第11章 ホテルの支配人、不思議の国の奈都芽③
「あの……カワタ様……」
応接セットの向かい側のソファで、黒江は戸惑った表情を浮かべていた。
「……何かをお悩みのようだということはじゅうじゅうわかりました……ただ、何を悩んでいらっしゃるのかを教えていただかないことには……こちらといたしましても……」
黒江は黒色のファイルを手にしていたが、先ほどからずっとそのファイルの中の『カルテ』らしき書類を作成することができずにいた。
「好きな男の人に振り向いて欲しい。薫さんと同じぐらい一人の女性として輝きたい」
奈都芽がその本心を言うのを恥ずかしがり、隠しているのだから当然のことだった。黒江は照れて顔を赤らめ、いっこうに話そうとしない奈都芽の様子を伺っていた。
しかし、そのうちにゆっくりとファイルを机に置き、斜め上の方をじっと見つめはじめた。しばらく沈黙がつづいたが、それを破ったのは黒江だった。
「あの、カワタ様……どうしても解決したいお悩みなのですか?」
その問いに、奈都芽はコクリとうなずく。
「そうですか。それはそうですよね。こうしてわざわざお電話をかけてくれたのですから……わかりました……では、先にこれだけは言わせてください。我が『ホテル・ソルスィエール』ではお客様のプライバシーについてはできる限り守らせていただくのがモットーでございます。ですから、この部屋で、いえ、このホテルでおこったすべてのことは完璧に一切外部に漏れることはございません。また、お客様がお望みの過ごし方を最大限に尊重させていただいております。ですから、これから言わせていただくことは、通常、考えられないことでございます。しかし、こうしないことにはいつまでたってもカワタ様のお悩みが解決しません。そこで言わせていただきますが——」
そこまで言うと、黒江さんは軽く咳ばらいをした。そして、こうつづけた。
「好きな男性に振り向いてもらいたい……一人の女性として輝きたい。それでよかったですか? カワタ様」
奈都芽の口が大きく開き、目は黒江の顔に釘付けとなった。
……なんで私の心の中がわかったんだろう?……やっぱり、ただものじゃない。何者なのかしら……黒江さんって……。
そう思った奈都芽は黒江の顔を改めて見たが、黒江は、見ようとしたわけではないが偶然人の着替えを見てしまった時のような気まずい表情を浮かべていた。
「心の中のプライベートな部分まで踏み込んでしまい、申し訳ございません。プライバシーを最大限に尊重させていただくのが当ホテルのオーナーの方針、いえ、哲学なのですが。とはいえ、わたくしもカウンセラーの端くれ、苦しんでおられるカワタ様を見殺しにすることはできません。どうか、その点ご理解のほど、よろしくお願いいたします」
黒江さんはそう言うと、深々と頭を下げた。
「そうですか……そういうことですか……」
顔を赤らめ、どもりながら奈都芽が話すのを黒江は聞いた。
好きな男の人の話を他人にしたことのなかった奈都芽にとってこれ以上恥ずかしいことはなかった。その奈都芽の気持ちを察した黒江は寄り添うように優しく相槌を打った。
「つまり……カワタ様はその同じ職場の南野先生という方のことが好き、ということなのですね?」
俯いていた奈都芽は、耳まで赤くなった。
「しかし、同じ職場に美しい薫さんという受付の方がおられて、その方がカワタ様が好意を寄せている南野先生と仲がいい。なんとか恋敵である薫さんではなく、自分の方に目を向けてもらいたい。そういうことでよろしいでしょうか?」
念を押すように確認すると、「フムフム」と言い、黒江は黒のファイルに何かを書きこんだ。改めて確認をされた奈都芽は恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたい、と思った。
書きこんだファイルを、黒江はしばらくじっと見つめていた。
何かを考えながら、口の周りの髭を右手の人差し指で、円を描くようにゆっくりと撫でた。あまり見たことのない髭の触りかただな、と奈都芽は思いながら見ていた。だが、何周か回ったときに突然、黒江の手がピタリと止まった。そして、ゆっくりと人差し指を、一本、口の前に立てた。
「わかりました。カワタ様、こういうことでいかがでしょう」
そう言い終わると、指をゆっくりと下し、黒江は頭を下げた。
