第12章 変身②
オフィスの席につく前に奈都芽はトイレに入った。鏡の前でもう一度自分の姿を見ておきたかったからだ。
「やっぱり、私ってオシャレになれないのかな」
鏡の中の自分を見てみる。ボサボサだった髪は収まり、毛先がクルンとカールされていた。スーツが体にフィットしていた。
「黒江さんの言う通りにやったんだけど……』
奈都芽は今にも泣きそうな自分の顔を見た。
「あのオシャレな薫さんが言うんだもん。もしかして、本当は似合ってないのかもしれない……イメチェンしたつもりだったけど、こんな格好で南野先生に会ったらどんな風に思われるんだろう?」
奈都芽は鞄の中からスマホを取り出し、写真を見た。
「やっぱり、薫さんには敵わないわ」
画面の中では薫と南野が豪華な食事の前で笑顔を見せていた。
……泣いちゃったら、メイクし直しだな……。
そんなことを思っているときに、トイレのドアが開いた。
「あら、誰かいたのね」
入ってきたのは藤田だったが、奈都芽を見ると驚いた表情を浮かべた。
……陽ちゃんは素敵って言ってくれたけど、やっぱり、私、変な格好してるのよ……。
藤田の表情を見た奈都芽はそう思った。
「川田さんよね?」
藤田がそう確認してきたので、奈都芽は小さくうなずいた。さっきの薫さんみたいにきついことを言われるのかな。だが、そう思った奈都芽の予想が大きく外れた。
「素敵になったわね! お似合いよ!」
すっかり自信を失くしていた奈都芽は藤田の言葉に励まされた。
深い意味はないんです、ただイメージチェンジをしたかっただけで。理由を聞かれた奈都芽は、ホテルや黒江のことはなにも言わずにそう答えた。
そして、先ほど薫に言われたことを藤田に告げた。
「そんなこと言われたの? きっと川田さんが素敵になったのを見て、薫さん悔しかったのよ」
不快そうな表情を浮かべ藤田が言った。
「薫さんは口から出まかせ、嘘をついたのよ。本当は可愛いと思っているくせに、ね。嘘をつくとロクなことが起きないのに」
オフィスに行くと、すでに金村が座っていたので奈都芽は挨拶をした。
先週の金曜日とはまったく違う奈都芽の様子に金村は少し戸惑っているようだった。
「眼鏡とスーツ、髪型にメイク。ずいぶん印象が変わったね……」
金村と藤田、奈都芽が話をしていると、最後にやってきたのが南野だった。
「おはようござ——」
先週の金曜日とはすっかり雰囲気の変わった奈都芽に気がついたようで、南野の挨拶の言葉が途中で止まってしまった。その様子を見た奈都芽はすぐに
「おはようございます」
と言いながら、黒江に教えられた例の笑顔を南野に向けた。
黒江直伝の笑顔の効果か、南野はこれまでで一番長く奈都芽の顔を見つめた。だが、すぐに気を取り直すようにして
「先週、代わりに行ってくれてありがとう」
と言い、頭を下げた。
……南野先生にどう思われてるんだろう?……。
そのことは忘れ、仕事に集中しようとした奈都芽だったが、結局、午前中、頭の中はこのことで一杯だった。
昼休みになり、食事をすませた奈都芽は休憩室の椅子に座り、手鏡でメイクを確認した。
「黒江さんの言うようにしたつもりなんだけど、これでよかったのかな?」
藤田には褒めてもらったが、やはり薫に『もう古い』と言われたことが気になっていた。
スマホを手にした奈都芽は黒江が教えてくれたメーキャップの動画を確認した。動画を見ながら、口紅を直していた奈都芽はあることを思い出した。
「そうだ、いけない」
オフィスに戻ると、すぐに鞄の中身を確認しようとした。すると、斜め前の席から声が聞こえてきた。
「どうかしたの? そんなに急いで」
休憩を終えたのか、すでに南野が座っていた。奈都芽はすぐに書類の話をした。
「先週の金曜日預かってきた書類を、南野先生に渡すのを忘れてまして」
金村と藤田は休憩中のようで、オフィスには二人しかいなかった。
書類を手にした南野は中身を確認すると、奈都芽にこう言った。
「先週の金曜日はありがとう。もし、よければ今夜食事でもどうかな? こないだのお礼をしたい、と思って」
奈都芽の心臓がこれまで経験したことのないほど高速に動きはじめた。
……今、お医者さんがいたら、すぐに入院させられるにちがいない……それにしてもあの南野先生から食事に誘われるなんてこれもあの黒江さんのアドバイスのおかげに違いないわ……。
