第10章 奈都芽が迷いこんださき③
猫だった。
だが、それはただの猫ではなかった。
猫は左の頬を見せるように座っていた。
頭の先から尻尾の先までが白かった。白い左手を舐めた猫は、その手で、白い左頬の辺りを撫でた。
「白猫」
奈都芽はそう思った。だが、そうではなかった。
ゆっくりと体を百八十度回転させた猫は、今度は右の頬を見せるように座った。
その右頬の色は白ではなく、黒だった。暗闇でよくは見えないが、頭の先から尻尾まで黒だった。どうやら猫は黒い右手を舐め、その手で黒色の右頬を撫でているようだった。
「……黒猫なの? でも……」
奈都芽のその疑問に答えるように、猫は、九十度、体を回転させた。
顔を突き合わすように座ったことから、奈都芽はようやく正面から見ることになった。
体が白と黒の二つに分かれ、左右対称になっている。
まるで誰かが意図的にそうしたように、左半分だけの白色の猫と右半分だけの黒色の猫がちょうど真ん中でくっつけられたようにしている。
「ニャ」
鳴き声をあげた猫は、ゆっくりと目を開けた。目の色は赤より濃い緋色だった。
暗闇の中で鈍く光るふたつの目がじっと奈都芽を見ていた。見るつもりはなかったが奈都芽も思わずじっと見た。首輪がついていない。飼い猫じゃないのかな。
奈都芽と猫の目がぴたりと合った。時間にするとほんの数秒程度なのかもしれなかったが、奈都芽は何時間も見つめられたような気がした。その時、突然、声がした。
「ついてきなさい」
……今、猫が喋った?……。
奈都芽は思わず辺りをキョロキョロ見回した。
……猫が……猫が喋った……でも、そんなことがあるはずない。けど誰もいない……。
その時、奈都芽は咄嗟に右手の人差し指を左手の爪の上に乗せ、自分に言い聞かせた。
「落ち着け……落ち着け……落ち着け」
先生の癖の効果か、奈都芽は少し冷静さを取り戻した。だが、ようやく冷静さを取り戻そうとした奈都芽にまた先ほどの声が聞こえてきた。
「ついてきなさい」
……やっぱり、間違いない……この猫が喋ってるんだわ……。不安や恐怖で体がこわばるのを奈都芽は感じた。
だが、そんな奈都芽を気にする様子もなく、白黒猫は体を反転させ、お尻を向け、歩きはじめた。暗闇の中に消えていこうとする猫の姿を見失わないように奈都芽も慌てて歩きはじめた。
点々と街灯はあるが、今にも消えそうな弱々しい明かりのため、どこを見ても暗かった。ただ、猫の体半分、その白い毛だけが奈都芽の頼りだった。その白い毛は、漆黒のような暗闇の中でぼんやり、仄かに光っていた。
しばらく歩いていると、猫が角を曲がった。後を追うように急いで曲がると、両サイドが板塀に挟まれていた。人間がどうにか二人分歩けるぐらいの広さだった。
「ヒュッ」
猫は軽々とその板塀の上に飛び乗った。
左半分の白い毛を見せるようにして歩いたので、真っ暗闇の中を白猫が宙を浮いているように見えた。板塀は迷路のように右、左、右、右、左……となっていた。角を曲がる度にふんわりと白い毛が踊るように奈都芽には見えた。
「どこに行くんだろう?」
猫の後をついて歩く奈都芽は不安に思った。あたりはどんどん暗くなっていき、何も見えなかった。頼りは白黒猫の白い毛だけだった。
板塀の上を歩いていた猫だったが、ある角を曲がったところで
「ヒラリ」
と、舞い降りるのが見えた。
慌てて、奈都芽もその角を曲がった。少し先に白黒猫が座っていた。
猫が座っていたすぐそばにアーチ型の入り口のようなものが見えてきた。
高さが二メートル近くあるアーチを挟んで右へ、左へと壁のように葉が生い茂っている。奈都芽は猫の近くまで歩いていった。生垣のようだが、きちんと剪定されている。
「ここはどこ?」
そう呟いた奈都芽はあることに気がついた。
アーチと生垣のずっと奥の方に明かりのようなものが見える。だが、それはそれほど明るくなく、白黒猫の黒がわかるくらいの明るさだ。
奈都芽の顔をチラッと見た白黒猫がアーチの中に向かって歩き出した。
その後を追いながら、下からてっぺんへ、そしててっぺんから下へ、アーチに沿って目を動かす。赤に白、ピンクに黄色といった小ぶりの花が咲き乱れている。
「つるバラのアーチだわ」
それは完璧に作り上げられたものだった。
奈都芽は思わずため息をついた。花と花の間隔や、色のバランスが見事に配置されている。どれだけ暗くても、どれだけ花に興味がない人でもそれはわかるはず。
薄明りの中を歩く猫の姿。体の左半分、白い毛がほんのりと仄かに輝く。その白く輝く毛が色んなことを教えてくれる。アーチの隙間から色んなものが奈都芽の目に飛びこんできた。
芝生や池、さらには、バラ園らしきものまであるようだ。どれもこれも、(もちろんうすぼんやりしか見えないが)間違いなく完璧に手入れがされている。母のところに送られてくる高級雑誌の巻頭ページにでも出てきそうなオーラを醸し出している、と奈都芽は思った。
