第18章  『願い』と『約束』②

「おはようございます」


 結婚後も同じ法律事務所で働くことになった奈都芽と南野は受付係の女性と挨拶をした。


 その席にいるはずの薫の姿はもうなかった。二人の結婚が決まるとすぐに薫は『一身上の都合により』退職をした。結婚式にも招待したが、『一身上の都合により』欠席をした。


 結婚を機に部署は別々になった二人だったが、時間が合うかぎり同じ電車で通勤をした。




「あら、おかえりなさい」


 同じ敷地で別棟に住む南野の母と黒い鉄の門のすぐ前で会った。


「これから、お友達と一緒にディナーに行くの」


 二人に手を振りながら、南野の母が待たせていた黒の高級車に乗りこんだ。


 同じ敷地に住む嫁と姑の関係がうまくいくかどうか心配していた奈都芽だったが、奈都芽の母を「家元さま」と尊敬していることや、南野がこまめに二人の間に入りコミュニケーションをとることもあって、極めて良好な関係を保っていた。予想はしていたが、奈都芽にとって南野はどんな些細なことにでも相談に乗ってくれる優しい夫であった。




 時が経ち、あのホテル・ソルスィエールで例の契約をしてから二年が経とうとしていた。


「奈都芽さん、お手紙が届いていたわよ」


 帰宅するとすぐに、南野の母(もはや今となっては『母』と呼んでもよいのだが)がそう言いながら奈都芽のところに手紙を持ってきた。


 差出人はあの薫だった。


 南野と奈都芽が結婚、薫が退社した当初は一切連絡をしてこなかったのだが、一年前に薫がオペラ歌手であるお父様に付き添って海外に出かけるようになってからは、時折こうして手紙がやってきた。


「薫さん、今イタリアにいるんだって」


 手紙を読んだ奈都芽はソファに座っている南野にそう声をかけた。


 SNSで連絡が来ることも多いのだが、時に無性に日本語が書きたくなるようで、薫はびっしりと何枚もの便箋で近況を奈都芽に報告してきた。




 その夜は食後、南野の母が奈都芽たちの家に友人からもらったお菓子を持ってきていた。ソファに座り、紅茶を飲みながら三人で話をしているときに、奈都芽のスマホが震えた。


「今夜、薫さん、テレビに出るみたいです」


 薫からのメッセージを読んだ三人は教えらえた番組にチャンネルを合わせた。


「うわー! 薫さんのお父様!」


 薫さんのお父様のファンである南野の母の声が大きく響いた。オペラの衣装を着た父の傍で、いかにも高そうな青いドレスを着た薫が立っていた。


「えっ! イタリアでオペラの賞をもらったんだって!」


 そう言うと、南野の母はどんどん興奮していった。『おめでとう!』ってすぐにメッセージを打ってちょうだい、と言いながら奈都芽の肩を強く揺すった。


「相変わらず素敵ね。いいわね、あんなお父様」


 それは悪意のない、南野の母の率直な気持ちだった。だが、すぐに


「お母さん」


 南野が母をたしなめるように声をかけた。


「あら」息子の指摘に気がついた母の顔色が変わった。


「ごめんなさいね、奈都芽さん。お父さまの話をして、無神経だったわね」


 南野が傷を癒すように優しく奈都芽の肩に手を置いた。


 ……私のお父さんは薫さんのお父様みたいになにか賞を取っているわけじゃないし……。


「いいえ、お母さま。そんなに気を使っていただかなくても大丈夫です」


 どうにか奈都芽の口から出てきたのはその言葉だけだった。




 結婚後の奈都芽が南野について初めて知ったことがあるといえば


「そうだ、あの事件もファイルしなきゃ」


 と、自宅でも『冤罪』の資料を作成し保存していることだった。かつて職場の机で見たのと同じ青のファイルが書斎に綺麗に並べられていた。そのファイルを二人で見ることがあったのだが、そんな時いつでも


