第13章 自慢の父①
「見合いなんて嫌! 絶対、断っておいてよ!」
母にそう伝えるように陽ちゃんに何度も言ったが、その後どうなったのかについての報告はなかった。こちらから電話するのって、どうなの? そう考える奈都芽は陽ちゃんと一切連絡を取っていなかった。
陽ちゃんと行ったシークレットスイーツ祭りから二週間が経とうとしていた。
「おはようございます」
奈都芽はそう言うと、黒江に教えられた笑顔を斜め前に座る南野に向けた。
黒江に教えられた笑顔の効果はやはり強力なようで、南野はすぐに挨拶を返し、そして満面の笑みを浮かべた。奈都芽に向ける視線も温かく、好意的なものだった。
……さすがは黒江さん。少しずつだけど確実に南野先生との距離が近くなっている……。
だが、順調に思われた南野との関係について、喜んでばかりはいられなかった。
……たしかに、南野先生との距離は近くなってはいるけど……問題は……。
昼休み、休憩室には奈都芽しかいなかった。テーブルの上に置いた鏡を見ながら、メイクを直しはじめた。
……ようやく陽ちゃんが口止めされていた秘密がわかったわ。それにしても、まさか母が見合いをさせようと考えているなんて思いもしなかったわ……。
気がつくと、奈都芽は母のことを思い出していた。
……母は私から大切な二人を取り上げようとしている。刑務所にいる『お父さん』と、そして……『南野先生』……。
奈都芽が見つめる鏡の中に冷めきった目をした母の姿が浮かんできたように思えた。
その時ふと入り口付近に人影がいるのが目に入った。
奈都芽は慌てて口紅をバッグに直した。奈都芽と目が合うとすぐにその影は頭を少し下げ、柔和な笑顔を見せた。その影は影とはいうものの影とはならず、その場に明るい光が溢れだしたように奈都芽は感じた。休憩室にやってきたのは南野だった。
運よく同じ空間に二人でいられる。奈都芽は嬉しくなり話しかけようとした。
「あの——」
だが、奈都芽が声をかけようとしたその時に、南野の後ろから別の影が現れた。その影はまさしく影で、南野を見たときに感じた明るい光をあっという間に消し去った。
「あら、ナツメさん? おひとり?」
そう言う薫の顔を、奈都芽はまじまじと見つめてしまった。
……ナツメさんって……南野先生がいる時だけは別なのよね……。
言葉を失う奈都芽の目に、薫が合図を送った。
《わかってるわよね、ナツメ。余計なことは言わないで》
「よかったら、一緒にお茶でも飲まない」
奈都芽と二人の時には聞いたことのない、おしとやかな声で薫がそう言った。
薫のそんな様子を見た南野がニッコリと微笑んだ。相手を気遣える優しい女性だな。口には出さないが、その表情からすると、南野は薫のことをそう考えているようだった。
「南野先生、いつものアイスコーヒーでよかったですよね?」
ありがとう、と言いながら南野がそれを受け取ると、薫は南野には見えないようにして、奈都芽に向けて不敵な笑みを見せた。その笑みは奈都芽の体を一気に冷たくさせた。
……たしかに黒江さんのアドバイスのおかげで南野先生と仲良くなることができた……でも、問題は……私より薫さんの方が先生との距離がもっと近くなっていることよね……。
「そうだ、薫さん。この前は母がご馳走してもらったようで」
薫に差し出されたアイスコーヒーを飲みながら、南野が申し訳なさそうに言った。
「いいえとんでもない。偶然、ホテルのラウンジでお会いして。うちの母が南野先生のお母様と面識があったのでお声掛けをさせてもらったんですよ」
そう言うと、薫はスマホを取り出し、何かを南野に見せた。
……今見ているのは恐らくこの前私に見せてきた写真よね……それにしても本当に先生のお母様と偶・然・出会ったのかな? だって薫さん、『本気を出す』とか言ってたし……。
これまでの行動や言動を考えると奈都芽は薫のことを疑わずにはいられなかった。
「母から聞いたよ。なんでも薫さんの家はクラシック音楽の名門の家柄だそうだね」
「いえいえ、そんな。ただ、古くから音楽に携わってきた、ということだけですよ」
慌てて、薫が否定をする。謙虚なその態度に奈都芽は呆然とさせられた。
……あの薫さんが謙遜? それにしても、薫さん、そんな凄い『家柄』のお嬢さんなんだ……陽ちゃんによると私の家も古いとは聞いているけど、所詮は田舎のお茶の先生……薫さんの家とは比べものにならないわ……。
二人の会話を聞いた奈都芽は、自分の家の話をする気にはなれなかった。
「そうだ、忘れてた」薫の声が突然高くなった。「今度、お父様が帰国して、コンサートを開くことになったんです」
「コンサート?」それまで話を聞くだけだった奈都芽が、思わず声を出してしまった。
「恥ずかしながら僕もあまり詳しくないんだけど」そう言うと、南野は頭を掻きながらつづけた。
「すべて母からの受け売りなんだけど、薫さんのお父さんはオペラ歌手の『
教えられたことを正確に、間違えないようにというように南野が細心の注意を払いながら答えた。その様子を笑顔で見つめていた薫は丁寧な口調でこう言った。
「もしよかったら、南野先生を凱旋コンサートにご招待させてもらっていいですか? お母様の分も席を取って置きますわ」
「そんな無料でなんて申し訳ないよ。代金は支払わせてもらうよ」
南野が慌てて答えると、薫がそれを打ち消すように、お金なんて気にしないでください、と言った。会話に入れなかった奈都芽はポツンと二人を見ていた。
……薫さん、この前は先生のお母様と写真を撮っていたわね。そして、今度はお母様と先生をコンサートに招待……周りをしっかり固めている、ってことか……。
そう考えていた奈都芽の方に薫が目を向けた。
《どう、ナツメ。わたしの自慢のお父様。凄いでしょ?》
目は口ほどにものを言うというが、奈都芽に向けられた薫の視線はハッキリそう語っていた。
本気を出しはじめた薫は急速に南野と仲良くなろうとしていた。
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