第13章 自慢の父②
帰りの電車は通勤ラッシュで座ることができなかったが、どうにか参考書を持つことだけはできた。
試験に向け重要な判例の暗記に取りかかった奈都芽だったが、どこからかその作業を止める声が聞こえてきた。
「お父様のコンサートに招待させてください。お母様も一緒に」
これまで『本気を出していなかった』薫が、確実に『周りを固め』はじめていた。まだ付き合ってはいないものの、南野も薫に好意を抱いているようにも見えた。
……もちろん、私が先生と今すぐ結婚を前提にお付き合いとはいかないけど、仮に、万が一その可能性が出てきた場合、薫さんの『家柄』と比べられると困るな……クラシックの名門とか言ってたし。うちの家なんて所詮、田舎の茶道の先生だから……。
だが、問題は『家柄』だけではなかった。
「自慢のお父様」
薫は奈都芽に父のことを思い出させた。
夏のプール。大きな背中に奈都芽をのせ、エイのように泳いだ。母の機嫌が悪い時は近くの神社に連れ出した。タバコをふかし、頭を掻きながら小説を書く姿。誰が何と言おうと、奈都芽は父を愛していた。自慢の父だ。だが、しかし。
「ナツメのお父さんって、何をしてるの?」
もし、薫に問いつめられたら、私は何と答えるだろう?
「今、どこにいるの?」
そう聞かれて、正直に、刑務所の中です、と胸を張って言えるだろうか? それに、もちろん、薫さんとのことだけじゃないわ。
「だって、仮に——」
奈都芽は小さな声でそう呟いた。
……南野先生とお付き合いができたとしても、『お父さんは人を殺して刑務所にいます』なんて言えるわけがないわ……。
電車を降り、部屋に着いてからも奈都芽はまだ父のことを考えていた。
「絶対に冤罪に違いない」
もちろん奈都芽は父のことを信じていた。
「ウソはつくな」
そう強く信じる父がウソをついているとは考えられなかったからだ。
……でも、冤罪が証明されたわけではないし……。
「薫さんのお父さんは世界的にも有名オペラ歌手の『
休憩室での南野と薫の会話が突然思い出された。
……仮に無実が証明されたとしても、南野先生は殺人犯として長く疑いの目を向けられていたお父さんのことを受け入れてくれるだろうか?……有名人なんかじゃないお父さんを受け入れてくれるだろうか?……。
お風呂に入り、ベッドに入ったあとでも奈都芽はそのことを考えていた。これから先、薫という高い壁を乗り越えて南野と結ばれる日が来るとは奈都芽はとても思えなかった。
次の日、奈都芽はオフィスで斜め前に座る南野と何度か目が合った。柔らかな視線を見つめる度、喜びが込みあげてきたが、壁である薫のことが心から離れることはなかった。
「うーん、時間が足りない」
その日の夕方、金村が困り果てた様子で言った。ここ数週間、会議や出張がつづいていたせいで金村は資料作成の時間を取れないでいた。
「今夜もこれからクライアントに食事に誘われているし」
金村は誰に言うでもなくそう言ったのだが、たまたま近くにいた奈都芽がその話に返事をした。
「私がお手伝いしましょうか?」
服装を変えてからの奈都芽は以前と比べ積極的になっていた。そのことにうすうす気づいている様子の金村は素直に奈都芽に依頼をした。
「ごめんなさいね。手伝ってあげたいんだけど、学生時代の友人から『聞いて欲しい話があるの』って連絡が来たのよ」
申し訳なさそうにそう謝る藤田と、予定通り仕事を終えた南野が定時に帰っていったことから、奈都芽はひとりでオフィスに残ることとなった。
同じフロアからどんどん人の気配がなくなっていったが、奈都芽はもう少し仕事をすることにした。すべてを終わらせるには少なくとも三日はかかる……私なら。人に比べ、作業ペースの遅いことを自覚している奈都芽はシーンとしたオフィスで作業を進めた。
少し休憩を、と思いチョコレートを食べた。陽ちゃんからもらったものだったので、少し複雑な気持ちがした。スマホを確認したが、相変わらず陽ちゃんから連絡はなかった。
食べ終えた奈都芽は作業に取りかかろうとした。だが、ふと薫や南野の話を思い出した。
……華麗なる『家柄』、か……人って結局、生まれてくる家を選べないのよね。どんなに頑張っても、どれだけお金を積んでも家族は変えられない……。