「ねえ、『道上先生』ってどんなふうに資料を整理していたのか覚えてない?」


 と、南野は奈都芽に先生のことを質問した。


 ……本当に『冤罪』をなくそうとしている……立派だな……。


 『冤罪』について熱く語る南野を奈都芽は誇らしげな気持ちで見つめていた。




 その日、奈都芽は久しぶりに有給休暇を取っていた。


 急な仕事が入った南野は一緒に休暇が取れず、一人で奈都芽は家にいた。文句のつけようのない晴天で、洗濯物を干し終えた奈都芽はソファに座り今日の予定を考えていた。


「ピンポン」


 玄関のチャイムが鳴る音がした。


 ソファから立ち上がり、玄関に向かった奈都芽はドアを開けた。だが、そこには誰の姿もなかった。




「もしかして、薫さんから手紙かな?」


 直感的にそう感じた奈都芽はポストを開けた。


 昨夜のSNSで薫がフランスの有名なホテルに長期滞在していると知らされていたからだ。だが、そこには何も入っていなかった。


「ぴぃ、ぽん」


 その時、リビングの方からスマホが鳴るのが聞こえた。ドアを閉めると、奈都芽はすぐにリビングに向かい、スマホを手にした。


「……」


 たしかに聞いたはずの着信音が空耳であったのかもしれなかった。スマホには誰からも連絡は入ってなかった。


 だが、ふとその時スマホを手にした親指が少し疼くのを感じた。


 奈都芽はその疼く親指をおそるおそる確認した。


「こ、これはいったい?」


 窓から斜めに差し込む光があるものを映し出していた。




 右手の親指のところにがあった。




 奈都芽の目がそこに釘づけになった。


 ……こんなものがいつのまに?……。




「もしかして、ゴミかな?」


 奈都芽はティッシュで手を拭いてみたが、それは取れなかった。


 ボールペンかなにかで汚してしまったのかもしれない。洗面室に向かい、奈都芽は石鹼で何度か手を洗った。だが、やはり、それが消えることはなかった。


「こ、これはいったい……なんだろう?」


 奈都芽がそう呟いていると、スマホが鳴った。


「奈都芽さん、よかったら一緒にランチでも行かない?」


 シミのようなものが気にはなったが、そのことは忘れ、奈都芽は南野の母と出かけた。






 朝の通勤電車で、運よく席が空いていた奈都芽と南野は二人で仲良く並んで座った。


 あの日以来、奈都芽の指は静かに疼きつづけていた。

 もちろん気にはなったが、なるべくそのことは考えないように奈都芽は努めた。しかし、いくらそう気持ちを切り替えようとしても、もうそれを無視することは不可能だった。当初、ぼんやりとしていたあのがその輪郭をはっきりとさせていた。




 奈都芽の右手の親指に浮かび上がってきたのは『』だった。




 その『足跡』はまさにあの契約書を入れた封筒を封印した『足跡』だった。


 それは奈都芽にすっかり忘れていたあのホテルの出来事を思い起こさせた。




「一つ目は、あなたが交わした『』というです」




 いるはずがないのに、まさに目の前にあのカバラ様がいるような錯覚に奈都芽は陥った。夜でもないのに、車内が一気に真っ暗になったような気がした。




「そして、約束が果たされるにあなたの右手の親指のところにカラスのブランが手紙の裏につけたのとが浮かんできます」




 肩に白カラスを乗せたカバラ様がそう言うと、いつのまにか奈都芽の前に立っていた黒江が深々と頭を下げた。足元には白黒猫のブチと白ウサギのラパンの姿も見えた。


 奈都芽はそれらの姿を追い払おうと頭を左右に何度か振った。


 ……この足跡が出て、もう三日になる。ということはあの約束を果たすときが来た、ということなの?……お父さんを死んだことにしなくてはならないってことなの?……。


 そう考えながら奈都芽がしばらく右手の親指を見つめていた。




「どうしたの? 何を見てるの?」


 そう言うと、南野が奈都芽の手を握った。


「あっ!」


 しまった! 見られてはいけないのに! そう考えた奈都芽は慌てて、手を引っ込めようとした。だが、南野の力の方が強く、奈都芽の手は南野の手の中にあった。


「……なんだ……ずっと見ているから、何かあると思ったのに……」


「……え?……」


 奈都芽は南野に捕まれている右手の親指を見た。そこにはやはり『足跡』があった。


「親指に、何か見えるの?」


 だが、そこにあるはずの『足跡』は南野には見えないようだった。その時、先ほど振り払ったはずのカバラ様の声がまた奈都芽の耳に聞こえてきた。




「ちなみにそのしるしはあなたにしか見えません」




 奈都芽はあの日のことをまるで昨日のことのように鮮明に思い出した。


 、といったことなども。

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