第16章 《黒魔術》カバラ様との約束③
……え?……黒?……黒魔術?……。
奈都芽の動揺を察したのか、女がすぐに話すのを止めた。背中を向け座っているはずなのに、奈都芽のことをすべて把握しているようだった。
「あまり、気にしなくても大丈夫ですわよ。『黒魔術』なんて言葉を聞くと、初めは皆さん怖がる方がほとんどです。ですが、『黒魔術』なんて、ほんのおまじないのようなものなのですよ」
……そう言われても……。奈都芽は動揺が隠せない。
その奈都芽の不安を和らげるように、優しい声で女がつづける。
「『黒魔術』は我が家に代々伝わる不思議な力。生まれた時から備わっている力なのです。その力がどんなものなのか、そんなことはたいした問題ではございません。なにより大事なのは、『この黒魔術を使って願いを叶えることができるのは縁のある限られた人だけ』ということです。誰も彼もが、今いるこの部屋に来られるわけではないのです。実は、そもそも当ホテルに宿泊できるのも選ばれし方のみですが、その選ばれた宿泊客すべてが、この『黒魔術』を使って願いが叶えられるわけではないのですよ」
その話を聞き、奈都芽は不思議と気持ちが楽になった。女の落ち着き払った口調がさらにそうさせたのかもしれない。
奈都芽はふと隣に立つ黒江に目をやった。
このホテルのオーナーである女性の話を静かにうなずきながら聞いている黒江の姿を見ていると、とても幸運な状況にいるような気がしてきた。
……たしか……この女性の名前は『カバラ様』……。
しかし、やはり気になり、奈都芽は黒魔術について質問をした。
「あら、ごめんあそばせ。黒魔術の詳しいことは誰にも言えない決まりになっておりますの。長年、仕えているこのクロエですら何も知らないのですから」
その話を聞いた黒江が大きくうなずく。
「ただし、これだけは言えます。あなたの願いは必ず、百パーセント叶えられます!」
自信に満ちた声が、部屋中に響き渡った。
これまで黒江と話す度に、奈都芽は背中を強く押してもらうような感覚を抱いてきた。それは今まで感じたことのない安心感だった。これほど頼りになる人はいない、と思った。
……でも……黒江さんのご主人様である『カバラ様』の言葉には……さらにそれを大きく上回る力がある……。
ようやく奈都芽の決意は固まった。
黒魔術の詳しいことは考える必要がない。この『カバラ様』におまかせしよう。
だが、念のために、いくらかかるのかを確認する。
「ホッ、ホッ、ホッ。また、また、ご冗談が過ぎますわよ、カワタ様。クロエから聞いていらっしゃるでしょうが、もちろんお金はいただきません。ただし、ほんの少しだけ、『見返り』といってはなんですが、『約束』を一つだけしていただくのが決まりですのよ」
……や、『約束』?……。
「カワタ様の『お見合いを中止させ、同僚の南野先生と結婚する』という願いを叶えるために、ほんの些細な『約束』をしてくださいな」
……ほんの些細な『約束』?……。
「そうねぇ……できるだけ、些細なことがいいの……いっこうに困らない程度のものがいいんだけど……」
些細なことなら助かる。奈都芽がそう考えていると、何かを閃いたといったような声が聞こえてきた。
「そうだわ。どうかしら? 『お父さんはすでに亡くなったことにする』、なんていうのは?」
「そんな!」奈都芽は思わずこの部屋に来て一番大きな声を出した。「お父さんがすでに亡くなったなんて、どうしてそれが些細なことなんですか!」
生まれて初めてといっていいほどの怒りが奈都芽の体中にこみあげてきた。
だが、その怒りとは対照的に冷静な声でカバラ様が言った。
「依頼書が届いたとき、少しだけ『カワタ様の過去』を見させてもらいました。あなたのお母様は例の事件の後、お父様が体を患い亡くなったということを否定しませんでしたわよね?」
そう言われた奈都芽の頭の中に中学に入ったすぐの頃のことが鮮明に思い出された。
「家元さま、大変でしたね。旦那さん、ずいぶん病気で苦しんだそうで」
周囲の人にそう言われた母は、静かにうなずき、ゆっくりと頭を下げた。
……あのとき、母は平然とウソをついて……。
カバラ様がさらにつづけた。
「いま現在、あなた方の周りの人たちは『お父さんはすでに亡くなった』と信じているのではないですか? それとも今さら『実は刑務所の中にいる』とあのお母様が真実を告げてまわるのですか?」
