第9章  先生からの手紙②

 甘えたような声を出すと、薫は南野の肩に手を置き、ネクタイを直した。

 アナウンサーというよりはアイドルのような甘い声だった。



「あ、ありがとう」


 ネクタイを直してもらった南野は少し照れた表情を見せた。毎日、同じ部署で斜め前で過ごしているはずなのに、一度も奈都芽が見たことのない表情だった。


 ……誰とも話さない南野先生が薫さんとあんなに楽しそうに……女性と話すことは滅多にない、って藤田さんが言ってたけど……。


 顔すら見られない南野が薫と話しているところを見てしまった奈都芽は動揺した。そして、奈都芽は改めて二人を見た。




 高身長で、スタイル抜群、服もオシャレでお似合いのカップル。




「……」南野が何かを話したようだが、奈都芽は聞き取れなかった。


「エ~! そんな素敵なレストラン知ってるんですか!」


 どうやらレストランの話のようで、薫の声のトーンが明らかに高くなった。




 いかにも楽しそうに話をしながら、二人はエレベーターに向かっていった。その後ろ姿を見ながら、奈都芽は身を伏せるようにして休憩室へと入っていった。中には誰もおらず、奈都芽はテーブルの上に荷物を載せ、椅子に座った。


 ……南野先生、仕事場の女の人と喋るんだ……でも、やっぱり、薫さんみたいに綺麗な女性じゃないと話をしてもらえないんだろうな……。




 二人の様子を思い返した奈都芽は大きなため息をついた。


 綺麗に磨かれた窓に奈都芽の姿がぼんやりと浮かんでいた。眼鏡をかけた奈都芽の髪はあいかわらずボサボサで、スーツはぶかぶかだった。後ろに誰かが隠れているかもしれない。薫さんの指摘はまんざら間違えてもいないかも。そう思った奈都芽は、自分の姿が映った窓から思わず目をそらした。




 休憩室に誰もいないことに油断したわけではないが、奈都芽の口から声が漏れた。


「ショックだな」


「何がよ」


「キャア」後ろから聞こえてきた冷たい声に奈都芽は驚き、声をあげた。南野とエレベーターに乗ったはずの薫がすぐ傍に立っていた。


「何がショックなの?」


 詰問するような口調で薫が言った。南野と話していた人と同一人物とは思えないほど冷めきった声で、これまた南野には決して見せない意地悪な表情を浮かべていた。


 質問に答えず黙っている奈都芽をしばらく見ていた薫がゆっくりとこう言った。


「隠してもだめよ、ナツメ。あなたさっきわたしが南野先生と話しているとこ、見てたでしょ?」


 盗み見たようで申し訳なく思った奈都芽は弱弱しく返事をした。「ええ、まあ」


 その答えを聞いた薫は奈都芽の顔を指さしながら言った。


「トイレに隠れていることに気がついていたのよ、実は。あの時、そっと隠れて見ているナツメの目を見てわかったわ。あなた、南野先生のことが好きなんでしょ?」


「……」


 その気持ちを言い当てられた奈都芽は何も答えることができなかった。心の内をすっかり見透かされた奈都芽にさらに薫が


「わたし知ってるのよ。あの誰とも話そうとしない南野先生と話せてうらやましいって、ナツメが思っていることを。あなたの顔にそう書いてあるもの」


 と、詰め寄った。




 何も言い返せず、奈都芽は下を向いてしまった。もうそっとして置いてほしい。心の中でそう思った奈都芽だったが、薫の棘のある声はそうはさせなかった。


「そして、わたしのことを嫌な女だと思っている」


 そう言われた奈都芽は急いで首を大きく振った。「いや、そんなこと——」


「でも、わたしが南野先生と話しているとこ、見てたでしょ? ナツメと二人で話すときとまったく違うあの姿を。言っておくけど、わたしはね、好きな男に振り向いてもらうためなら、何でもするのよ。そのためなら、これぐらいのこと平気なの」


