第13章 自慢の父③
「もう歳だわ。夜遅くまで飲むと全然疲れが取れない」
次の日、藤田の顔はいつもよりむくんでいた。「離婚の相談だったんだけど、途中から泣くのが止まらなくなって。置いて帰るわけにもいかないし、ずっとつき合ってたの」
目の下にどれだけ化粧を重ねても決して隠すことのできない濃い隈くまができた藤田だったが、離婚問題を抱えた友人のことが気になるようで、表情はやはり曇っていた。
「今晩も会うことになったの。子供の親権とか、養育費とかの相談で」
終業時刻が終わりに近づいたころ、藤田がそう言った。藤田は今夜も残業するのか、と尋ね、奈都芽はその予定です、と答えた。
「じゃあ、何か食べものでも買ってこようか?」
藤田のその提案を奈都芽は丁重に断った。奈都芽は昨日の夜から何も食べたくなかった。……それより次のファイルが早く読みたい……。
「大丈夫? なんだかいつもと様子が違うみたいだけど」藤田が心配そうに言った。
昨夜につづき、オフィスに一人で残った奈都芽だったが、作業しながら斜め前の南野の席に目をやった。
……冷静に考えると、私物である南野先生のファイルを勝手に見るべきではなかったんじゃない? もし、昨日の夜、断りもなく見たことがばれたりしたら……。
不安に駆られた奈都芽は二度とあの青色のファイルを見ないと強く心に誓った。
しばらく作業に集中していた奈都芽だったが、ふと昨日の晩見た南野のファイルのことを思い出した。南野が合格するまでの軌跡が書かれたそのファイルは大学時代によく読んだ『合格体験談』の本を思い出させた。
「私も合格できる」
思わずそう声を出した奈都芽は気持ちが大きくなり、昨日と同じように南野の席に座っていた。二度目の着席は昨夜とは違い、もう奈都芽の心を揺り動かすことはなかった。
『ファイル②』には南野が弁護士になってからの記録が書かれていた。
「司法修習生」
試験に合格してもすぐに弁護士として働けるわけではないらしく、約一年間の研修カリキュラムが詳細に記されていた。
「弁護士事務所に所属」
晴れて、南野は弁護士事務所に所属することになった。今勤務している事務所とは違うが、業界でも有名な大手の事務所だった。
……さすがは南野先生、優秀……。
「大学時代の名簿」
突然、弁護士とは関係のないページがやってきた。この頃から、受験時代には控えていたらしい同窓会に参加するようになったことが伺えた。
……そういえば、たしか、薫さんも『わたしも同じ大学出身だから』って、言ってたわね……。
奈都芽は咄嗟に薫の冷たい目を思い浮かべた。
「先生や薫さんの大学は名の知れた一流大学。それにひきかえ、私の大学といえば……弁護士に合格するなんてムリなんじゃないの……」
そう呟くと、小さなため息が漏れた。
今はそんなことより南野のこれまでの人生について知りたい。
そう考えた奈都芽は再びファイルをめくりだした。初めこそ、読んだ書類をその都度ファイルに収めていたが、いつのまにか出しっぱなしの書類が南野の机の上に散乱していた。
「ぴぃこーん」
その時突然、奈都芽の机に置いていたスマホが音を立てた。人気ひとけがないせいか、いつもより大きく響いたように奈都芽は感じた。ヒヤッとした奈都芽は席に戻り、画面を見た。
『お父様のコンサートのリハ』
メッセージと数枚の写真が薫から送られてきた。オペラの衣装らしき服を着た男のそばで青のドレスを着た薫が笑顔で映っていた。
「見たわよ、ナツメ。そんなことして大丈夫?」
まるで薫の目がそう語っているように感じた奈都芽は急いで片づけ、オフィスを出た。
次の日の朝、遅刻こそしなかったものの、奈都芽はいつもより出社が遅れた。
「ランチでもどう?」昼休みになると、藤田が奈都芽を誘った。
「誘ってくれて、ありがとうございます。でも、今日はやめときます」
「じゃあ、何か買ってきて、休憩室で一緒に食べない?」
「すみません……あまり食欲がなくて……」
「川田さん。今夜も残業するつもり? 疲れているようだから、今夜はやめた方がいいんじゃない?」
奈都芽は首を振った。「もう少しで終わりそうなので」
「そう、でも心配だわ。無理はしないでね」藤田は奈都芽をじっと見つめた。
もう今夜は見ないでおこう。昨夜、薫からの着信で肝を冷やした奈都芽はそう心に誓った。
だが、南野に少しでも近づきたいという思いが奈都芽の背中を押した。三日目の残業の休憩時間は昨夜よりずっと早いものとなった。あまりに早く休んだため、まだ同じフロアに人の気配があったほどだった。少し用心が足りないかも、と思いながらも奈都芽は南野の席に近づいた。
最後となる『ファイル③』を手にした奈都芽は、現在の事務所に所属することになった南野の姿を目にした。当初は刑事事件の弁護も数件行っていたようだった。だが、すぐに今のように企業向けの顧問業へと部署が変更されていた。顧問先は誰もが知る著名な企業が多く、エリートで華やかな南野のイメージとそれらはうまく合致した。
ファイル③も、もう終わりに近づこうとしていた。
最後のページを迎えた奈都芽は思わず息を呑んだ。それまで南野が携わってきた案件とは明らかに様子が違った新聞記事が張られてあった。
「戦後最大の『冤罪』事件を解決……担当は『道上克己』弁護士……」
かつてお世話になったあの先生の名前が記されていた。先生が『冤罪』の弁護をしていたことを奈都芽はこのとき初めて知った。
「そんな『冤罪』なんて……それならお父さんのことを相談すればよかったんだわ……」
ごく身近にあったチャンスを逃したことを奈都芽は後悔した。後悔しながらも、書類を読み進めていくと、奈都芽はあることに気がついた。これまでに比べ明らかに赤で引かれたマークの量が多い。
「そういえば、南野先生は先生のことを尊敬しているって言ってたわ」
かつて南野がそう言っていたことを奈都芽は思い出した。先生のインタビュー記事の隣りに、南野が赤ペンで書いた言葉が目に入った。
「不当な扱いである『冤罪』に苦しむ人たちを助けないことは法律家として問題だ」
その決意に溢れた文字は奈都芽の心を強く動かした。
「先生はもういない。でも、南野先生に相談することはできる」
闇夜の中に一筋の明かりが差してきたように思えた。本当のことを話しても大丈夫。
……薫さんみたいに、私だって南野先生に自慢のお父さんの話をしても……。
丁寧にファイルを片づけながら、奈都芽は希望が湧いてくるのを感じた。
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