第10章 奈都芽が迷いこんださき①
まだ
「——神社」
昨夜、先生に手紙で教えてもらった神社に改めて参ろうと、奈都芽はいつもより早く起床しやってきた。不思議なことに、先生が教えてくれたこの神社は父や陽ちゃんとよく通っていた神社と同じ名前のものだった。
早々に、奈都芽がこの神社を訪れたのにはわけがあった。
昨晩、ようやくたどり着いた部屋のドアを開けたところで、まるで奈都芽の帰宅を待っていたかのように鞄の中でスマホが音をたてた。
相手の名前を見て、もちろん奈都芽は顔をしかめた。
「ピポン、ピポン、ピポン……」
薫からの写真が大量に送られてきたのだ。
レストランで撮影されたと思われる写真には、テーブルの上に綺麗に磨きあげられた銀のナイフやスプーンなどが映し出されていた。コース料理だったようで、前菜からメイン料理、そしてデザートなどの写真が順番に送られてきた。さらには南野と薫の二人で写ったものが何枚かあり、それらを見る度に奈都芽の気持ちは沈んでいった。
『南野先生に誘われてデート』
すべての写真が届き、最後にそう書かれていた。
「南野先生が薫さんを誘った?」奈都芽の口から思わず疑問の言葉が溢れ出た。
まずはなによりウソをつきレストランに呼び出したことを薫に謝ってほしいと思っていた奈都芽だったが、それより最後に書かれたことが気になった。
……あの薫さんが言うのだから、ウソのような、本当のような……でも、もし本当だとすると、南野先生は薫さんのことが……。
真偽の確かめようがないことに、一晩中、奈都芽は苦しめられた。
「どうにか薫さんの攻撃から身を守りたい」
ベッドの中でずっとそう考えていた奈都芽は目覚まし時計よりかなり早い時間に目を覚まし、昨晩と同じ神社にお参りに来た。
「『道上先生』の紹介で来させていただいた川田奈都芽と申します。なにとぞ、あらゆる魔のものから私の身をお守りください」
薫、そして薫の姿に重なるようにして頭の中に浮かんできた母、その二人のことを考えながら、奈都芽は神に願いをかけた。最後に一礼をした奈都芽は、すっかり心が晴れやかになり、なにかいいことが起こるような気がした。
オフィスのあるビルに到着し、エレベーターの扉が開くとすぐに奈都芽は外に出た。
すぐ近くにある受付係の席を見たくないと思いながらも、チラリとそちらを見るとホッとした。そこに薫の姿がなかったからだ。
受付を無事過ぎ、オフィスに向かっていると、鞄の中で震えているのがわかった。
『朝ごはん、食べましたか?』
陽ちゃんから届いたメッセージだった。
『こないだの件は本当にすみませんでした。新しい事務所のことを家元さまに内緒にするというおじょうさんとの約束を破ってしまい、ごめんなさい。ただ、これには色々と事情がございます。しかし、その事情については残念ながら今はまだ申しあげることができません。また、日を改めて、ゆっくりと話をさせてください』
……色々な事情……でも、まだ今は言えないのか……。
本来ならどんな事情か、知りたいはずだった。
なぜ今は言えないのか、を陽ちゃんに聞きたいはずだった。だが、ここ数日連絡が取れてなかった陽ちゃんの文を読むだけで奈都芽の気持ちが和らいでいった。自分からは連絡をしない。そう固く決意をしていた奈都芽は、陽ちゃんの方から謝罪をしてくれたことで怒りの気持ちが鎮まっていった。
「おはようございます」
金村や藤田、それに南野と次々に挨拶をすませた。
ふと奈都芽は昨夜見た光景を思い出した。南野は薫とイタリアンレストランでデートをしていた。背の高い二人は奈都芽の目には理想のカップルのように映った。
「やっぱり、南野先生が誘ったのかな?」
昨夜、薫から届いた最後の文が奈都芽の頭から離れなかった。
斜め前に座る南野は朝の挨拶をすませると、あいかわらず誰とも口を聞かず仕事に没頭していた。ただ時折、仕事の合間に右手の人差し指を左手の親指の爪の上に置く姿が目についた。その度に奈都芽はこの前、二人で先生のことを話したときのことを思い出した。
……薫さんみたいに親密に話はできないけど、私が教えた先生の癖を気に入ってくれているだけで十分幸せ……。
可もなく不可もなく、滞りなく生活を送る。それが真の幸せだとすると、それから数日間の奈都芽はまさにそんな日々を過ごした。
あっという間に金曜日の夕方を迎え、奈都芽は机の上を片づけようとしていた。
「困ったな」
顔をしかめながら、そう言ったのは南野だった。就業時間を迎えようとしていた。
電話を切った南野は珍しく困惑の表情を浮かべた。
「どうかした?」
様子を察知した金村が南野に声をかけた。
「実は……」
南野はパートナーである金村に電話の内容を話した。
