第11章 ホテルの支配人、不思議の国の奈都芽①
「こちらでございます」
奈都芽が案内されたのは「202」の部屋だった。その向かいが「204」だった。
部屋に入る前に奥の方に部屋があるのが見えた。「201」とその向かいが「203」のようだが、宿泊客がいないのか、シーンとしている。
奈都芽が「202」の番号に目をやっているときに
「カタッ」
という小さな音が聞こえたような気がした。
その音は「204」からしていたようで、奈都芽は向かいの扉をじっと見た。
……もしかして、先生?……。
だが、その時、支配人の声がした。
「さあ、どうぞ。お入りください」
……先生……がいるわけがないか……だって、もう亡くなったんだもの……。
そう気持ちを切り替え部屋に入った奈都芽の口から、自然と素直な声が溢れ出た。
「か、かわいい」
「ありがとうございます」支配人が深々と頭を下げた。
廊下からつづく真っ赤な絨毯と白壁と木がバランスよく配置された美しい部屋だった。
あくまでも仕事で来ているのだから、と思いつつも奈都芽は心がときめくのを止めることができなかった。いつもより気持ちが華やぎ、軽くなっていくのを奈都芽は感じた。
部屋の入り口の左壁にアンティークのこげ茶色の古時計がかけられていた。
その壁沿いに目を動かしていくと、木製のベッドが据えつけられているのが見えた。ベッドの向こうには大きな窓があり、そこには白いレースのカーテンがかけられていた。
「あのカーテン高そう……」
奈都芽がそう呟くと、支配人が笑顔を見せた。
カーテンから右に目を移すと応接セットがあり、机と緑色のソファが二脚あった。
応接セットのすぐ横にもやはり窓があり、そこにも白いレースのカーテンがかけられていた。ソファのややうしろのあたりにはテレビが備えつけられていたが、木でできた収納家具のような中にピタリと納まっていた。
「手前がトイレ、その隣が洗面、その奥がお風呂でございます」
支配人がドアを開けて、説明をした。ドアは入り口のすぐ横、アンティーク時計のすぐ前にあった。予想通り、トイレ、洗面、お風呂もすべて輝き、シミひとつなかった。今日、新しい設備にしたばかりです。そう言われても疑わないぐらい清潔感にあふれていた。
「本当にどこも完璧に掃除されていますね」
奈都芽がそう言うのを聞いた支配人が、慌てて首を振った。
「いえいえ。たしかに当ホテルの清掃は○○ホテル仕込みではございますが——」
なぜこのホテルがこれだけキレイなのか、そのホテル名を聞いた奈都芽は納得ができた。……あまり高級なものに詳しくない私でも、○○ホテルは知っている。ついこないだも
ある巨大な国の大統領が宿泊したことをメディアが取り上げていた。日本を、いや世界を代表するあの高級ホテルで学んだ技術はさすがだわ……。
「しかし、掃除をするのはホテルマンとして当たり前のことでございます。落ち度など、許されるはずがないのですから」
支配人はそう言い終わると、胸を張った。そして、ゆっくりと礼をした。威厳に満ちた立ち居振る舞いだった。奈都芽は誇りに満ちたその支配人の顔をまじまじと見つめてしまった。……それにしても、今聞いたばかりの言葉が気になるわ……。
「落ち度など、許されるはずがないのですから」
奈都芽は今聞いた言葉を何度か頭の中で反復した。そして、支配人の顔を見ているうちにある考えが浮かんだ。
「この支配人……このホテルを心の底から愛しているのよ」
いや、それだけじゃないわ。このホテルを愛しているだけじゃなくって、人生のすべてを捧げているんじゃないかしら。
「ところで、夕食の方ですが、いつごろお持ちすればよろしいですか?」
丁寧な口調だった。支配人が柔和な笑顔を浮かべていた。
「お持ちするって……もしかして、部屋で食べられるんですか?」
「もちろんでございます」支配人がこともなげに言う。奈都芽はあらためてさっきフロントで教えられた料金を思い返し、驚きが隠せない表情を浮かべた。