奈都芽の隣りで立つ黒江の指輪が黒く光っていた。
……そうか、この霊力のある黒江さんのご主人様なんだから、すべてお見通しってことか……。
奈都芽に反論の言葉はなかった。
「今後、南野先生やそのご家族と婚姻関係を結んでいくなかで、『お父さんはすでに亡くなった』という方がうまくいくんじゃないかしら? 逆に『お父さんは刑務所の中にいる』とカワタ様が主張したとしたら、あのあなたのお母様が黙っているでしょうか?」
奈都芽はすぐに母のことを思い浮かべた。カバラ様の意見に落ち度はないように思えた。
……たしかに、もう私が中学の時から『お父さんはすでに亡くなっている』も同然なのかもしれない……だって、お父さんのことこれまで誰にも言ってこなかったんだもん……。
「じゃあ、それで、決まりですわね。クロエ、例の契約書を。さあ、カワタ様。そちらのソファに腰をかけてくださいな」
言われるままに、奈都芽は応接セットの椅子に座った。座るとすぐに机の上のランプが突然ふわっと点き、黒江が契約書を目の前に置いた。
契 約 書
契約内容(叶える願い):お見合いを中止させ、同僚の南野先生と結婚する
『約束』 :お父さんはすでに亡くなったことにする
「契約内容に問題がないようでしたら、日付と名前を書いてください」
カバラ様にそう言われ、奈都芽が契約書の一番下に目をやると、『日付』と『名前』、そしてそのすぐ横に『㊞』と書かれていた。
奈都芽がそれらを見ていると、どこからともなく何かがヒラヒラと舞い降り、机の上に不時着をした。白い羽根のついたボールペンだった。
……ど、どこから降ってきたの……もう……次々と不思議なことばかり……。
奈都芽がその羽根のボールペンを見つめていると、
「さあ、どうぞ」
カバラ様に言われるままに、奈都芽は日付と名前を記入した。
「いよいよ、最後は㊞ですわ」
椅子の向こうからカバラ様がそう言うとすぐに、奈都芽の手からスルリと白い羽根が抜け出し、そのままスーッと真上に浮かびあがった。肩の高さまで浮いた羽根はそこでユラユラと小刻みに揺れていた。何が起こったのかわからず、奈都芽は口を開けたまま唖然としていた。しかし、カバラ様はその現象について説明するつもりがないようだった。
「さあ、右手の親指でその羽根を撫でてください」
奈都芽は言われるままに、そっとその羽根を触った。
……柔らかくて、フワフワとして気持ちいい感触……あれ? 痛くないけど、なにか水気のようなものが……。
「その親指をそのまま㊞のところに押しつけてください」
奈都芽は親指をゆっくりと押しつけた。指を離すとなぜか血判ができていた。
……え? 血?……。
奈都芽は慌てて、紙から離した親指を確認した。だが、切れた跡は何もなかった。
「その契約書を三つ折りにして、封筒に入れてください」
カバラ様がそう言うと、黒江はさっと白い封筒を奈都芽に差し出した。奈都芽が契約書を封筒に入れると、黒江はそれをカバラ様に届けた。
契約書の入った封筒が届けられるとそこで初めて、革張りの回転椅子がクルリと回った。
その威厳ある姿に、奈都芽は思わず椅子から立ち上がり、直立してしまった。
黒いレース地のドレスに、ブルーの大きなサファイアのリングが左手に輝いていた。耳には同じくブルーの小さなサファイアのイヤリングが揺れていた。頭の上から黒の薄いレースのようなものがかかっており、表情はよく見えなかった。奈都芽がどうにか目にすることができたのはその真っ赤な口紅だけだった。
カバラ様の膝の上には奈都芽をホテルに導いた例の白黒猫が座っていた。
カバラ様が黒のドレスを着ているせいで、体が半分しかない『白猫』が座っているように見えた。肩には白い鳥のようなものが乗っていた。
「ブチのことはもうご存知ですわね」
膝の上に寝ころぶ白黒猫を撫でながら、真っ赤な唇が動いた。
……あの白黒猫ってブチっていうのか……。
奈都芽はようやく猫の名前を知った。
「この肩に乗っているのが、カラスのブランですのよ」
カバラ様がニヤリと笑った。
……あの肩の白い鳥はカラスなのね……生まれて初めて白いカラスを見たわ……。
カバラ様に紹介されたカラスは、ゆっくりと目を開けた。一点の濁りのない澄み切ったクールなブルーな目をしていた。
……もしかして、さっきの白いペンって……あのカラスの羽根だったのかな?……。
「では」