「クライアントさんがスケジュールを間違えて知らせてくれていたようで。この書類は社長の決済を今日中にもらわなければいけないそうなんです。しかし、社長が明日からアメリカに出張する予定だそうで。『今からどうにかこちらに持ってきてくれないか?』と、言われまして」
話を聞いた金村は腕を組みながらうなった。「うーん」
「僕が今からあちらに向かえばいいのですが、実は、今夜別のクライアントさんと食事をしながら打ち合わせの予定がありまして」
そう言うと、南野も金村と同じように腕を組み、首を傾げた。
しばらく沈黙がつづいた。
斜め前に座る南野が悩み苦しそうな顔をするのを見て、奈都芽はたまらず手を挙げた。
「あの……私——」
「少し遠いわね」
南野から資料を預かり、説明を受けている合間に隣で藤田がスマホで行き先を調べてくれた。
申し訳ない、と何度も謝る南野の声を聞くだけで、奈都芽は満足だった。更衣室についてきてくれた藤田が鞄に衣服を詰めながら言った。
「こんな予想外の出張の時の為にロッカーに着替えを用意してるのよ。まだ使ってない新品だから、よかったら使って。それと、遅くなったら駅前のホテルで泊まってくればいいのよ。宿泊料金は会社の経費で落ちるし、明日は土曜で休みだから」
藤田に送りだされた奈都芽は、小振りの旅行鞄を手にオフィスをあとにした。
「ほんとうになんとお礼を言ったら、いいのやら」
皺の目立つグレーのスーツを着た四十台後半の男が何度も頭を下げた。
「いえ、いえ。気にしないでください」
奈都芽がそう言うと、その言葉がかえって男のスイッチを押すようで、
「ほんとうに申し訳ありませんでした」
と、また頭を下げた。
餅つきの合いの手を打つ人のようなリズムで何度も頭を下げる様子から、奈都芽はこの担当者が心底申し訳ないと思っていることを察した。眼鏡がずれるのも気にせず謝罪する男の姿は奈都芽の長旅の疲れを幾らか和らげた。
ビルを出て、バス停に向かう。街灯はあるものの、あたりはすっかり暗くなっていた。
この地方の中心都市とはいえ、駅から少し離れているためか金曜の夜だというのに人の気配が少ない。とはいえ、駅に戻れば繁華街もあることから、バスで駅に向かう。
バス停に到着すると、停留所の前でなにやら人が話をしている声が聞こえてきた。
「どうする?」
スマホを片手にサラリーマンらしき男が呟いた。
「どれぐらいかかるのかな?」
同僚らしき男もそう言いながらスマホで何かを確認している。
小振りの旅行鞄を持った奈都芽はおそるおそる男に聞いてみた。
「いや、駅への直行便の2⃣番のバスが事故を起こしたみたいで。何時にやってくるかわからないそうなんですよ」
すっかり疲れ切った表情で男が答えた。はー、とため息をつくと、男は第一ボタンを外し、ネクタイを緩めた。
サラリーマン以外にも女子高生らしき制服を着た女の子の三人組もいたが、彼女たちもスマホの画面を見ながら、途方に暮れていた。鞄を手にした奈都芽もつられるようにため息をついた。しばらくそうしていたが、サラリーマンらしき男が声を出した。
「あっ。少し遠回りになるけど、4⃣番のバスがまもなく到着するそうですよ」
男によると、迂回路線ではあるが、駅に向かうバスがやってくるとのことだった。
すぐにその場で話し合いが始まった。どうやら、サラリーマンらしき男たちは、それに乗り、女子高生たちは直行便を待つことになったようだった。
奈都芽は左手に巻いた時計を見た。
時間を確認したものの、特に急ぐ予定はなかった。いや、予定そのものがなかった。
「泊ってくれば」
藤田にそう言われてきた奈都芽は次のバスに乗ってもいいし、乗らなくてもいいと思った。
だから、4⃣番のバスが見えた時にも、まだどうするのか奈都芽は決めかねていた。だが、バスが停まり、まるで事前に腕利きの測量士が計ったように奈都芽のまさに目の前で扉が開いた瞬間、思わず足がステップに乗っていた。後ろから来たサラリーマンらしき男たちに押されるようにして奈都芽は乗車した。
入り口近くの後輪の真上あたりの席に座った奈都芽はすぐに鞄からスマホを取り出した。
「たしかに、藤田さんの言うように駅の近くで泊るのもいいかなあ。でも、今なら何とか最終便にも間に合うし」
そう心の中で呟きながら、今夜の過ごし方を考えた。
この地方の名物料理を検索していたが、奈都芽はふと画面を切り替え、写真を見た。
イタリアンレストランで撮影された写真には、薫と南野の姿があった。高身長で、まさにこれが美男美女といわんばかりの二人が笑顔で写っていた。
「背が高くて、服もオシャレで、綺麗……薫さんと比べて、私は……」
そう落ち込んでいる奈都芽の目にふとあるものが飛びこんできた。
前方、三列前の席に白いものがある。
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