「先に食事をされますか? お風呂の後がよろしければそうさせていただくことも可能ですが」
間髪入れず、支配人が質問をする。先に食事をすると、奈都芽は答えた。
「ところで、カワタ様。メイン料理の方ですが、お肉とお魚、どちらになさいますか?」
「え?」メイン料理まで選べることにさらに奈都芽は驚かされた。
「それと、洗濯物がございましたら、何なりとお申しつけください。明日、朝、チェックアウト時までにすべてご用意させていただきますので」
「ま、まだ、サービスがあるんですか?」至れり尽くせりのサービスに奈都芽が感嘆の声を上げたのも無理はない。「洗濯までしてもらえるんですか?」
「あっ、ご安心を! 決して、カワタ様の服を縮めたり、傷めたりいたしませんから! 当ホテルのクリーニングは『ブランシスリー』仕込みでございますので」
「ブ、ブランシスリー……」
そう呟いた奈都芽は顔にこそ出さないが、頭の中は混乱していた。
……小説や映画化されることも多い『ブランシスリー』のことはあまりファッションに詳しくない私でも知っているわ……パリに本店があり、富裕層向けのクリーニング専門会社で世界各地に支店があるのよね。まさかあのサービスをここで受けられるなんて……。
そこまで考えた奈都芽の頭の中にふとある考えが浮かんだ。
……さすがの薫さんも『ブランシスリー』にクリーニングは頼んだことはないかも……。
薫にちょっとした対抗心が芽生えた奈都芽は
「お願いします」
と、勢いよく頭を下げた。
「頭をあげてください、カワタ様。当然のサービスでございます」
支配人がさらにつづけた。
「ちなみにですが、当ホテルのクリーニングは、『完全個別方式』でございます。ですから、他のお客様の洗濯物と一緒に洗うことはございません。その点はご安心ください。それと、ちなみにですが、『カルテ』を作らせてもらうことだけはご了承ください。お客様、ひとりひとりのお洋服に合った洗剤や洗い方というのがございます。その為に必要な情報を管理する『カルテ』を作らせていただいております」
それを聞いた奈都芽は思わず支配人の顔をまじまじと見てしまった。
……いったいこのホテルは、どうなっているんだろう? 超一流のクリーニング技術を持つ専門家たちまで抱えて。それなのに、あの料金……。
これまでの話だけでも奈都芽は驚いていたのだが、支配人はさらにつづけた。
「わたくしとしたことが申し訳ございません。ひとつ言い忘れておりました。当ホテルのクリーニングは水質検査をクリアした天然水のみを使用しております。安心して、ご利用くださいませ」
そう言い終わると、黒のモーニング姿の支配人が深々と頭を下げた。
……完璧だ。もう何も言うことがない。こんなホテルに泊まれるなんて……。
あまりのサービスの充実ぶりに奈都芽は圧倒されていた。
「さてカワタ様。食事の前に紹介させていただきたいのですが——」
そう言いながら、支配人がドアを開けると、
「か、かわいい」
そこにいたのは、全身真っ白のウサギだった。あまりの可愛さに奈都芽はその小さいウサギを胸に抱きかかえた。髭まで白いそのウサギは、よく見ると鼻だけが黒かった。
「ラパンと言います。御宿泊中、カワタ様の時間の管理をさせていただきます。まあ、いわば『時計』のようなものでございます。アラーム代わりに気楽にご利用ください。時間になりますと、こちらのものがドアをノックさせていただきます」
「ウサギが……と、時計代わり……」
支配人が部屋を出ていき、少しぐらい待つのかと思ったが、すぐに料理が運ばれてきた。
ドアのところで一礼をした支配人は、シルバーのワゴンを押しながら入ってきた。窓際の応接セットの机に赤のランチョンマットを敷くと、その上にナプキン、フォーク、スプーン、そしてナイフをまるでダンスでも踊るように優雅に配置した。そして、ワゴンに乗せてあった白のキャンドルを机に乗せるとそれに火をつけた。キャンドルに火をともすと、部屋の照明を少し落とし、一品目の鯛のカルパチョをマットの上に置いた。