「まずは先立って、わたくしの無礼をお許しください」
何のことで謝られているんだろう? 奈都芽は唖然としていていたが、黒江は『カワタナツメ』の分析をはじめた。
「わたくしのような年老いた男が、若く可愛らしいカワタ様に意見を申しあげるなど、本来あってはならぬこと。どの口が言っているのか、と思われるかもしれません。しかし、カワタ様は当ホテルの大切なお客様でございます。その大切なお客様がお悩みとあっては、この黒江、ほうっておくわけにいきません。さて、カワタ様につきましては、まずはご自身のルックスに自信が持てない。ここまではよろしいでしょうか?」
その問いに奈都芽は大きくうなずいた。
「『ルックス』を細かく分けていくと、①身長が低いのが気になる、②服装に自信が持てない、ということでしょうか?」
その問いにも奈都芽はさらに大きくうなずいた。
「一方、ライバルである薫さんは①身長が高い、②服装がオシャレで洗練されている、ということですね?」
それそれ、と言わんばかりに奈都芽が激しくうなずいた。
「こんなことわたくしが偉そうに言うのもなんですが、恋愛というのは自分に自信がもてないと積極的になれないものでございます。いわゆる『コンプレックス』というのがございますと、自分のことを卑下し、結果うまくいかないことが多いものでございます」
黒江の的確なコメントが心に染みていくのを奈都芽は感じた。
「つまり、南野先生という素敵な殿方を振り向かすために、カワタ様がするべきことは——」
そう言いながら黒江は席を立ち、両手を広げた。
「思いきった『イメージチェンジ』です!」
手を広げ立つ黒江の頭上には照明があり、それがスポットライトを浴びせるようにしていた。黒江は早々に部屋を出ると、たくさんの荷物を抱え、部屋に戻ってきた。
「カワタ様はたしかに身長が低いほうかもしれませんね。しかし、無駄な肉がなくスリムですから、こういった細身のスーツを着られると『カッコイイ』女性に変身できますよ」
そう言って、渡されたスーツを奈都芽は洗面室で着替えた。
「お似合いです!」
淡い赤紫色のスーツはパンツが細身で足首が少し見え、上着が燕尾服のような形をしていた。
いつのまにか用意されていた姿見で確認した奈都芽は思いのほか似合っていることに驚いた。これまで陽ちゃんが用意してくれた服とは違い、体にフィットしていた。
「少し肩に詰め物を」
奈都芽の後ろに立って一緒に鏡を見ていた黒江はそう言うと、ポケットの中から白い綿のようなものを取り出し、それを奈都芽の肩に入れた。背が低いはずの奈都芽の体が少し大きく見えた。
「では、これを履いてみてください」
そう言って渡されたのはシルバーのパンプスで、履き心地のよいものだった。
「少しヒールが高めなので、背が高く見えバランスがよくなります」
鏡越しに黒江がそう言った。
「わー」
奈都芽は今まで見たことのない自分の姿に驚いた。ほんの数センチのことだが、ずいぶんと印象が変わった。
「さてさて、おじょうさん。驚くのはまだ早いですよ」
そう言うと、黒江は奈都芽をソファに座らせ、メイクを始めた。
ファンデーション、アイシャドウの順で塗り、口紅をすっと引いた。
「え?」
鏡を見た奈都芽は声が自然と大きくなってしまった。右に左に体をねじらせ、鏡で全身を見て、笑顔になった。
「さて、もう一度座ってください」
黒江は奈都芽を席に座らせ、髪のセットを始めた。
「……さすがに、それはね……」
奈都芽は心の中でそう呟いた。
……これまでの黒江さんは見事に変身をさせてくれたわ。でも……。このボサボサの髪だけはね……。
セットが終わった奈都芽はもう一度姿見の前に立った。
「し、信じられない……」
生まれてから今までずっとボサボサだった髪が見事におさまり、毛先はカールまでしていた。「これ本当に……私の髪?」
それから黒江は奈都芽にメイクと髪のセットのやり方を教えた。
「あとは、これを変えれば仕上がりです。ただし、これだけはご自身で手に入れてください」
そう言いながら、黒江は奈都芽にメモを渡した。
「いえいえ、それほどファッションに詳しいわけではないのですよ」
あまりに詳しいことから奈都芽が質問すると、黒江がそう答えた。
