第9章 先生からの手紙③
藤田と共にオフィスに戻った奈都芽は午前中に金村から頼まれていた資料の作成を再開した。
斜め前にはあいかわらず無言で仕事をする南野が座っていた。
「そうか。それはちょっと厄介なことになったな」
南野から少し離れたところに座る金村が頭を掻きながら言った。
「まさかわたしもこんなことになるとは思ってませんで」
資料を手にした藤田がため息をついた。
深刻そうな表情を浮かべ、しばらく打ち合わせをしていた二人だったが、
「よし、今から荒井代表に報告にいこう」
と金村が言うと、二人は姿を消した。
入社後初めてのことだが、奈都芽は南野と二人になった。
だが、奈都芽はそのことをあまり気にすることはなかった。たとえ二人になったとしても、南野は誰とも話そうとしない(もちろん受付の薫は別として)からだった。
だが、しばらくすると、そう思っていた奈都芽に思いもよらぬ出来事が起こった。
「ねえ、川田さん」
斜め前の南野が声をかけたのだ。
声をかけられたにもかかわらず、奈都芽はすぐに返事をしなかった。まさか、あの南野が声をかけてくるはずはないと思ったからだった。『夢』のようなことが起こるわけない。
「あの、川田さん」
だが、もう一度声をかけられて奈都芽はようやく『現実』に目を向けた。
「ハイ。何でしょうか?」
平静を装っていたが、もちろん、心の中は嵐に巻き込まれた船のように大きく揺れていた。
「少し川田さんに聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
聞きたいこと? 奈都芽の頭の中を大量の『?(疑問符)』が飛び回っていた。
「川田さんて、あの伝説の弁護士といわれる『道上先生』の弟子だったんだよね?」
……そういえば……。
と、奈都芽は思った。このオフィスに来て以来、仕事に没頭し、誰とも話そうとしない南野だったが、『道上先生』の名前が出たときだけはいつも顔を上げていた。どうやら、南野は奈都芽から先生の話を聞きたいようだった。
「何か知りたいことがあるんですか?」奈都芽は聞いてみた。
「仕事をする上で先生が大切にしていたルーティンとかがあれば、教えてほしいな」
そう聞かれた奈都芽は必死に思い出してみた。だが、奈都芽の頭の中に浮かぶのはいつもニコニコしている先生の顔だけだった。
「エーッと……ニコニコしてました」
「に、にこにこ?」
意表を突かれたのか、南野はそう言うと楽しそうに笑い出した。
南野先生はこんなことを知りたかったわけじゃないんだ。問われたことと自分の答えがずれていることに気づいた奈都芽は必死に頭を動かしはじめた。
だが、どれだけ思い出そうとしても、何も思いつかなかった。
「すみません、南野先生。色々考えてみたんですけど、私が覚えていることといえば、仕事が終わった後で勉強を教えてもらったことと、『指を触る』癖ぐらいしかありません」
「癖?」
奈都芽は右手の人差し指を左手の親指の爪にのせる癖を説明した。「どうしてか理由はわからないんですけど、なぜか落ち着くんです」
説明を聞いた南野は真剣な表情を浮かべた。
「これが、あの『道上先生』の癖なのか」
そう言うと、南野は教えられたようにゆっくりと指を動かした。
左手の親指の爪で右手の人差し指の感触を確かめると、南野はゆっくりと目を閉じた。フーッと息を吐き、しばらくそのままでいた。そして、ゆっくりと目を開けた。南野が目を開けると、奈都芽はその瞳が美しいことに気づいた。南野が質問をつづけた。
「ねえ、そういえば、仕事が終わった後、勉強を教えてもらっていた話をしていたね?」
「先生が手取り、足取り教えくれました。南野先生とは違って、実は、私、勉強が苦手で」
「いや、川田さん。そんなことはないよ。実は、僕だって——」
南野がそう言いかけたところで、入り口の方から藤田の声が聞こえてきた。
「ただいま」
無事問題は解決したようで、藤田から少し遅れて帰ってきた金村の表情もどこか明るいものだった。
そんな二人の表情を見ながら、奈都芽はふと思った。
……さっき、南野先生は『僕だって——』って言ってたけど、あの続きは何だったんだろう? まあ、でも……とにかく、初めて、南野先生と話せてよかった。
その日の仕事を終えた奈都芽は更衣室に入り、ロッカーに置いていた参考書を手にすると部屋を出ようとした。だが、その時奈都芽の鞄の中から着信を知らせる音がした。
「え?」
奈都芽は視力の低下を疑った。驚いたことに、受付係の薫からのものだったからだ。
「ねえ、交換しましょうよ」
そう言われ、半ば強引に電話番号やSNSなど互いのすべての登録をすませてはいたが、これまで一度も連絡がくることはなかった。そんな薫から連絡が来ただけでも驚きなのに、その文の内容はさらに奈都芽を驚かせた。
『ナツメ、今日のお菓子の件は我ながら少し考えるところがあるの。ついては、今夜お食事でもどう? 場所は——』
相手があの薫であることからそれほど嬉しくはなかった。だが、
「陽ちゃん以外に食事に誘われるなんて、初めてかも」
予定表に予定というものがほとんど書かれていない奈都芽はそう思い直すと、薫に教えてもらったレストランに足早に向かった。
レストランは仕事場から歩いて十五分のところにあった。
薫が招待してくれたレストランはいかにも高そうなイタリアンの店だった。薫から送られてきた情報によると、それはフランスのタイヤメーカーから認定を受けている店ということだった。ギリシャ神殿のような白い壁が暗闇の中で仄かに光っていた。
