなことから晴らされることになった。
別件で逮捕された元暴力団員が自供をした。
事件以来これまでずっと、誰にも言わず黙っていたが、ここ最近毎晩夢の中で黒い『影』のようなものに脅されつづけてきた。
「本当のことを言え」
その言葉が一日中耳から離れず、真実を語る気持ちになった、とのことだった。
真犯人の背格好は父と瓜二つで、空手や柔道といった格闘技の経験者でもあった。
犯行時、男は父の歩く姿も目撃しており、「うまく自分の身を隠す手立てができたと思った」と証言をした。さらに被害者宅のリビングに落ちていたシルバーのライターについても記憶しており、「火をつけようとした時に床に落ちていた。自分のライターではなくそのライターを使った」と証言がされ、事件当時の父の自供が正しかったことが証明された。
冤罪を晴らしたということだけでは、すぐに世間に忘れてしまいがちだが、父の場合はそうではなかった。
「獄中で執筆した小説が大手出版社から発売になることが決まり——」
冤罪を晴らした直後の記者会見でそう発表されたことにより一気に世間の注目が集まった。
その作者の経歴からすると話題性が先走りがちになるのだが、父の場合はそうではなかった。気の遠くなるような長い時間、しっかりと基礎を積み上げてきたその文章力や構成力は現役の人気小説家を軽く凌駕するものだった。
父が小説家としてデビューする。
それは、もう一つの奈都芽の長年の夢だった。
その報道から数日間、マスコミは連日父を取り上げた。逮捕時、父を『犯罪者』としてあれほど非難したマスコミは一転、『文壇のニュースター』と敬意を持って報道した。
「まあ、素敵な小説ね!」
流行に敏感な南野の母はすぐに本を購入し、あっという間にファンになった。
「『
宝物のように本を抱える南野の母の姿を奈都芽は複雑な面持ちで見つめた。
……私の……私の自慢のお父さんなんです……でも……父の苗字が『安川』で私の実家が『川田』なんだから気づきようもないわね……。
いつも薫がそうするように、奈都芽も父のことを堂々と自慢したかった。しかし、カバラ様との約束は奈都芽の口をしっかりと閉めたままにした。
「逮捕された時から一貫して無罪を主張していたんだな……」
父に関する大量の資料を読みながら南野が呟いた。
「こんな方が誤って逮捕されていたなんて……もし早くに出会えていたら、少しでも力になることができたのに……」
悔しそうな表情を浮かべる南野に奈都芽はかける言葉がなかった。
連日、マスコミは、奈都芽の父である『安川誉』の作品について報道を繰り返した。その効果もあってか、あっという間にベストセラーとなり、時代の寵児となった。
「こんな綺麗な文章を書くだけでなく、背も高くって。その上運動神経もいいそうよ!」
テレビや雑誌で情報を集めた南野の母は、サインが欲しい、というのが口癖になっていた。
……あれは、私の……私の自慢のお父さんなんです……私の……私の……。
奈都芽はせめて夫である南野や義母である南野の母に、愛する父のことを話したかった。夏の暑い日、プールに連れていってくれたこと。母の機嫌が悪い時に近くの神社に連れ出してくれたこと。図書館に行って本を一緒に読んだこと。毎晩、タバコを吸いながら小説を書いていたこと。
だが、それらの一つのことですら奈都芽は話すことができなかった。奈都芽の『願い』をかなえる代わりにカバラ様と『約束』をしたのだから。
「だって、私のお父さんはすでに亡くなっているのよ」
生きているはずの父のことを誰にも言えない。そんな異常な事態に奈都芽の精神の限界が近づきつつあった。
ある週末の土曜日。
その日、南野は大学時代の同窓生たちと一泊二日の旅行に出かけていた。
留守番をすることになった奈都芽はお昼まではどうにか家で一人過ごしていたが、その頭の中から父のことが離れることはなかった。