「どんな人たちがこの庭を管理しているんだろう?」
自然と奈都芽の想像が膨らむ。
「いったい何人、いや何十人の手が必要だろう? どれだけの時間をかければ、どれだけの労力を注げば、こんな隙のない完全な庭を作り上げることができるんだろう?」
ようやくつるバラのアーチの出口に来た。そこで奈都芽はこれまで歩いてきた道を振りかえった。
「このつるバラは先ほどの入り口から出口に向かって、緩やかに『S』を描いている」
顔を元に戻すと、奈都芽は少し離れたところに建物があることに気がついた。仄かに黄色い優しげな光が溢れていた。
建物のすぐそばには全体に丸みを帯びた真っ黒の旧車が止まっていた。
「キレイ」
いつの時代のものだろうか、白黒映画に出てきそうなその車は、ピカピカに輝いている。おそらくいくつもの時代を越えてきたはずなのに。車のすぐ奥には大きな木があり、木の下にはガーデンテーブルとチェアが置かれているのが見えた。
それらを見終えた奈都芽はようやく玄関に到着したことを知った。茶色い木製の両開きドアの上に看板が掲げられていたからだ。
Hôtel Sorcière ホテル ソルスィエール
奈都芽はホッとした。
……どうにかホテルに着いたわ。でも……この猫に導かれなかったら……。
そう思いながら足元に目をやる。
猫はお役御免とばかりにくつろいでいる。白色の左手を舐め、その手で白色の頬を撫でていた。その時、奈都芽はハッとあることを思いついた。
「玄関の明かりの下でじっくり見たいわ。だって、白黒猫なんて生まれて初めてだもん」だが、そう思い、瞬きをしたとたん、もうその姿は消えていた。
「……」
奈都芽は眼鏡をかけていることを確認したが、いつものように眼鏡はそこにあった。
だが、奈都芽を驚かせることはそれだけではなかった。
「いらっしゃいませ。ホテル・ソルスィエールへ、ようこそ」
ホテルの名前が書かれた看板のすぐ下、誰もいなかったはずの茶色い木製の両開きドアの前に男が立っていた。フォーマルな、そして、いかにも礼儀正しそうな声だった。
奈都芽は思わずその男をじっと見てしまった。
声と同じようにフォーマルな格好だった。
背はそれほど高くないが肉付きのしっかりとしたその身体を黒のモーニングコートが包みこんでいる。鍔のついた丸めのハットをかぶり、銀縁の丸眼鏡をかけ、ぐるりと円を描くように白髪まじりの口髭を生やしている。
「さあ、どうぞ」
モーニング姿の男はそう言いながら左側のドアを開け、中に入るよう促した。中に入ると、奈都芽はここがクラシカルなホテルであることがすぐにわかった。
正面に見えてきたシャンデリアは磨きこまれており、きらびやかに輝いている。奈都芽の目に男の足元がキラリと光るのが目に入ってきた。シャンデリア同様、こちらも丁寧に磨き上げられているようで、黒の革靴がシャンデリアの光を反射させていた。
床一面に敷き詰められた絨毯に奈都芽の目がいく。真っ赤で、足首まで入ってしまうのではないかと思うほど柔らかく、そして深い。その赤の絨毯をぐるりと囲むように、ロビー中、全面漆喰で壁が白く塗られている。ところどころ、白壁の中にはめ込むようにして、木枠の窓がある。そこにはシャンデリアの光が仄かに映っている。
自分が映った姿見のすぐそばには木製の黒いエレベーターがあり、さらにその横には階段の入り口がある。
「さあ。どうぞ、こちらへ」
少し離れたところから先ほどの男の声が聞こえてきた。
……あれ?……。
奈都芽は不思議に思った。さっきまですぐそばにいたはずなのに。いつのまにか、玄関から入った正面にある受付の中で立っている。おかしいな、と思いながらも奈都芽は受付まで歩いていった。
男は受付の前まで来た奈都芽の姿を確認すると、深々と丁寧に頭を下げ、張りのある澄み切った声でこう言った。
「本日は、ホテル・ソルスィエールへようこそ。あらためてご挨拶をさせてください。わたくし、当ホテルの支配人をさせていただいております黒江くろえと申します。どうぞ、以後お見知りおきを」
支配人に挨拶をされた奈都芽はつられるようにして、頭を下げた。そして、すぐに不安な気持ちになった。
……どうしよう。高そう……払えるかな?……。
奈都芽がそう心配になるのも無理はなかった。これほど行き届いた質の高いクラシックホテルは滅多にないからだ。支配人が料金を説明する。
「一泊二日で——」
「え」
小さな声だったが、本当はみんなが振り返るほど大きな声を出したいくらいだった。
奈都芽は特急電車やバスの中で見たこの近くのいくつかのホテルの料金を思い返した。
それらどのホテルの金額よりも明らかに安い。「皇族や各国のVIPの方々がよくご利用されております」と言われても驚かないほどの高級なホテルにも関わらず。
「ちなみに、朝夕二食付きです」
