第12章  変身①

「あの、お客様……見えてますでしょうか?」


 おそるおそる男の店員が尋ねた。


「……」


 奈都芽は何も答えず、コクリとうなずいただけだった。男の差した先に目をやると、色々な方向に穴の空いた『〇』や大小さまざまな『ひらがな』などが見えた。



 支配人の黒江に指示されたように、コンタクトを購入することにした奈都芽だったが、例のホテルから帰ってからなぜかうまく言葉が出なかった。だが、異変はそれだけではなかった。見るものすべてが、ぼんやりとしていたのだ。もちろん、今は生まれて初めてコンタクトレンズをつけたということもあるのだが。




 部屋に帰るため、奈都芽は電車に乗った。


 目に映るものだけではなく、聞こえてくる車内の音もどこかぼんやりとしていた。席に座った奈都芽は窓の外をぼーっと眺めた。


「はー」


 ホテルから帰ってからの奈都芽はため息ばかりついていた。体も重く感じられ、別の星に来てしまったのかと思うほどだった。外を見ているうちに、深い睡魔に襲われた。


 駅に到着したとのアナウンスの声を聞き、奈都芽は今どこにいるのかやっとわかった。駅前で黒江からもらったメモに基づき、スーツやシャツなどを買い揃えた。




 部屋に戻ると電気をつけることもなく、床にぺたりと座った。

 荷物に囲まれるようにして座った奈都芽はふと呟いた。



「本当にあのホテルに行ったのかしら?」



 ……あのホテルで過ごしたことは幻なんじゃないの? そもそもホテル・ソルスィエールなんてあるのかしら? ホテルに導いてくれたあの奇妙な白黒猫も、何をやっても完璧な黒江さんも、そしてあの愛らしい白ウサギのラパンも、すべて私の頭が作りだした空想なんじゃない?……。


 そう思った奈都芽は答えを求めるように、スマホを手にした。

 しかし、あのホテルは実在した。


 それを証明するように、スマホの画面の中には大量の写真があった。白いウサギを抱えた奈都芽は笑顔だった。真っ赤なランチョンマットの上にはキャンドルがたかれ、濃厚なビーフシチューが映し出されていた。それらはあのホテルで過ごしたことを示す確かな証拠だった。



「『』です!」



 あのホテルで奈都芽は黒江にそうアドバイスをされた。


 鏡の前に立ち、全身を見てみた。そこにはもうかつての(陽ちゃんが用意した)だぶだぶの服はなく、いつもボサボサだった髪は綺麗にセットされていた。物心ついたときからずっとつけていたメガネもなく、メイクは完璧に施されていた。