改めて奈都芽は薫の華やかな『家柄』に負い目のようなものを感じた。
そして、奈都芽はさらに大きな問題について考え始めた。
……言いたくても言えない、私の秘密。中学からずっとそうだった……。
奈都芽は学生時代から今なお持ち続けている自分の苦しみを思い返していた。
……薫さんのお父様のように有名じゃないけど、私にとって大好きなお父さん……だけど、お父さんは社長を殺し、その家に火を放ち、そして今刑務所の中にいる。私は、そのことを南野先生に言うことができるんだろうか?……。
奈都芽は決して降ろすことのできない家族という名の十字架をひしひしとその体に感じていた。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、ふと奈都芽はペンを落としてしまった。奈都芽の手から滑り落ちたペンは床で勢いよく跳ね、斜め前の南野の席まで飛んでいった。
ペンを取ろうとやってきた奈都芽は南野の机と椅子をまじまじと見つめた。
……このまま、薫さんと結婚してしまうのかな……。
奈都芽は無性に淋しさを感じた。
「せめて」
奈都芽はその匂いや温もりを自分のものにしたくなった。
「ダメよ、そんなこと」
奈都芽は小さな声で自分を戒めた。だが、南野に少しでも触れていたいという衝動が奈都芽を動かした。
いつも見ている南野の席に初めて座ると、南野に近づけた嬉しさと許可なく座った罪悪感が同時に奈都芽を襲った。やはりこんなことはするべきではない、席を立とう、と思った奈都芽だったが、思わず机に顔を伏せ、その匂いを嗅いだ。
そして、さらに
「許可なく開けてはダメ」
という心の声を無視するように奈都芽は引き出しをひとつずつ開けていった。一段目、二段目と開けた奈都芽はそこにあるペンや消しゴムを手にしては、「いけない」と思い、元に戻していった。
「これが最後」
そう思い開けた一番下の大きな引き出しの中に青色の分厚いファイルが三冊あった。タイトルがつけられていないそれらには『ファイル①』、『ファイル②』、『ファイル③』とだけラベルが張りつけられていた。
……どんなことが書かれてあるんだろう?……。
南野のことを少しでも知りたい奈都芽はその誘惑に負けるように、一番手前の『ファイル①』を取り出した。
最初のページを開き、書類を読み始めた奈都芽だったが、思わず叫びそうになり、慌ててファイルを閉じた。そこには南野が弁護士になるために行った勉強の内容や学習時間がこと細かく記録されていたからだ。それらの記録はこのままでは奈都芽の合格が困難である現実を突きつけた。
しばらくすると、感情の波が収まりはじめ、奈都芽はもう一度ファイルを開いた。
取り出していた書類の続きを読み進めた奈都芽だったが、もう一度ファイルを閉じてしまった。数枚書類を読んだのだが、そこには『不合格になる受験者の傾向』という項目があったからだ。
「傾向①:自分の頭で解釈せずに、人から教えてもらうことだけを頼りに——」
もう目の前にないはずなのに、最後に読んだ一行が奈都芽の目に鮮明に焼きつけられていた。
……このまま一人で受験勉強しても合格できないんじゃないの?……。
奈都芽の心の中で希望という名の灯りが今にも消え入りそうになった。だが、そのとき、ふとある声が奈都芽の耳に聞こえてきたような気がした。
「手伝えることがあれば、僕が手伝うよ」
以前、レストランで一緒に食事をした時の南野の声だった。
……あの言葉が本当なら、これほど強い味方はないわ……。
書類を読み進めるうちに奈都芽の心につい先ほど消えかけていた希望という灯りがほのかに輝きはじめた。持って生まれた才能ではなく、地道に努力を積みかさね合格を手にした南野の記録が記されていたからだ。
……私も努力すれば、どうにかなる……。
奈都芽は一心不乱に読み進め、気がつくと最後のページになっていた。
どれくらいの時間それらを読んでいたのか、奈都芽にはわからなかった。
南野の席に座っていた奈都芽は斜め前の自分の席を見た。机の上には金村から依頼され、作成中の書類が広げられたままだった。
ハッと我に返った奈都芽は、青色のファイルを引き出しにそっとしまい、急いでオフィスを出た。
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