エントランスに一人で立って待つ勇気がなかった奈都芽は、玄関から少し離れた植え込みに隠れるようにして薫が来るのを待っていた。待ち合わせの時間が五分ほど過ぎていた。
「どうしたんだろう、薫さん。なにかあったのかな?」
そう思い、スマホを見ようとした時に、玄関ホールの前に一台のタクシーが停まった。
ドアが開き、中から髪の長い女性が出てきた。ロイヤル・ブルーのスカーフが風になびいた。「あ、薫さんだ」
その姿を見た奈都芽は立ち上がり、玄関に向かって歩こうとした。だが、奈都芽の足はその場で止まってしまった。
「……」
薫の後からつづいて出てきた男の姿を見て、奈都芽は言葉を失った。男が料金を払ったようで、財布を内ポケットに直しながらタクシーの外に出た。
玄関ホールに現れたのは、奈都芽と待ち合わせをした薫だけではなかった。薫のそばには背の高い男が笑顔で立っていた。
「……南野先生……」
奈都芽は小さな声でそう呟いた。
南野は奈都芽に背を向けるようにして立っていた。その大きな背中から少しだけ薫の顔が出ていた。あたりはすっかり暗くなってしまっていたが、目ざとい薫はすぐに奈都芽の姿を見つけたようで、奈都芽と目を合わせた。だが、次の瞬間
「こんなオシャレな店、わたし、初めてです!」
薫はかん高い声を上げてそう言うと、南野の肩越しに奈都芽に向かってニヤリと微笑んだ。温もりを奪いさる冷たい目をしていた。その目は奈都芽に母のことを思い出させた。
「さあ、予約の時間ですよ。中に入りましょう」
そう言うと、南野は薫をエスコートするようにして中へと入っていった。
「ハイ!」
薫がひと際かわいらしい声で答えた。
転がるようにして、奈都芽は必死にその場から立ち去った。必死に走りながら、奈都芽はあることを思い出した。
「たしか……昼休み、南野先生が『ステキなレストラン』の話をしていたような気がする」
奈都芽ははずむ息を整えるために、見つけた公園のブランコに腰を下ろした。ようやく呼吸が整い、冷静さを取り戻してきた奈都芽の中にある考えが浮かんできた。
「もし、仮に、あのレストランが昼休みに二人で話していた店だとすると……そうか、薫さんにはめられたんだ……そもそも、私と二人でレストランで食事をする気なんてなかった。いえ、それどころか……今夜、約束していた南野先生とのデートの様子を見せつけたかったんだわ」
奈都芽の心の中で様々な感情がうごめいた。
薫さんから誘ってもらった、と真に受けた自分がバカのように思えた。
喜び勇んでやってきたレストランで、まんまと南野先生とのデートを見せつけられてしまった。その上、あの目。母そっくりの冷たい目が奈都芽の心にまるで刻印のように深く焼きつけられていた。
「うっ、うっ」
奈都芽の目から涙が溢れだした。何度も薫にいいようにやられる自分が情けない、と思ったからだった。公園の隅にある電灯がぼんやりと辺りを照らしていた。だが、その明かりが奈都芽を照らすことはなかった。
しばらく泣きつづけた奈都芽だが、ふと誰かが後ろで立っているような気配を感じた。
ぼんやりとした白いもの。たしかに、奈都芽はそれを見たように思った。
だが、真っ赤になった目で辺りを見回してみたが、どこにもそのようものはなかった。
何も見つからなかったが、おかげで泣きやむことはできた。
気がつくと、いつのまにか、奈都芽は先生の癖を真似していた。
右手の人差し指で左手の親指の感触を確かめていると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。
その時奈都芽はふとあることを思いついた。
「そうだ。先生の奥様からもらった手紙がある」
一通目は先生の妻からのものだったが、手紙が出てきたので送ります、といった簡素な文が書かれてあるだけだった。
「新しい事務所にはもう慣れましたか?」
二通目の先生からの手紙の一行目にはそう書かれていた。
自分の命が長くないこと、そして自らが亡くなった後は新しい事務所に移ることを準備していたことがその内容からわかった。文面に先生の思いやりや優しさが滲み出ていた。
さらに、読み進めると、荒井代表のことやこれからの勉強についてもこと細かく丁寧に書かれていた。そして、最後にこう記されていた。
「困った時は、新しい事務所(荒井君の事務所のことです)の近くに——」
読み終えた奈都芽はしばらく呆然とした。驚きのあまり、言葉が出てこなかった。
「……」
だが、次の瞬間すぐにスマホでその場所を検索し、そちらに向かって走り出した。
それは寺の一角にあった。朱色の門をくぐってすぐ右手に祀られているその名前を見て、奈都芽は頭が混乱した。
「——神社」
その神社の名前は、小さいころ父と二人でよく行っていた思い出のいっぱい詰まった神社と同じ名前だった。ということは、もちろん、陽ちゃんと二人でお参りに行っていた実家の近くの神社とも同じ名前だった。
「こんな偶然の一致ってあるのかしら?」
そう口にした奈都芽はハッと閃いた。
「コレって……本当に偶然なのかな?」
生まれてから今までのいくつかの『点』と『点』が少しずつつながり始めているような気がした。
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