「本当にこれで南野先生が振り向いてくれるのかな?」


 そう言うと、奈都芽は黒江に教えられたように鏡に向かい笑顔の練習をした。




 口角の角度を点検しているまさにそのとき、「ブル、ブル」という振動音が聞こえた。


「ご飯、食べましたか?」


 久しぶりにおじょうさんの顔が見たくて、と陽ちゃんが画面越しに大きく手を振っていたが、すぐに異変に気づいた。


「あれ? おじょうさん……どうされました? いつもの——」


 奈都芽は、コンタクトレンズを買いに行った話をした。


「それとね——」


 そう言うと、奈都芽は立ち上がり、着ている服を見せた。


「まあ! なんとオシャレな!」


 イメージチェンジした理由を聞かれたが、奈都芽はなぜか陽ちゃんにホテルや黒江のことを話す気持ちになれず、「同じ職場にいる女の子のアドバイスで」と答えた。



 勧められるままに陽ちゃんが作って冷凍してくれていたビーフカレーを解凍した。「あたしも一緒に」と言う陽ちゃんと画面越しに二人でご飯を食べはじめた。


 食べはじめたものの、奈都芽のスプーンはいっこうに進まず、天井の辺りを見つめてばかりいた。あいかわらず、いろんなものが奈都芽の目にはぼんやりと映っていた。


「どうかされましたか? おじょうさん」


 陽ちゃんの声で奈都芽はハッと気がついた。


「どこか遠いところにでも行ってきたのですか? 見てはいけないものを見てしまったような顔をしていますよ」


 奈都芽は例のホテルのことをどう説明すればいいのかわからなかった。あんなにすばらしいホテルで過ごしてきたのに、なぜか陽ちゃんに言うべきかどうか迷っていた。



 その様子を見ていた陽ちゃんがスマホの画面の向こうで身を乗り出すようにした。大きく顔がアップに映し出された陽ちゃんは奈都芽をまじまじと見つめた。


「どうしたの、陽ちゃん……私、なにかおかしい?」


「いいえ。ただ……眼鏡をかけている姿も素敵でしたが、コンタクトをつけたおじょうさんも一層素敵だなと思いまして」


 そう陽ちゃんに言われ、奈都芽はようやく気持ちが落ち着いてきた。二人で話しながら食べたこともあってか、どうにかカレーの味がわかるようになってきた。


「そうだ、忘れてた」陽ちゃんは突然、手にしていた巨大な饅頭を置いた。「今すぐ、そちらに送りますね」


 奈都芽のスマホに何かが送られてきた。


「なんと、限定十組に当選しました! シークレットスイーツ祭りです!」


 いつも陽ちゃんとよく行くホテルのラウンジで行われるイベントのようで、高倍率のため滅多に参加できないとのことだった。


「その日に会いましょうよ。いつものようにたくさん、美味しいものを持っていきますから。あと……それと……」


 そこまで言うと、陽ちゃんは「ゴホン」と咳をして、珍しく改まった表情を見せた。


「あの……実は、そのときにですね——」


 そう言いかけたときに、陽ちゃんの後ろの方でベルが鳴った。


「あ、いけない。すみません。家元さまから連絡がきているようで」


 そう言い終わると、陽ちゃんはあっさりと通話を切ってしまった。画面から陽ちゃんの姿が突然消えてなくなった。


「また家元さまか……それにしても、陽ちゃん……今なにか言おうとしてたよね」


 奈都芽は首を傾げた。


 スマホを置き、食器を片づけた奈都芽はもう一度ホテルの写真を見た。やはり、画面の中には真っ白なウサギを抱えた奈都芽の姿や美味しそうな料理の写真があった。


 お風呂に入り(ホテルの温泉を思い出しながら)、髪を乾かし、ベッドに入った。目を閉じると、あの美しいホテルの情景が浮かんできた。姿勢正しい黒江が優雅に料理を並べていた。明日は仕事、と自分に言い聞かせてどうにか眠りについた。




 次の日、月曜日の朝、奈都芽は目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。


「南野先生、気づいてくれるかな?」


 黒江に勧められた、体にフィットしたスーツ姿を鏡で確認する。


 長年かけてきたメガネではなく、コンタクトを入れ、メイクをすませた奈都芽は髪のカールの具合をチェックし、教えらえたように笑顔を作った。


 ……南野先生に振り向いてもらいたい。一人の女性として輝きたい……。


 心の中でそう呟き、少しヒールの高いパンプスを履こうとしたそのとき、


「まずい、忘れるとこだった」


 鞄に入れようと置いていた書類のことを思い出した。それは、金曜日の晩、「南野先生に」と取引先から渡されたものだった。机の上に置いていたその書類を鞄に入れ、奈都芽は駅に向かった。



 ビルに着き、オフィスに向かって歩いていると、受付係に座る薫の姿が見えてきた。


「おはようございます」いつものように奈都芽は自分から挨拶をした。


 だが、もちろん、いつものように、薫は顔を上げようとすらしない。その声が奈都芽のものだとわかっているのに、(いやわかっているからこそ)薫は気づかない振りをした。


「あの……おはようございます」もう一度、奈都芽は挨拶をした。


「あら、ナツメだったのね。誰かと思ったわ。おは……」


 ようやく顔を上げた薫が挨拶しようとした。


「……」


 だが、『おは』のつづきは出てこなかった。少しの間ぼんやりと奈都芽を見つめていたが、すぐに薫が確認するように声を出した。


「ナツメよね?」


 はじめ奈都芽を見たときこそどこか動揺しているようだったが、すぐにいつもの薫に戻っていた。まるで試験官のように奈都芽の全身を見ながらこう言った。




「眼鏡はどうしたの? まさか、知らないの? 今、ロンドンではナツメがこないだかけてた形の眼鏡が流行っているのよ。それを知らないで、コンタクトにしたの? 笑っちゃうわ。時代に乗り損ねて。それとそのメイクと髪型。昔、フランスで流行ったもので、もう古い。しかも、そのピッタリとしたスーツもぜんぜん似合ってないし」


 責め立てるようにそこまで一気に話し終えた薫は、奈都芽から視線を外した。


「……」


 最後まで聞いた奈都芽は何も言わず、その場を去った。

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