低い声でそう言うと、カバラ様はさっき受け取った封筒をゆっくりと自分の体に近づけた。
するとその動きに合わせるようにして、肩に乗った白いカラスが前のめりになりながら封筒に近づいた。白カラスが封筒に近づくのを膝に乗った白黒猫がじっと見上げていた。
「よし、できたわよ。クロエ」
カバラ様から受け取り、黒江は奈都芽に封筒を手渡した。
宛名もない、切手も貼られていない、ただの真っ白な封筒だった。
……こ、これはいったい?……。
奈都芽がおそるおそる封筒を裏返してみると、黒い蝋ろうのようなもので封印がしてあった。その封印は『鳥の足跡の形』をしていた。先ほどカラスが前のめりになった際に、封を閉じたようだった。
「その封筒を明日の朝、ホテルの玄関横のポストに入れてください」
……で、でも、カバラ様……あ、宛名も書かれてないし、そ、それに切手も……。
聞きたいことがあった奈都芽だが、カバラ様はその時間を与えてはくれなかった。
「カワタ様、最後に注意事項を二つほど。一つ目は、あなたが交わした『お父さんはすでに亡くなったことにする』という約束がいつ果たされるかわからないということです。ただし、必ず願いが叶った後です。願いが叶えられてから一年後か、十年後か、はたまた三十年後か、それはわかりません。ただ、その約束が果たされる三日前にあなたの右手の親指のところに先ほどカラスのブランが手紙の裏につけたのと同じ足跡が浮かんできます。ちなみにそのしるしはあなたにしか見えません」
……ということは……つまり、『あのカラスの足跡が親指に出てから三日後から、お父さんはすでに亡くなったことにするという約束が始まる』ってことね……。
奈都芽は重要な法律の条文を暗記するときにいつもそうするように、カバラ様の話を理解し、頭の中にしっかりと刻み込んだ。
「そして、二つ目は、この部屋を出た瞬間から、あなたはこの部屋で起こった出来事について一切口にすることができないということです。契約書のことや、黒魔術のこと、叶えようとしている願いのこと。そして、代わりに約束した『お父さんはすでに亡くなったことにする』なんてことをね」
……と、とんでもない約束をしてしまったんじゃないの……。
だがそんな不安を告げる暇も与えないといったように、真っ赤な唇が静かに動いた。
「もちろん、私のこともね」
次の瞬間、奈都芽の体が急に重くなり出した。
カバラ様、白カラスのブラン、白黒猫のブチに白ウサギのラパン。そして、支配人の黒江。
それらのシルエットが少しずつかすみ始めた。いつのまにか、ソファに体が深く沈み込み、奈都芽の目は閉じてしまった。そのまま意識が朦朧とし、深い闇へと落ちていった。
目が覚めたとき、奈都芽は「202」のベッドの中にいた。部屋中に朝の光が差し込んでいた。
……え? いつのまに?……たしか私……カバラ様の部屋にいたはずなのに……。
奈都芽はすぐに昨日の夜のことを思い出そうとした。だが、そのとき
「コン、コン」
部屋のドアを叩く音がした。いつものようにモーニングコールは白ウサギのラパンだった。奈都芽はラパンを抱きあげ、首輪を確認した。首輪の色はいつもと同じ白だった。
「ラパン。昨日、たしかあの例の部屋であなたの首輪の色が——」
そう話しかけようとした途端、まるでファスナーで閉められたように奈都芽の口が塞がってしまった。
……ど、どうして口が……動かせないんだろう?……。
奈都芽は抱いていたラパンをすぐに下におろした。いつもラパンから聞こえてくる「カッチ、カッチ」という音が耳に届いてないことに奈都芽は気づいていなかった。
……こんなところにポストがあったかな?……。
チェックアウトをすませ、外に出ると、玄関のすぐ横に真っ黒なポストがあった。そこはいつも白黒猫が消え、黒江が現れる玄関のすぐ横だった。
隣りに立つ黒江に見守られながら、奈都芽は手にした白い封筒をポストに入れた。
奈都芽はチラリと黒江の名札と手首に目をやった。名札の名前は『黒江』で、手首には何も巻かれていなかった。だが、奈都芽はそのことについて何か聞こうとは思わなかった。
……たぶん……あの部屋で起きたことに関しては……口が開かないだろうし……。
バス停に送ろうと、車に向かう黒江の指輪が光るのを奈都芽はぼんやりと見つめていた。
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