第15章 パーティーの主役・スポットライトの当たるさき③
その薫の目を見ながら、奈都芽は黒江のアドバイスの正しさを改めて思い知らされた。
「カワタ様、人生どこで何が起こるかわかりません。念のため『着付け』の練習を徹底的にして置いてください」
わかりました、とその場では返事をしたものの、『着付け』どころか、生まれて一度も着物を着たことのない奈都芽はどうしたらいいのか途方に暮れていた。
「そうだ! 陽ちゃんに教えてもらえばいいんだわ!」
着物を大量に持った陽ちゃんが部屋にきた時、奈都芽は『着付け』の話をした。
「そ、それがですね……は、は、は……実は、申し上げにくいのですが……」
そう言いながら、陽ちゃんは手にしていた着物の端を握ったり離したりしていた。
「じ、実は、『着付け』が覚えられなくて先代の家元さまに破門をされまして……」
「え?」
奈都芽はこのとき初めて陽ちゃんの過去を知った。恥ずかしそうに俯く陽ちゃんを見ながら奈都芽はあることが心配になった。
「ねえ、じゃあ、こんなにいっぱい持ってきてくれた着物を着ることができないんじゃ——」
「それはおまかせください!」
ドン! 突然、元気を取り戻した陽ちゃんが胸を叩いた。
「これを見ながら練習しましょう! そうすれば必ず着ることができるようになります!」
奈都芽は陽ちゃんに差し出されたDVDを見ながら『着付け』の稽古をした。陽ちゃんの言う通り、奈都芽は自分でも驚くほどの異常な速さでその技を習得した。
「……」
それもそのはずだった。DVDの講師がなんとあの母だったからだ。
画面越しにその厳しい目で見つめられた奈都芽は緊張のあまり、一つ一つの動作が刻印を押されるかのごとく、鮮明に体に焼きつけられていくのを感じた。自然と姿勢がピンと伸びた。
「それがね、聞いてよ」
すっかり着物が気に入った南野の母が隣に立つ友人に声をかけた。
「さっき、着付けをしてもらいながら聞いたんだけど。川田さんの実家ってね、江戸時代から続く茶道のお家うちらしいのよ」
「まあ、凄いわね! そんな古くから!」
できていた人だかりが一斉に「オー」という感嘆の声を上げた。
ただ一人、薫を除いては。
《え? 江戸時代からの『家柄』……わたしの家より伝統があるじゃないの……》
奈都芽は薫の目がそう語っているのを確信した。そして、同時に黒江の指摘を思い出した。
「『家柄』の件ですが、ご安心ください。薫さんの実家はクラシックの名門ということですが、日本にクラシック音楽が入ってきたのは明治以降。つまり、江戸時代から続く旧家であるカワタ様のご実家の方が伝統はありますから」
「ねえ、そしたら、もしかして——」
南野の母が奈都芽に聞いた。
「江戸時代から続く茶道の旧家ってことはご実家もかない広いんじゃないの?」
そう聞かれた奈都芽は答えるべきかどうか迷った挙句、小さな声で家の広さを告げた。
「え! 大豪邸じゃない!」
「そんな、大豪邸だなんて。広いといっても、南野先生のお家うちと違って田舎ですから」
慌てて奈都芽が答えた。
その奈都芽が謙遜する様子を見ていた薫の顔色がみるみる青くなっていった。
奈都芽はその理由がわからないでもなかった。
「南野先生のお家うちって、ナツメが見たことがないような広いお屋敷なのよ。そんな家で舞い上がったりしない?」
南野にパーティーに誘われた後で二人になった時、薫がそう言っていたからだ。
普段決して完璧な表情を崩さないさすがの薫も疲労を隠すことは難しいようだった。
《……》
その目はもう何も奈都芽に語ってはこなかった。
「陽ちゃん、遅いな」
無事、パーティーを乗り越えた奈都芽はお礼をするために陽ちゃんをいつものホテルのケーキバイキングに誘っていた。『世界のチョコレート大集合! スイーツ祭り』と銘うったイベントは大盛況で、お皿にチョコレートを乗せた女の子たちの笑い声があちこちから聞こえてきた。
「もちろん黒江さんのアドバイスがあってのことだけど、なんといっても今回は陽ちゃんのおかげよ」
奈都芽は南野の家で行われた例のパーティーのことを思い返していた。
問題だった『衣装』を実家から持ってきてくれたのも、ほとんどなにも知らなかった実家の歴史について教えてくれたのも、それに『着付け』を教えてくれたのも(といってもそれは母が出演するDVDが教えてくれたのだが)すべて陽ちゃんだった。
「どうしたんだろう?」
陽ちゃんがくれた時計の針はすでにピエロの図柄を越え、次のとんがり帽子の魔女を指そうとしていた。
「あ、陽ちゃん!」入り口の方にその姿を見つけた奈都芽は大きく手を振った。
ようやく到着した陽ちゃんだったが、席に座って一分と経たないうちに奈都芽はその異変を察知した。あの陽ちゃんがテーブルの上に置かれたバイキング用の皿を掴もうとしない。
「ねえ、どうかしたの?」
「それが……実は……」
困り果てた陽ちゃんの様子を見て奈都芽はあることを思い出した。
「わかったわ、陽ちゃん。まだ母の機嫌が悪くて見合いの件が進んでないのね。まったく、あの人ったら……あ、ごめん。今の『あの人』訂正する」
「いや、あの……そういうことではなくて——」
「もういいって、陽ちゃん。怒ってないから」
「そうではなくて……これが完成しまして……」
そう言いながら、陽ちゃんは鞄の中から黒い革でできた長方形のようなものを見せた。
「なに、それ?」
「えーっと、見合い写真です」
「へ~、見合い写真……え? 見合い写真、って……誰の?」
そう言われた陽ちゃんはおそるおそる奈都芽を指さした。
「ど、どういうことよ! 陽ちゃん! 見合いは断っておいてって言ったじゃない!」
「それが、実はこの前お嬢さんの部屋で撮った着物の写真を台所でこっそり見ているところを家元さまに見つかってしまいまして。それで、気づいたら。はい、このように」
そう言いながら陽ちゃんは奈都芽に見合い写真を手渡した。
「あっ! でも、安心してください! 『ドレスはやめるわ』とおじょうさんが言ってたので、ちゃんと着物の写真にしておきましたから」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「まあ、落ち着いてください。なんといっても、相手は抜群の『家柄』です。驚かないでくださいね、お相手は知事さんの甥っ子なんですよ」
「嫌よ! 絶対に嫌! あの人の好きなようにはさせないわ!」
「いいかげん、もうあきらめてください! 家元さまはおじょうさんの幸せを心の底から願っているのですよ!」
『薫』という高い壁をどうにか乗り越えた先に待ち受けていたのは、さらに高い『母』という冷たく大きな壁だった。
パーティー会場で華々しくスポットライトを浴びていたのが一転、底の見えない真っ暗な闇の世界へと奈都芽は突き落とされたような気がした。
『母』という巨大な壁が今にも奈都芽を押しつぶそうとしていた。
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