 そう言うと、薫は奈都芽の目をじっと見つめながら、胸のボタンをいくつかはずし、前かがみになって奈都芽に見せた。




「まあ、ナツメのそのダブダブの服ではできないでしょうけどね」




 そう言うと、薫はゆっくりと体を起こし、深く開けていた胸元を元に戻した。


 獲物を狙う獣のような鋭い薫の目に、奈都芽はすっかり圧倒されてしまった。


 そんな奈都芽に追い打ちをかけるように、薫は不敵な笑みを浮かべながら何かを言おうとした。


「ねえ、ナツメ。よく覚えておきなさいよ。女っていうのはね、狙った男を手に入れ——」


「あら、川田さん。こんなところにいたの」


 薫の言葉を遮るように、ゆっくりと落ち着いた声が聞こえてきた。


 奈都芽が振り向くと、そこには藤田が立っていた。


「薫さん、今聞こえてきたんだけど、『ナツメ』って呼び捨てにするのはどうかと思うわ。川田さんの方が年上なのよ」藤田は毅然とした態度で言った。


「でも、わたしの方が先に入社していますから。上下のけじめは大切かと。そう思いません? 藤田


「へえ、まさか薫さんに『』なんて言われるとは。今日の業務報告書にはもちろん、家に帰って日記にもつけておこうかしら」藤田はそう言うと、薫の目をじっと睨んだ。


「まあ、藤田、少し冷静になって」なだめるような口調で薫が言った。「わたしはもう行くからどうぞ椅子に座って」


 そう言われた藤田は従うようにして、奈都芽の傍に座った。藤田が座ったのを確認した薫はその場を立ち去ろうとした。だが、


「アレ? それ何?」


 二人が座る席から離れようとした薫が何かに気づいたようで、指を差した。


 薫は机の上に置いた奈都芽の手提げバックの中身を見たようだった。


「綺麗な袋ね。どこで買ったの? この和菓子」


 陽ちゃんにもらった地元の銘菓を薫は目ざとく見つけたようだった。


 藤田も少し腰を上げ、中を覗いた。


「まー、川田さん。上品なお菓子ね」


「あ、ありがとうございます」


 そう答えると、奈都芽はそれが江戸時代からある地元で有名なお菓子であることを説明した。


「なーんだ。田舎のお菓子か」


 奈都芽の説明を聞いた薫が吐き捨てるように言った。


「ちょっと。やめなさいよ、その言い方。川田さんに失礼よ」藤田がすぐに反応した。


「だって、そうじゃない? ナツメの地元って地方の小さな町でしょ? そんなところで作ったお菓子なんて、どんな味かわかったもんじゃないわ。そんなの食べたくない」


「な、なんて口の聞き方よ」藤田の口調が強くなった。


「あら、気に障ったようね。ごめんあそばせ」


 そう謝られた藤田は少し冷静さを取り戻した。「もう、いいわよ」


「さて、そろそろ行こうかしら——」


 そう言ったにもかかわらす、薫の手が不意に動いた。


「でも、綺麗だから、ひとつだけいただくとするわ」


 薫は奈都芽のバッグの中にある和菓子に手を伸ばした。


「あっ!」


 思わず、奈都芽が声を出した。


 だが、薫がまさにお菓子を手にしようとしたその時、その手を追うように藤田の手が素早く伸びた。しかし、薫はさらに素早い動きで藤田の手から逃れた。


「危なかった。もうちょっとで叩かれるところだったわ」


 そう言うと、薫は得意の笑顔を見せ、さっさと部屋を出ていった。




「まったく……」


 部屋から出ていく薫の後ろ姿を見ながら、藤田が呆れるように言った。


「それにしても、藤田さん。早い手の動きでしたね」奈都芽が感心するように言った。


「意外でしょ? こんなおばちゃんが。実は、学生時代、百人一首で全国大会に出たことがあって。その癖がまだ抜けてないみたい。でも、薫さんの手は叩けなかったけどね」


「藤田さんも早かったですけど、薫さんも凄かったです」


「薫さんておじょうさんみたいで。学生時代、留学先のフランスでフェンシングをしてたそうよ。そうじゃなかったら、『お仕置き』をしてやれたんだけど」


 そう言うと、藤田は悔しそうな表情を浮かべた。

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