第11章  ホテルの支配人、不思議の国の奈都芽②

「え? カワタ様……なんとおっしゃいました?」



 料理が最高であったことをシェフに伝えてほしい、と奈都芽は言った。

 美味しいレストランで食事をした時にはそう言うのだと陽ちゃんに教えられていたからだ。だが、それを聞いた支配人の手がピタリと止まり、そして首を振った。



「いいえ、当ホテルにはシェフなどおりません」




 奈都芽は思わず、支配人の顔を覗きこんでしまった。


「で、でも……今、食べた最高の料理を作ったのはこのホテルのシェフですよね? だって、さっき、『当ホテルの料理は、フランスの三ツ星レストランで習得してきたものばかり』って」


「なるほど。そうですか。それはご説明が遅れたようですね」


 支配人はそう言うと、手にしていた皿を置き、両手を大きく広げた。







 奈都芽はしばらく支配人の顔に釘づけになってしまった。


 驚きのあまり、あごが外れたのではないかと思うほど大きく口を開けていた。奈都芽はいつまでも口を閉じられないでいたが、支配人は畳みかけるようつづけた。




「余談ですが、




 奈都芽の口がさらに大きく広がった。


「いや、さすがにキツイときがございます。庭の手入れ、部屋の清掃、クリーニング、そして料理、すべてひとりでやっていますから。ちなみに、とりわけ骨の折れるものがあるのですが、わかりますか? 実は、バラ園の管理なのでございます。『美しいものには棘がある』と言いますが、たしかにあの棘から身を守るのは並み大抵のことではございません。ですが、カワタ様、これを見てください。ほら、傷ひとつないのですよ」


 支配人は両手を広げて見せた。


 キャンドルの光に当たったその手には傷ひとつなかった。傷どころか、シミひとつなかった。まるでハンドモデルのような美しい手だった。




「バラ専用の手袋というのがございまして——」


 どこから取り出したのか、そして、いつのまに取り出したのか、支配人の手には分厚い黒のガーデン・グローブがあった。ようやく奈都芽が口を聞けるようになった。



「じゃあ、もしかして……あの庭も、このホテルの掃除も、『ブランシスリー』仕込みのクリーニングも……そして、この素晴らしい料理を作るのもすべて支配人がひとりでやっているということですか?」



 奈都芽の質問に支配人はゆっくりとうなずいた。ようやく元に戻った奈都芽の口がまたぽっかりと大きく開いてしまった。な、なんてこと……。頭の中で、奈都芽はこのホテルで見た光景をもう一度見直してみた。信じられない……。だが、ふとその時あることに気がつき、おそるおそる質問をした。



「すると……もしかして……あの有名な○○ホテルで修業したのも、名門『ブランシスリー』でクリーニングをしていたのも、フランスの三ツ星レストランで料理の腕を磨いたのも、ですか?」



 支配人は誇らしげにうなずいた。


 奈都芽は思わず支配人の名札をじっと見てしまった。




         支配人 黒江くろえ 




 ……黒江さん……か。まさにプロフェッショナルなホテルマン……。


 奈都芽が名札から目が離せないでいると、突然、支配人がこう言った。




「さあさあ、カワタ様。わたくしの話はこれぐらいに致しましょう。食事を片付けさせていただきます。あっ、そうだ——」


 イチゴのシャーベットの皿を持った支配人が、にっこりと微笑んだ。


「もし、どこかお出かけになるようでしたら、何時でも結構ですのでフロントまでお電話ください。わたくしが送迎させていただきますので」


「そ、送迎?……」奈都芽の頭は混乱した。「もしかして、黒江さんが運転を?」


「もちろんですとも、カワタ様。このホテルの従業員はこのわたくしひとりでございます。わたくし以外、このホテルで誰が運転をするというのですか!」


 そう言うと、支配人はモーニングの内ポケットに手を入れ、何かを取り出した。


「世界は広うございます。もちろん、わたくしなどより運転の上手な方はいらっしゃるでしょう。ですが、わたくしも国際A級ライセンスを持つ身。この資格に恥じぬよう、しっかりと運転させていただきます」


 モーニングの内ポケットから取り出したのは名刺サイズのカードのようで、そこには『国際A級ライセンス』と書かれていた。


 この一手でゲームを終わらせるように、『チェックメイト』という声が部屋中に響いた気がした。




         支配人 黒江くろえ




 奈都芽は改めて、支配人の名札に目がいった。


 ……黒江さんは、まさにプロフェッショナルなホテルマン……。




 片づけがすべて終わり、ベッド、お風呂や洗面所、トイレに落ち度がないことを確認し、部屋を出て行こうとした黒江がこう言った。


「机の上に黒色のメニューのようなものがございますね? あちらに当ホテルのすべてのサービスが書かれております。気になるサービスがございましたら、フロントまでお電話ください」




