第17章 《黒魔術》黒江・奪われた『黒』の正体、そしてその行方

 奈都芽をバス停まで送り届けた黒江はホテルに戻るとロビーへと向かった。


 窓際では白黒猫のブチと白ウサギのラパンが寝そべり、日向ひなたぼっこをしていた。

 普段は小刻みに揺れるブチとラパンのひげだが、まるでようやく寝静まった赤ちゃんのように、じっと動かずにいた。


「すこし早いですが、まあいいでしょう」


 ロビーの掛け時計で時刻を確認した黒江はお昼ごはんの準備をはじめた。



 窓際に置かれた、かつてクイーンエリザベス二世号で使われていたとされる小振りのテーブルの上に用意した食事を黒江は確認した。床一面に敷き詰められた絨毯と同じ、真っ赤なランチョンマットの上に各自の食事が配置されていた。


「さて、用意ができ——」


 黒江が床に寝ころんだブチとラパンに声をかけようとしたとき、もうその姿はなかった。急いで机の上に目をやると、赤のランチョンマットの上に姿勢正しく座っていた。


「ラパン、あなたもブチの影響でずいぶん要領がよくなりましたね。残るはブランですが——」


 そう黒江が言いかけたとき、すでに窓枠のところに白カラスのブランが座っていた。


 窓枠からランチョンマットにブランがヒョイと移動すると、左から白黒猫のブチ、白ウサギのラパン、白カラスのブランが並んだ。




 ブチは大好物の赤みのマグロを、ブランはお気に入りの牛肉のスライスを、ラパンは庭で採れたばかりのイチゴを食べた。


 一番初めに食べ終えたのは、大皿に険しい山のようにイチゴを積み上げていたはずのラパンだった。ブチは魚介ベースの透き通ったスープを、ブランはサラダを食べていた。


 食べ終えたラパンは机から少し離れたところで立っていた黒江のところにやってきた。


「お腹は満たされましたか?」


 黒江のその問いにラパンは何度もうなずいた。食後すぐに庭に出ていくはずのラパンがいつまでもそばにいることから黒江は声をかけた。


「どうかされましたか? ラパン」


 実は聞きたいことがある、とラパンは黒江に言った。


 大きな窓から差し込んだ光の中で、ラパンと黒江は話をはじめた。






 さて、ラパン。聞きたいことがあるとのことですが……。


 え? なんですって? 毎日、毎日『時間の管理』ばかりで辛い、いつまでここで働かなくてはいけないのか、ですって?


 まったく、あなたは仕事をなんだと思っているのですか! 


 こらえ性のない人間、いやウサギですね!


 まだ仕事は始まったばかりですよ。


 心配しなくてもそのうちに慣れてきますよ。しっかりカバラ様に奉公してくださいな。


 恩を返していくのですよ。




 なに? わたくしがいつまでここで働かなくてはいけないのか知りたいですって?


 まったく、話があると言うから耳を傾けてみたのに、どうでもいいことが気になるのですね。まあ、とはいえ、上司と部下の関係ですから、時にはこういった話をする時間も必要なのかもしれませんね。




 実は……わたくしは……もう……このですよ。


 数年前に、カバラ様と約束した労働をすべて終えたのです。




 これ、これ、ラパン。そんなに口をあんぐり開けて、驚かなくてもいいでしょう。


 うん? じゃあ、なぜまだこのホテルで働いているのか、ですって?


 そんなことは簡単なことです。答えは極めてシンプルです。






 ですよ。


 あれほどの霊力を持った方はおられませんからね。


 


 あれがカバラ様の霊力の源。あの溢れだすような力の塊を忘れることができないのですよ。






 黒江がそこまで話すと、ラパンは疑問が晴れ納得したようにゆっくりとうなずいた。


 日差しがさらに強くなり、黒江とラパンはまるでキラキラ輝く『光の海』の中にいるようであった。いつものように磨きこまれた黒江の靴が光を反射させていた。






 なんですって? まだ聞きたいことがある?


 まったく、今日もこれから宿泊される方がおられて忙しいというのに。


 で、それで何を聞きたいのですか?


 なになに。わたくしが与えられた『仕事』はホテルを管理することだというのはわかっている。そうではなくって、カバラ様から与えられた『』が知りたいですって?


 なるほど。たしか、あなたがこのホテルに初めて来たとき、その話をしたのですね。つまり、あの時の話のつづきが聞きたいということですね。


 あの時も言いましたが、実は






 この世の『』の支配者はカバラ様です。


 この世の『』という『』はすべてカバラ様が支配しているのです。






 それとわたくしがカバラ様に与えられた『名前』がどう関係しているのか、ですって?