「きれい」
すかさず、奈都芽はスマホで撮影をした。
淡いブルーのガラス皿の上に、薄く切られた鯛が円を描くように並べられており、真ん中にはカイワレ大根が盛りつけられていた。奈都芽は一切れ一切れを大切に味わった。
……いい鯛。新鮮で身がもちもち。オリーブオイルとレモンのバランスが絶妙……。
カルパチョの次には、小振りな透明のリキュールグラスに入ったコンソメのジュレが出てきた。黄色みがかったジュレの中には細かくカットしたきゅうりが散りばめられ、表面には薔薇の花を模して巻かれた生ハムが浮かべられていた。
「美しい」
奈都芽が素直な感想を伝えると、支配人は軽く会釈し微笑んだ。
……それにしても、絶妙な距離で立っているな。何かあればすぐに駆けつけることができる。でも、決してこちらのパーソナルな空間には入りこまない。一切ストレスを感じさせない距離なのよね……。
「それに……」
奈都芽はつづけて思った。
……料理が運び込まれるタイミングが、また絶妙なのよ……食べ始めるときは、部屋にいるのよ。だけど、おいしくって夢中に食べだすといつのまにか姿を消す。それで、食べ終わるころには次の料理をワゴンに乗せて持ってきてくれるのよね……。
「実は、当ホテルの料理は、フランスの三ツ星レストランで習得してきたものばかりでございます」
奈都芽がなにを食べても美味しいですね、と言ったところ、支配人はそう答えた。
……今夜は素敵な夜だな……。フランスの三ツ星レストランよ。滅多に食べられるものじゃないわ……。
「ビーフシチューでございます」
メイン料理が奈都芽の前に運ばれてきた。
「あっ、コレ!」
その芳醇な香りをかいだ瞬間、奈都芽は思わず大きな声を出してしまった。「フロントで名前を書いているときにかいだ香りです」
奈都芽の様子を見た支配人は笑顔を浮かべ、ゆっくりと説明をはじめた。
「もともと『シチュー』というのは、肉や野菜をスープで長時間火にかけて煮込むという意味でございます。だからというわけではございませんが、当店の『デミグラスソース』はバターを使わない昔ながらの製法で一週間ほど煮込んで作っております」
「い、一週間?」奈都芽は驚きの声をあげた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
支配人にそう言われた奈都芽はスプーンを手にして、皿に目をやった。中央に大きなお肉が盛りつけられ、その脇にブロッコリーと人参のグラッセが添えられていた。
「もう形がなくなってわかりませんが、ソースを煮込む際には、玉ねぎと人参もいれております。それらが独特の甘みをもたらすのでございます。それと、焼き方に秘密があるのですが、お肉はどれだけ長時間煮込んでも崩れることはござません。それなのに、なぜかスプーンで触っただけで肉がほどけてしまうのです」
言われるように、奈都芽はスプーンでお肉をほぐしてみた。「あっ」
支配人の言う通りに、すぐに肉はその塊から離れ、ソースの中にゆっくりと滑り落ちた。一度口にすると、その滑らかなコクのある旨みと甘みにスプーンを止めることができない。
モーニング姿の支配人が、微笑みながら奈都芽を見る。キャンドルの明かりが銀縁の眼鏡にぼんやりと映っていた。左ひじを直角に曲げ、姿勢よく立つその姿は三ツ星レストランのメートル・ドテル、ヘッド・ウエイターのようであった。
すべてが流れるように、スムーズな、優雅なときが流れていた。
だが、メイン料理を堪能し、
「当ホテルで今朝摘みとったイチゴで作ったものでございます」
と、最後に用意されたイチゴのシャーベットを食べ終えたときにそれはおこった。
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