「川田様ですね。お連れ様がお待ちです」
急いで帰ろうとした奈都芽だったが、南野との約束を知らない金村から急ぎの資料の作成を頼まれ、約束の時間に少し遅れてしまった。オフィスのある駅から二駅離れたイタリアンレストランに着くと、南野がすでに席に座っていた。
「コースでいいかな?」
テーブルの向こうの南野が奈都芽に確認をすると、ウエイターを呼び、注文をした。テーブルの上の蝋燭の灯りが白ワインの入ったグラスの上でほのかに揺れていた。
……目の前にあの南野先生が……夢みたい……これもあのアドバイスのおかげよ……。
蝋燭の灯りを見た奈都芽は黒江のことを思い出した。
一品目の生ハムのサラダが運ばれてきた。ウエイターが去って行くのを確認した南野が声をかけた。
「川田さん、雰囲気変わったね」
サラダを食べようとしていた奈都芽の手が空中で止まった。
「金曜日に代わりに出張をお願いして、月曜日に会ったら、別人みたいになっていて……正直、驚いたよ」
そう言うと、南野は笑顔になった。
テーブルの下で奈都芽の指がスーツパンツの折り目を行ったり、来たりしていた。
……雰囲気変わったね、だって。南野先生にそんなこと言ってもらえるのも、やっぱりあの黒江さんのおかげよ……。
嬉しさと緊張から、奈都芽は何を食べても味がわからなかった。
喉がカラカラで、ワインでどうにか流し込んだ。普段お酒を滅多に飲まない奈都芽は一気に酔いが回った。その力も借りて、奈都芽は勇気を振り絞った。
「あの、南野先生。一つだけ質問してもいいですか?」
酒のせいと、初めて南野に質問した興奮から奈都芽の顔が赤くなっていた。
「え? あ、どうぞ」突然の質問に南野は手にしていたワイングラスを置いた。
「先生と薫さんはこんなオシャレなお店に食事に来られるんですよね?」
自分でも驚くぐらい踏み込んだ内容だった。なんとしても奈都芽はこのことを確認したかった。
「薫さんと……食事?」南野はしばらく黙りこんでいた。小首を傾げ、何を言っているのだろうという表情をした。
「受付の薫さんから聞いたんですけど」と奈都芽が言うと、南野はようやく話を理解した。
「ああ、こないだのレストランの件ね。たしかに、彼女と食事に行ったよ」
……やっぱり……。奈都芽の心が砂漠に放り出された花のようにしぼんでいった。
「でも、二人で行ったわけではないけどね」
「え?」
今度は奈都芽が理解できない番だった。「でも、デートに行かれたんですよね?」
「デート? いや、あの日は大学のゼミのOB会だったんだよ。薫さんにその話をしたら、『連れてってください!』って、かなり強く頼みこまれちゃって」
……南野先生と薫さんは付き合っていたわけじゃないんだ。それにしても……何よ、薫さん……『先生に誘われてデート』なんてウソついて。まったく……。
薫と南野が二人でデートをしていたわけではないと知った奈都芽の食欲が旺盛になった。
次々運ばれてくる料理を奈都芽は堪能した。いかにも美味しそうに食べる奈都芽の姿を見ながら、南野が言った。
「あのこの前、言いかけたことなんだけど——」
「この前……ですか?」
「ほら、『道上先生』の話をしたとき、勉強の話になって。それで、僕が話そうとしたら、金村先生と藤田さんが帰って来て、途中で終わってしまって」
そうだ。奈都芽はすぐに思い出した。たしか、『僕だって——』って言ってたはず。
「あのとき、川田さんは『南野先生とは違って、私、勉強が苦手で』って、言ってたよね? でも、実は、僕もそれほど勉強が得意ってわけじゃないんだ。残念ながら、大学在学中に合格しました、みたいなエリートではなくってね。卒業してからも、何度か落ちて」
……南野先生がエリートじゃない? 本当はそうじゃなくても、こんな風に言ってもらえると私みたいに勉強ができないものは助かる……。
「僕も勉強には苦労したから。川田さんの気持ちはよくわかるよ。受験のことでなにか手伝えることがあれば、手伝うよ」
「あ、ありがとうございます」
思わず奈都芽は席を立ち、頭を下げた。
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