「ホテルマンというのは年齢、性別、国籍の違う様々なお客様と接する仕事でございます。『ホテル・ソルスィエールの支配人たるもの、何を聞かれても答えられるようにしておきなさい』というのが、当ホテルのオーナーのお考えでございます。わたくしはただそのお言葉に忠実に生きているだけでございます。そのため、わたくしはホテルの営業の合間を縫って、新聞や雑誌を読むのはもちろんのこと、小説にエッセイ、音楽に映画、それに絵画の鑑賞、さらには舞台の観劇などをさせていただいております。ですが、そう言った文化的なことだけでは足りないことがございます。そのため、パリコレやミラノコレクションといったファッションの勉強も——」
す……凄すぎる。奈都芽は黒江の博学ぶりにすっかり圧倒された。
「さて、カワタ様。ここまで来るともうゴールはすぐそこです。あとは、鏡の前で最後のレッスンです。まずは、このように……」
鏡の中で黒江は見事な笑顔を見せた。「100点!」という声が聞こえてきそうなほど完璧な笑顔だった。奈都芽は教えられたように笑顔を作った。
「南野先生と会った時、『おはようございます』と言いながら、その笑顔をしてください。それだけで、カワタ様の願いは叶いますので」
黒江が部屋を出ていった後でも、奈都芽はなかなかスーツを脱ごうとしなかった。
「それにしても、こんな服まで用意してくれるなんて。なんてすごい人なの、黒江さんって」
そう呟いた奈都芽だったが、本当に黒江のアドバイスを聞くだけで南野と上手くいくかどうかはわからない、とも思った。
「……でも……こんなにかわいくて女らしい格好をしたのは生まれて初めてかも……」
うれしさのあまり、奈都芽は何度も鏡の中の自分を見た。あまりに気に入ったスーツを脱ぐことができず、ベッドに入ったのは深夜遅くだった。
「コン、コン」
朝のモーニングコールはドアを叩く音だった。
「おはよう、ラパン」
すっかりその白ウサギのことが好きになった奈都芽は笑顔で挨拶をした。
前日の夕食と負けず劣らず、次の日の朝食もやはり素晴らしいものだった。
「よろしければバス停までお送りしましょうか?」
チェックアウトを済ませ帰ろうとすると、黒江が言った。
二人で外に出ると、朝日を浴びた黒のクラシックカーが輝いていた。
「すばらしい……」
昨日は暗くてわからなかったが、奈都芽はその美しさに見とれてしまった。ひらひらとどこからかやってきたチョウチョがボンネットにのろうとして、足を滑らせた。
黒江の運転する車は昨日来たバラ園とは反対の裏口から出た。裏口までは直線で乗り心地がよかったが、そこから奈都芽は生きた心地がしなかった。
「カワタ様、ご安心ください。これでも、わたくしは——」
バス停に着くまで、そう言いながら、黒江は何度も胸のポケットから国際A級ライセンスのカードらしきものを奈都芽に見せた。車一台、通るのが限界、今にも壁にぶつかるのではないかと思うほど狭い道を一度もハンドルを切り返すことなく、黒江は進んだ。
「キャア」
奈都芽がそう叫ぶたびに、黒江はカードをチラッと見せた。
右折、左折、左折、右折……。そして、突然、目の前が真っ暗になった。
体が少し前のめりになった。坂道を下っていることは奈都芽にもわかった。外の景色を見ようと目を凝らしてみたが、真っ暗で何も見えなかった。奈都芽は不安な顔をした。
「秘密の近道なのでございます」
奈都芽を安心させるように黒江は笑顔でそう言った。
どうやらそこは照明が一切ないトンネルのようだった。奈都芽は黒江の声が地下深く、闇の深い奥底から聞こえてきたような気がした。
「どこまでいくのかな?」そう不安になりかけたときに声が聞こえた。
「到着でございます。カワタ様」
窓の外を見ると、いつのまにか、昨日のバス停らしきところについていた。黒江と挨拶をかわし、奈都芽は車を降りようとした。
「カワタ様、例のあの件だけはお願いしますよ」
黒江はそう言うと、右目でウインクをした。
奈都芽は車を降りると、バス停の周りをぐるぐると歩いて見た。しかし、昨日、このバス停のうしろあたりにあったはずのあの老婆のお店はどこにもなかった。
もちろん先生らしきおじいさんの姿もそこにはなかった。
「ここで、私が昨日見たものって、いったい?……」
バスを待つ間、奈都芽は昨日のことを考えたが、いくら考えてもその答えが見つかることはなかった。
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