第10章 奈都芽が迷いこんださき②
……さっき車内を見た時にはいなかったはず。いや、もしかすると見落としたのかもしれない……。
奈都芽は目を凝らしてみたが、その白い背中には、確かに見覚えがあった。
「でも……人違いよ……」
そう自分に言い聞かせた奈都芽だったが、
「だって、あの帽子は……」
頭の上には白のハットがあった。
白のスーツを着た男は通路側に座っていた。バスが揺れた際に、その手に持った物が目に入った。
「ちゃ、茶色のステッキ……」
鼓動が激しくなるのを奈都芽は感じた。奈都芽の頭は前と後ろが区別できないほど混乱した。
「もしかして……もしかして……せ——」
後ろからでは確認できないが、前に回れば『こう』であるに違いない。
白のカッターシャツの上に黒のサスペンダーがしてあり、顔には真っ白い口ひげが生え、それは綺麗に整えられているはず。
「そんなバカな……いるはずないじゃない……だって、先生はもう亡くなって——」
呼吸を整えた奈都芽はその白の背中を見ないようにした。「似た人がいるのよ」
その時、『下車』を知らせるブザーが鳴り響いた。
「次は——」
下車する停留場が近づいてきたことを車内のアナウンスが教えていた。
ゆっくりとブレーキをかけたバスは、スピードを落としはじめた。
「誰かが降りる」
そう奈都芽が思っていると、斜め前に座る白のスーツが目に入ってきた。
先ほど見たときとは違い、ステッキをシートに置いたのか、手には何もなかった。
そして、奈都芽は信じられない光景を目にしてしまった。それは、スローモーションのように奈都芽の前でゆっくりと動きを見せた。
右手の人差し指を、左手の親指の爪の上にゆっくりと置いた。
驚いた奈都芽は思わず前のめりになった。
「シュー」
バスが停まると同時に、白のスーツを着た男がステッキを手に席を立ち、運転手の方に向かって歩き出した。
「い、行かなきゃ」
奈都芽は慌てて席を立ち、転がるようにして歩きはじめた。
しかしスタートが遅れたため、白のスーツの男はすでに料金を払い、外に降りていた。その後ろ姿は間違いなく先生のものだった。
料金を払おうと急いで財布を開けた奈都芽は思わず、小銭を床に落としてしまった。
床に散らばった小銭を慌てて拾い、支払おうとした奈都芽に運転手が声をかけた。
「どうかしましたか?」
いやに落ち着いた声だった。
帽子を深くかぶっているせいか、運転手の顔がよく見えない。だが、黒の帽子からはみ出た襟足やもみあげが白いのが目についた。
「気分でも悪いのですか? 顔色がよくない」
そう言うと、男はチラッとミラーを見た。
私の顔が何かおかしかったに違いない。奈都芽はそう思った。だって、(死んだはずの)先生を見てしまったのだから。
だが、奈都芽はすぐに気を取りなおし、先生のあとを追うことにした。
「す、すみません。私、少し急ぐので」
それを聞いた運転手はニヤリと笑った。
「若い人はみんな先を急ぐ」
「……」
この運転手は何を言っているのだろう? 奈都芽の心はざわざわした。
バスの外で、白い背中が遠のいていくのが奈都芽の目に映った。
「し、知り合いが今降りていったんです」
料金を払いながら奈都芽はそう言った。
「そういうことですか。それなら早く行った方がいい。ただし、気をつけたほうがいい。探すとかえって見つけられなくなることがあるから」
運転手がそう言うのを聞くと、奈都芽は思わず相手の顔を見ようとした。だが、運転手はひと言も喋っていませんとでも言うように前をじっと見つめたままだった。
料金を払い終えた奈都芽は小首を傾げながらも、急いでバスを降りた。
バス停に降りた奈都芽は急いで辺りを見回した。
古ぼけた黄色い街灯がひとつだけついていた。木でできたベンチは腐りかけ、今にも壊れそうだった。停留所名が記された丸い看板が土埃で汚れ、何を書いているのかわからなかった。
先生はもうそこにはいなかった。
先生はどこかに歩いていったのかもしれない。
そう思った奈都芽はバスの停留所の近くをぐるりと歩いて探してみた。バス停から離れ歩いていくと橋があり、その下を覗いてみた。そこからすぐのところに公園があったことから、その中の様子も見てみた。しかし、先生の姿はどこにも見当たらなかった。
奈都芽はバス停に引き返すことにした。
バス停が近づいてきたところで、ふと奈都芽は立ち止まった。あるものが気になったからだった。そこにあった街灯の明かりで鞄から取り出した『手紙』を読んでみた。
「新しい事務所には慣れましたか?」
手紙から先生の優しい声が今にも聞こえてきそうな気がした。
「困った時は——」
その時、ふと、なぜか背中がゾクゾクするのを奈都芽は感じた。どこからか生ぬるい風が吹いてきた。
「なにかお探しで?」
女の低い声がした。奈都芽は体をビクッとさせた。
目の前に奈都芽より背の低い老婆が立っていた。
顔が皺くちゃで、白い髪は後ろでひとつに束ねられている。濃いブルーのワンピースを着て、首にはひと際大きなダイヤのネックレス、指には真っ赤なルビーの指輪がしてある。さらに、手にはムチのような黒い棒を持っていた。
店の薄明りが老女の姿を明らかにしていたのだが、奈都芽は不思議に思わざるをえなかった。
老女の立つその小さな雑貨店は、バス停のすぐうしろあたりにあるのだが、先ほど見た時にはこの近くにはそんな店がなかったからだ。先生を探すために念入りに探したのだから、それは間違いがない。