 たしかにわたくしの場合、話が少し複雑になります。


 あなたの場合はラパンという『名前』が与えられましたね。ですが、わたくしの場合は『黒江』という名前から『黒』を奪われてしまったのです。


 なに? 名札に『黒江』と書かれてある?


 はは。わたくしは先ほども言ったように課された『仕事』を全うしましたから、『黒江』の『黒』を返しもらったのですよ。


 ふむふむ。でも、カバラ様の部屋では『』となっていたですって?


 いやぁ、これは痛いところをつかれましたね。そうなのですよ。カバラ様の部屋に行った時だけは、今でも『黒』を取り上げられてしまうのですよ。『黒』の支配者としての力をわたくしに見せつけたいのでしょうね。




 まだ聞きたいことがある? 他に奪われた『黒』はないのか、ですって?


 まったく、あなたも嫌いじゃありませんね。その長い耳は伊達ではないようです。




 もちろん、わたくしが奪われた『黒』は『名前』だけではありません。


 わたくしがあの森の中の祠に落としたとカバラ様に言った『黒い指輪』の『黒』も取り上げられてしまったのです。


 え? でも今は黒い指輪だから返してもらったか、ですって?


 残念ながらそうではないのですよ、ラパン。


 まだ、この指輪の『黒』はカバラ様に取られたままなのです。


 この黒い指輪は特別な塗料で黒のコーティングを施してあるだけで、なのです。


 ちなみに、そのせいでわたくしの霊力にも制限がかけられているのです。そうでなかったらあのカワタ様の願いなどカバラ様に頼む必要などなかったのです。




 これこれ、驚きすぎてひげが痙攣けいれんしているではないですか。


 でも……ラパン……実は……奪われたのはそれだけではありません。


 さらに奪われたわたくしの『』は——






 黒江がそこまで言うと、ラパンは食い入るように黒江の顔をじっと覗きこんだ。

 空には雲ひとつないようで、窓から差し込み光がさらにロビーを明るくした。


 黒江がゆっくりと足元を指差した。光に映しだされた黒江の影にラパンは目を移した。





 さらにわたくしが奪われた『』というのは、実は『』だったのです。


 あの社殿の中を覗いたとき、『です。




 え? いや、『影』があるじゃないか、というのですね。


 ラパン、もう一度わたくしの『影』をよく見てください。


 気づきませんか? はは、ようやくわかったようですね。


 はい。そう、そうなのです。


 わたくしがカバラ様に奪われた『』とは『』なのです。


 そして、その奪われた『影の半分』が今、どこにあるのかというと——





 そう言うと、黒江は窓際の机の上に敷いた真っ赤なランチョンマットの方を指差した。





 』なのです。


 」は、実は』なのです。






 そこまで聞くと、白ウサギのラパンは白黒猫のブチを見た。


 ブチは深くその味を楽しむように目をつむりながらスープを舐めていた。






 どうしたのですか、ラパン? 


 そんなに震えて。


 あなたはもう支配人の仕事を全うしたのに、『黒』は返してもらえないのか、ですか?




 安心してください。そのことについては、すでにカバラ様と話がついております。


 これまでの働きぶりを認めてくださったカバラ様は、わたくしがこのホテルを去るときにすべての『黒』を返してくれるという約束をしてくださいました。


 え? では、なぜ今すぐこのホテル・ソルスィエールを出ていかないのか、ですか?




 そうですね、もっともな質問です。ただ、そう簡単にいかない事情があるのです。


 わたくしがこのホテルを去り、奪われた『黒』をすべて取り戻したらどうなるか?




 元々『』だったブチがのです。


 ブチの白黒のまだら模様はそれは見事で、特に黒の斑点の輝きといったら素晴らしいものでした。


 自慢の黒の斑点を取り上げられ、全身真っ白の猫になった時、ブチがどれほど落ち込んだか。見るに見かねたわたくしがカバラ様にお願いしたのです。



「そう、そんなに『』が欲しいなら、』が余っているわ」




 そうしてようやく『黒』を手に入れたブチはどうにか元気を取り戻したのです。


 だから、わたくしは、ブチの人生、いや『猫』生があまりに不憫で、ここを離れることができないのですよ。






 そこまで話した黒江は物憂げ表情を浮かべ、ブチを眺めていた。


 溢れるような陽の当たるなか、半分しかない黒江の『影』をラパンはいつまでもじっと見つめていた。


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