 支配人の黒江が部屋から出て行くと、奈都芽はゆっくりと部屋を見回してみた。

 クラシックホテルのお手本のような部屋にすっかり満足した奈都芽はダイブするようにベッドに飛び乗った。しかし、そこでふと思った。


「それにしても、私……どうしてここにいるんだろう?」




 奈都芽は冷静に今日の出来事を思い返した。


 そうだ、私、南野先生の代わりに書類を持ってきたのよ。書類を届けた後、駅直行のバスが事故で来なくって。どうにか迂回路のバスに乗ったら、そこに……先生に似た白いスーツのおじいさんがいた……。先生かどうかはわからないけど、その姿を追うように降りたバス停の近くで売店のおばあさんに会ったんだわ。先生を見なかったかって、聞いたら、近くにいい湯の出るホテルがあるからそこに行ったんじゃないかって言われて。でも、なかなかホテルが見つからず、道に迷っていたら




「そうだ……猫が現れた。でも、ただの猫じゃなかったわ……だったのよ……」




 頭の中にその姿が浮かんできた奈都芽は、思わずベッドから飛び起きた。


 今でもあの猫が忘れられないわ。街灯もない細い迷路のような道を通って。私、ひとりだと、絶対たどり着くことはなかったわ。


 そう考えていると、ドアを叩く音がした。「コン、コン」


 お風呂の時刻を教えるために来た真っ白なウサギがちょこんと座っていた。


「ありがとう、ラパン」


 その愛らしい姿に奈都芽は思わず頭を撫でてしまった。だが、顔を近づけた奈都芽は首を傾げた。


「あれ?」




「カッチ、カッチ、カッチ」規則正しい音が聞こえた。


 どこから聞こえてくるんだろう? そう思った奈都芽は耳を澄ませてみた。だが、どこからその音が聞こえてくるのかわからなかった。近づいてよく見ると、ウサギの首には白い首輪が巻かれていた。その首輪はウサギの白とほとんど区別がつかなかった。


 どれだけ観察してもわからないことから、奈都芽はラパンに別れを告げた。




「は~、気持ちいい」


 お湯に浸かった奈都芽の口から自然と言葉が漏れた。「このお風呂からもう出られない」


 湯治場として有名だと聞いていたが、その理由がよくわかった。百パーセント天然かけ流しとのことだったが、金のライオンの口から溢れてくるそのお湯はすべすべで、体の隅々まで浸透してくる。奈都芽はお湯に浸かっているうちに、体がどんどん軽くなり、さらには目の前が明るくなったような気がしたほどだった。


「まあ、それもそうか……」


 奈都芽はそう呟いた。


 ……だって、このお風呂を準備してくれたのは、あの黒江さんなんだもん。あの黒江さんが入れたお風呂なんだから




       




 黒江が用意してくれたバスローブはフカフカで、体を、いや奈都芽のすべてを包み込むような甘い香りに満ちていた。髪を乾かすと、窓際のソファに座った。


「クリーニングが楽しみ」


 奈都芽の顔が思わずほころんだ。


 沈むようにソファに座り、くつろぎながらスマホを見ていたのだが、奈都芽の目に何枚かの写真が飛びこんできた。


「はー……」


 それはついこないだ薫から大量に送られてきたもので、写真の中で南野と薫が笑顔で食事を楽しんでいた。


 黒江が作った美味しい料理を食べ、天然かけ流しのお風呂に入って気分のよかった奈都芽の心は一気に暗いものとなった。ソファから立ち上がった奈都芽は洗面所にあった鏡に自分の姿を映した。


「薫さんとは大違い。背も低いし、スタイルも……」


 すっかり落ち込んだ奈都芽はトボトボと窓際のソファに戻った。その時、テーブルの上に置かれた黒いものが目に入った。





         ホテル ソルスィエール サービス内容





「あちらに当ホテルで受けることのできるサービスが書かれております」


 黒江がそう言っていたことを思い出し、奈都芽はすぐに中を見た。




 一泊二食(朝、夕食)付きの宿泊料金。すべてが部屋食である旨の記載。


 お風呂の紹介(天然温泉の成分表、湯治場としての歴史について)。


 バラ園の紹介(世界各地から厳選、取り寄せられたことが書かれている)。


 クリーニングサービスについて(完全個別方式、『カルテ』の作成、水質検査をクリアした天然水など)。


 クラシックカーによる送迎サービス。 etc




 そこまで順番に見ていき、奈都芽は最後のページに辿りついた。





    個人カウンセリングサービス お悩み相談も承っております


    お悩み相談、ご希望のお客様はフロントまでお電話ください






「フロント?」


 ……ということは……もちろん……。


「相談相手は、何をしても完璧にこなしてしまうあの黒江さん——」




 気がつくと、奈都芽はベッドの上の方に置かれた黒電話の前に立っていた。


「これはこれは、カワタ様。お電話ありがとうございます。この黒江、非力ながらも精一杯、相談に乗らせていただきたいと思います。なにぶん未熟者ではございますが……あっ、とはいえ、わたくしも米国に留学をしてロジャーズの『来談者中心療法』を学びまして、その後は——」




 奈都芽の思ったとおりだった。


 話によると、黒江はかなり本格的に心理学やカウンセリングを学習経験があるようだった。

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