第12章 変身③
次の日の朝、電車の中の奈都芽は寝不足だった。
昨日の夜、部屋に帰って、お風呂に入り、眠ろうとしたが、なかなか眠ることはできなかった。
受験のサポートを申し出てくれたことや、別れ際に「今夜は楽しかったです」と南野に言われた言葉が頭から離れず、一晩中、その余韻に浸っていたからだ。
ビルに着き、エレベーターの扉が開き、受付係の薫が見えてきた。
「おはようございます、薫さん」いつものように奈都芽は自分から挨拶をした。
いつものようにその声が聞こえていないような振りをした薫がようやく顔を上げた。
「おはよう、ナツメ」
昨日、イメージチェンジをした奈都芽の姿を初めて見たときこそ、少し戸惑っていた薫だったが、今日はいつもの落ち着き払った態度が完璧に戻っていた。
たしかに、前よりはマシになったわよ。でも、わたしに比べれば……とでもいわんばかりの顔つきだった。
だが、奈都芽も負けていなかった。昨日の晩、南野からデートの話を聞いていたからだ。
……それに、私は黒江さんに『ブランシスリー』仕込みのクリーニングだってしてもらったんだから……。
「あの、薫さん。こないだ画像を送ってくれましたよね?」
そう言いながら、奈都芽はスマホを薫に見せた。
薫はそれを見て、笑顔になった。「それがなにか?」
「これって本当に南野先生がデートに誘ったんですか?」
……先生に本当のことを聞いたんだから。大学のOB会に薫さんがついてきたんだって……。
「どうしたの、突然そんなことを聞いて。なるほど、何かを知ってるって顔ね」
そう言うと、薫は奈都芽を小バカにしたような表情を浮かべた。
その顔を見て、奈都芽は南野から聞いた真実を突きつけたい衝動に駆られた。
「デートなんかしてないんじゃないですか。ウソばかり言って——」
だが、そう言いかけた奈都芽の言葉を遮るように、薫は右手を二、三度振った。
「なぜ、そんなところにわたしが行ったか? だって、わたしも同じ大学出身だからよ。ところで、ちなみにだけど、同じなのは大学だけじゃないのよ。先生とわたしは幼稚舎からずっと同じなの。年齢が離れているからこのオフィスで出会うまで知らなかったけど、自宅もわりと近いのよ。だから、ホラ」
薫はスマホを取り出し、写真を見せた。
「このお上品な方、誰かわかる?」薫は不敵な表情を浮かべた。
「南野先生のお母様よ」
どこか高級なホテルのラウンジのようなところで、二人がにこやかに映っていた。
……先生のお母様と写真を撮る仲……。突然の展開に戸惑う奈都芽に薫はさらに言った。
「たしかに、まだ南野先生とはお付き合いはしてないわよ。だって、それはそうよ。わたしがまだ本気を出してないんだから。だけどね、先生のお母様、すっかりその気よ。わたしの両親のこともよく知ってくれているし」
……それじゃあ……南野先生と薫さんは結婚を前提にしたお付き合いを始めることになるの?……。
奈都芽の心が不安でいっぱいになった。
だが、そんな奈都芽にとどめを刺すように、薫が言った。
「今は周りを固めている段階なの」
素晴らしいスタートを切った一週間だった。
黒江のアドバイスに従い、イメチェンをはかった。月曜日の夜は憧れの南野と二人きりでレストランで食事をした。受験のサポートや「楽しかったです」と声をかけられ、奈都芽の心の中で夢が大きく膨らんだ。
だが、火曜日の朝、その膨らもうとしていた夢という気球にあっさり穴が開けられた。薫のナイフのような鋭い言葉が奈都芽の心を見るも無残にぺちゃんこにした。
確かに薫は南野と二人でデートには行ってなかった。だが、薫はもっと大きなものを手に入れようとしていた。「周りを固める」、薫は南野と結婚をする計画を進めていた。
何度も溺れそうになりながら、どうにか奈都芽は一週間を乗り越えた。
「さあ、どれから食べましょうか!」
週末に、奈都芽は陽ちゃんとホテルのラウンジで行われるシークレットスイーツ祭りに来ていた。かなり興奮した陽ちゃんが巨大なイチゴのパフェを運んできた。
「おいしい!」