「二食も……」
また、今回も小さな声だったが、当然、奈都芽の頭の中では大きな声を出していた。
「それと、お部屋のお風呂は百パーセント、天然温泉です」
「天然温泉」
ついに今回は思わず大きな声を出してしまった。そして、ふとあることを思い出した。
……あのバスの停留所の近くの売店のおばあさんのいうことは本当だったんだ。たしか「このあたりは温泉が有名だ」って……。
奈都芽は宿泊カードに名前の記入を求められた。
「川……」
と、書きかけた時に突然あることが頭をよぎり質問をした。
「白いスーツのおじいさんが来ませんでしたか? 白い帽子に茶色のステッキを持っているんですけど」
ロビー中に響き渡るほどの大きな声だった。それはまるでホテルのあまりの美しさに先生のことを忘れてしまっていた自分を叱責するかのようでもあった。
「申し訳ございません」
深々と、支配人は頭を下げた。
「当ホテルにご宿泊されたお客様につきまして、情報をお教えすることはできないのでございます。プライバシーを守るためでございます。ご理解のほど宜しくお願い致します」
「そうですか……」
これ以上何も知りようがないと察した奈都芽は肩を落とした。
「それでは、カワタ様。お部屋までお荷物をお運びしましょう」
カウンターから出てきた支配人は奈都芽の荷物を持つと、エレベーターへと向かった。
先生の話を聞けなかった奈都芽はトボトボと力なく歩いていた。それを見た支配人が励ますように声をかけた。
「カワタ様。さっきまでいたカウンターをご覧ください」支配人が指差した先には木製の濃い黄金色のカウンターがあった。
「実は、あれはクイーンエリザベス二世号で実際に使われていたものでございます」
「そうなんですか?」好奇心に満ちた声で奈都芽が言った。
「世界三大銘木と言われる『チーク材』を使っております。それだけでも高価なものなのですが、あのカウンターにはあの豪華客船に乗ったVIPの歴史が刻み込まれております。値段なんてつけられません」
「すてき」
奈都芽の顔色が一転、明るくなった。奈都芽の頭の中で紳士や淑女が優雅にダンスを踊っていた。おもわず頬が緩んだ。それを確認した支配人が笑顔になった。
気持ちが明るくなった奈都芽はあらためてロビーを見回した。
「なんてキレイなホテルなんだろう」
思わず声が漏れた。すぐに支配人が反応する。「ありがとうございます」
真っ赤な絨毯、純白の壁、眩いばかりに輝くシャンデリア。夢の世界だわ。たしか、小説でもこんなシーンを読んだことがあるはず。
そこまで考えた奈都芽はふと思った。
「このホテルを掃除しているスタッフって、いったい何人、いや何十人いるのかな? こんな完璧な空間を作り上げるのに、どれだけの時間や労力を注いでいるんだろう?」
だが、奈都芽が気になっているのはそれだけではなかった。
「いったい、なにを作っているんだろう?」
実は、ホテルに一歩足を踏み入れたときからずっと奈都芽の心はそのことに奪われていた。ロビー中に何かを調理している香りが漂ってることに奈都芽はすぐに気がついた。
……受付のうしろあたりで料理がされているみたい。だって、さっきカウンターでいるときにコトコト、という何かを煮込む小さな音がしていたから……。
「グー」
そのとき、奈都芽のお腹が鳴った。「や、やだ」
奈都芽が顔を赤らめるのを支配人が優しい眼差しで見つめた。
……それにしても……おそらく……庭や掃除を担当する人たち同様、この調理場に立つシェフたちも絶対に一流よ……。
「このエレベーターのすぐ隣が階段となっております」
支配人に言われた奈都芽はそちらに目を向けた。木製のエレベーターのすぐ横が階段だが、そこは少し暗い。奈都芽が先にエレベーターに乗りこむと、支配人がこう言った。
「カワタ様、当ホテルは三階建てとなっております。しかし、決して三階には上がらないでください。三階は当ホテルのオーナーのプライベートルームでございますので」
そう言われて、奈都芽はふと見上げた。たしかに、エレベーターの階数を表示している数字は『1、2、3』とある。
「といっても、カワタ様、ご安心ください。このエレベーターは通常、三階にはまいりません。二階止まりなのでございます。先ほど見ていただいた階段も同様でございます。二階から三階へは上がれないように柵をしております」
二階に着き、エレベーターの扉が開くと、一階と同じ真っ赤な絨毯と白い壁だった。奈都芽は階段のところに何かが書かれてあることに気がついた。
「立ち入り禁止」
そう書かれた白のプレートが黒い柵らしきものに取りつけられていた。それは三階へとつづく階段に置かれていた。
黒く塗られた鉄製の重々しいその柵をどけることは奈都芽には困難に思えた。
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