「だけど……」
しかし、奈都芽の前には現に店が立っている。
ちっぽけな今にも壊れそうな売店だった。入り口のすぐ上にかけられている看板は錆びてしまい店名がわからなかった。かろうじて、店名の最後にあたる「~の店」という二文字だけがわかった。
「誰かを探しているのね?」
老女はニヤリと微笑んだ。
どうして人を探していることがわかったんだろう? そう不思議に思ったが、奈都芽はどうしても先生の行方を知りたかった。
「白いスーツの男、か。どうだろうね。白い帽子にステッキを持って歩いていたら、すぐにわかったはずだけど。まあ、もしかしたら、そのおじいさんはこの近くのホテルに行ったのかもしれないよ」
「ホテル?」
「この辺に来たとしたら、温泉が目当てかもしれないね。なんといっても、このあたりの湯のよさは昔から有名だから」
温泉? そう聞かされた奈都芽だったが、どうにも腑に落ちなかった。この街に来るまでに特急電車の中でも、バスの中でも時間があったので、この街のことはかなり調べた。だが、『温泉』という二文字はどこにもなかった。
「あ~、そうだ。この近くなら、あそこに違いない。ついこの先に『ホテル・ソルスィエール』っていういいホテルがあるんだよ。そのホテルにでも行ってみたらどうだい」
年老いた女はそう言うと、手にしたムチのような黒い棒で、店の入り口に貼ってある町内地図を差した。
Hôtel Sorcière ホテル ソルスィエール
「すぐ近くだよ」
老婆はムチのような棒でバス停とは違う方向を差した。「あの角を曲がるとすぐだよ」
奈都芽は礼を言い、教えられた方向に向かって歩き出そうとした。だが、うしろの方から声が聞こえてきた。
「古い言い伝えでは、このあたりのことを『桃源郷』のようなところと言ったらしいがね。でも、気をつけたほうがいいよ。桃源郷とは言ったけれど、ユートピアとは言っていない。ユートピアではないから、探しちゃだめだよ。見つからなくなるから」
奈都芽の頭は混乱した。
桃源郷? ユートピア? この二つの違いなんて、わかるわけがない。
それに、今、『探したらダメ』とか『見つからなくなる』って、言った。……たしかバスの運転手も同じようなことを……「探すとかえって見つからなくなる」って……。
なんのことかわからないまま、奈都芽はホテルに向かって歩き出した。
歩き出した奈都芽だったが、気配を感じ、うしろを振り返った。
薄ぼんやりとした店の明かりに照らされた老女はまだそこに立っていた。ホテルを見つけることができるか心配なのだろうか、じっと奈都芽のことを見ていた。
さらに歩いていったが、街灯がないところに来て不安に思った。
「あの角を曲がるとすぐだよ」
そう言われたところまで歩いてきた奈都芽は曲がる前にもう一度振り返ってみた。
まだ、そこにいたら、頭を下げよう。ありがとうございました、というように。
だが、もう一度その姿を見ようと首をうしろに回してみたが、もう老女の姿は消えていた。先ほどまでついていた店の明かりも消えていた。しばらく呆然としていた奈都芽だが、気を取りなおし、言われたように角を曲がった。
角を曲がった瞬間、奈都芽はすぐに引き返そうと思った。
遠くの方に点々と街灯がいくつかあるだけで、細く暗い路地のような道だったからだ。
「怖い」
奈都芽はそう思い、元来た道に戻ろうとした。だが、その時、奈都芽は異変を感じた。
トン、トンという地面を叩く音が聞こえた。
その音が聞こえてくるやいなや、奈都芽は潮が急に引いていくような感じを受けた。
その時、奈都芽の頭上でパチッ、パチッという音を立てながら電灯が点いた。うす明かりの下、なにやら白いものが音を立てながら近づいてきた。
「白い……ボール?」
奈都芽がそう呟くと、バレーボールぐらいの大きさの白い球がその場でトントンと音を立てながらバウンドした。
「ど、どうなってるの?」
だが、異変はそれだけではなかった。
背中の方でなにかが動く気配を感じ、急いで振り返った。
「な、なに? あれは……黒いボール?」
それもまた、先ほどと同じぐらいの大きさの黒い球で、やはり奈都芽の方に近づき、あるところまで来るとトントンと音を立てながらその場でバウンドをした。
奈都芽は、白と黒のボールらしきものに挟まれた格好になった。
「なんなのよ……」
そう呟いた瞬間、突然風が強く吹いた。
その風に吹きあげられるようにして、黒と白のボールらしきものが絡み合うようにして宙に舞いあがった。
「パン、パン、パン」
乾いた音を立てながら、『白』と『黒』は何度か激しくぶつかり、そしてさらに空に向かって昇りはじめた。だが、そのとき、後ろのほうで
「ゴトッ」
という小さな音が聞こえ、奈都芽は慌ててうしろを振り返った。
「い、いったい何なの!」
思わず、大声をあげた。
暗闇で目を凝らすが、何もない。奈都芽はすぐに体を元に戻した。だが、その暗闇の中には先ほどまでそこにあった『白』と『黒』の姿はなかった。
「え? 何もないじゃない……」
動揺が隠せない奈都芽の足元に何かがいた。
そこで奈都芽はこれまで見たことのない生き物を見ることになった。
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