まるで椀子そばでも食べるように、陽ちゃんはあっという間にパフェを空っぽにした。
一方、奈都芽の目の前にあるパフェはいっこうに減ることはなかった。
……南野先生は、やっぱり私なんかじゃなくて、薫さんみたいな女の人がお似合いよ。その上、薫さんは先生のお母様と仲良くなっているみたいだし。このままだと二人は結婚を前提としたお付き合いを始めるに違いない……。
「それにしても、おじょうさん」
奈都芽は陽ちゃんのその声でハッと気がついた。
「すっかりイメチェンされましたね。髪型もメイクも服も靴も、すっかり大人の女性です。どんな心境の変化なんです?」
そう聞かれた奈都芽だったが、なぜかあのホテルでのことを話す気にはなれなかった。黒江さんのアドバイスのおかげで、と真実を告げる気にはなれなかった。
「別に。なんとなく」
そう答えた奈都芽だったが、その表情が少し暗いものとなった。
「どうかされましたか? おじょうさん。表情が冴えないじゃないですか。さっきから全然食べてもいませんし」
奈都芽のパフェは一切手つかずで溶け出しはじめていたが、陽ちゃんは三品目の『本場ハワイのパンケーキ』を山盛りにおかわりしてきたばかりだった。
「ちょっと忙しくて、体が疲れてるだけ」奈都芽は適当に話を合わせた。
「そうですか。まあ、甘いものでも食べて元気を出してください。しかし、今日のおじょうさんはとびきり可愛いですね。このままお見合い写真を撮らせてほしいぐらいです」
「お見合い?」思わず奈都芽が反応した。
「いや、その……今の話は聞かなかったことに……」
「なに? 陽ちゃん、お見合いって?」
「えっと……その……これ以上は聞かないでください。まだ言うな、と口止めをされていますので」
「口止め?」
その時、奈都芽の頭の中にある場面が思い出された。
先週の日曜日、陽ちゃんと電話をした時、陽ちゃんは真面目な顔つきで何かを言おうとしていた。でも、後ろの方でベルが鳴ると、陽ちゃんは画面から姿を消した。そのベルは誰からのものか? 口止めしたのは?
「母ね! 母が私を見合いさせようとしているのね!」
「いや、あの……」奈都芽に責めたてられた陽ちゃんは慌ててこう続けた。
「でも、安心してください。家元さまがとびきり素晴らしい家柄の御曹司を見つけ婿養子にする予定です。そうすれば、江戸時代から続く川田家も安泰、また一緒にあたしもおじょうさんとあの家で住むことができるわけですし」
「ねえ、それって政略結婚じゃない!」
「あ……」
口を滑らせ、真実を話してしまった陽ちゃんの顔が真っ青になっていた。
青ざめた陽ちゃんの顔を見ているうちに、奈都芽の頭の中にある考えが浮かんできた。
「……そうか……」
陽ちゃんが隠しつづけてきた秘密の正体がようやくわかった。
その時、あることを奈都芽は思い出した。
たしか、あれは、新しい事務所に入ったばかりのころ。母から突然、電話が来て。仕事や司法試験がうまくいっていないことを話すと
「やめれば」
と、母が言った。
……母が私を弁護士にさせたくない理由が今やっとわかったわ。茶道の家を守っていくために『政略結婚』の道具として私を連れ戻したいのよ。なるべくいい家柄の『御曹司』を婿として手に入れ、家元さまとしての生活を盤石なものにしたいのね……いや、それだけじゃないわ。私が弁護士を諦めれば、母にとって邪魔者であるお父さんが刑務所から出てくる可能性が低くなる……そうか、つまり、一石二鳥ってわけか……。
ライバルである薫は南野の母を手なずけ、『結婚』を前提としたお付き合いを目論んでいる。
一方、母は弁護士を諦めさせ、奈都芽に見合いをさせようとしている。
月曜の夜、南野とレストランで楽しい時間を過ごしたのが一転、奈都芽の前に『薫』と『母』という二つの壁が大きく立ちはだかろうとしていた。
ようやく近づこうとしていた南野の背中が深い霧の中に消えていくように奈都芽は感じた。
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