「カバラ様にあの『約束』をなかったことにしてもらおう」
ついに、奈都芽はそう決意をした。
気がつくと、奈都芽は例のホテルに向かい電車に乗っていた。
例のバス停にたどり着いた奈都芽はバス停の周りをぐるりと歩いて見た。
だが、やはり、初めて来たとき見たはずの老婆の店は見当たらなかった。記憶を頼りに奈都芽はバス停から白黒猫のブチが現れる場所を探してみた。
「明るすぎるのかな」
そう言いながら、奈都芽は空を見あげた。いつも猫に出会うのが夕闇の中だったからだ。
……どうやったら、ホテル・ソルスィエールに行けるんだろう?……。
たまたま通りかかった何人かの人に尋ねてみた。
「ホテル・ソルスィエール?」
誰に聞いても首を傾げながら同じように答えた。そんなホテルあったかしら、と。
諦めかけていた奈都芽だったが、
「そうだ!」
奈都芽はふとあることを思い出した。
三度目にホテルに宿泊した時、
「今度来る時は、白黒猫に案内してもらわなくても大丈夫なように」
と、スマホの地図アプリに歩いたルートを記憶させていたのだ。
奈都芽はその地図に基づき、ホテルへと向かった。
「この角を曲がったら——」
そこにホテル・ソルスィエールがあるはずだった。黒江が管理するあの美しいホテルが。
だが、奈都芽の目の前に見えてきたのは広大な原っぱだった。
慌てて奈都芽はスマホを手に取り確認した。
あれほど撮影した、そこにあるはずのホテルの写真が一枚も残っていなかった。黒江が作った数々の料理も大好きな白ウサギのラパンの姿もどこにもなかった。呆然とする奈都芽の目に左手に巻いている時計が目に入った。その一瞬、時計の針の先にあるピエロの目から涙がこぼれたように奈都芽の目には映った。
「そもそも当ホテルに宿泊できるのも選ばれし方のみですが——」
あのとき、あの暗い部屋でカバラ様がそう言っていたことを奈都芽は思い出した。
……もう、私がホテル・ソルスィエールに呼ばれることはないのね……。
そう察した奈都芽は、途端に後悔の念にかきたてられた。
……見合いを中止して、南野先生と結婚する『願い』を叶えるかわりにあんな『約束』をしなければ……私の愛するお父さんを亡き者にする、なんて『約束』を……。
奈都芽の目から涙がとめどなく溢れ出した。
雑草の生い茂る原っぱに力なく座り込み、奈都芽はしばらく泣きつづけた。しばらく泣いていた奈都芽だったが、少しずつ自分を取り戻しはじめると、その心の中にゆっくりとある一人の顔が浮かんできた。
……——が、ウソをつかなければ……——が、そもそも、父が逮捕されたことを初めから素直に周りの人たちに話せばよかったのよ……そうすれば私だって……私だってあんな『約束』しなかったのよ……。
後悔や悲しみといった感情が少しずつ脇に追いやられ、怒りという新たな感情が奈都芽の心を完全に支配した。
「あいつ」
そう呟いた瞬間、奈都芽の心は決まり、気づくと飛行機に飛び乗っていた。
「ドンッ!」
実家に着いた奈都芽は、次々と和室の引き戸を開けてまわった。
……私はどうして今まであいつから逃げてばかりいたんだろう?……。
奈都芽は生まれてからずっと母の圧力に負けつづけてきた自分が情けなく、そして腹が立った。
「今日こそ、決着をつけるわ!」
初めて母に反抗することを決意した奈都芽は今にも壊さんばかりの力で戸を開けつづけた。
まるで旅館のように広い家中を、その姿を探して回った。だが、奈都芽が対峙すると誓ったその姿はどこにも見当たらなかった。
最後に残ったのは母の書斎だった。
「ドンッ!」
奈都芽は全身全霊すべての力を振り絞るようにして、その戸を開け放った。
ようやくそこに誰かがいた。
しかし、それは母ではなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます