第9章 先生からの手紙①
シューという音を立てながら、電車が動き出した。
朝の通勤ラッシュ時だが、奇跡的に奈都芽は席に座ることができた。膝の上の黒い通勤鞄からテキストを取り出す。弁護士試験に向け、奈都芽は重要な法律の条文暗記を始めた。
「ガタン」
電車が大きく揺れる。
暗記をしようと集中していた奈都芽が思わず鞄を強く握りしめた。
「まあ、まあ、おじょうさん。そう怖い顔で睨まないでください。渡すのが遅れてしまいましたが、どうぞこれを」
一昨日、土曜の午後、ホテルで陽ちゃんがそう言って渡したのは地元で有名な「
「こんなのいらないわ」
その場ではそう強く拒否したものの、賞味期限があまり長くない好物のそれを部屋に置いてくることはできず、奈都芽はそっと鞄に入れてきてしまった。
「昼休みにでも食べよう」
そう思い持ってきた和菓子の『安否』を確認するために鞄の中を覗いてみた。
被害がないことにホッとした奈都芽だったが、そのすぐ横の白いものに目がいった。
「川田奈都芽様」
知人や友人がほとんどいないことから滅多にないことなのだが、正真正銘、それは奈都芽宛に届いた手紙だった。
差出人は亡くなった『道上先生』の妻だったが、奈都芽はまだそれを開けずにいた。電車に揺られながら、奈都芽はその白い封筒を手にした。
「どうしたんだろう、奥様。なにかあったのかな?」
葬儀以来、一度も会っていない先生の妻のことを奈都芽は思った。が、その時、封筒を手にしていた奈都芽の耳に規則正しい音が聞こえてきた。
「カチッ、カチッ」
陽ちゃんがくれた腕時計が奈都芽の背中を押した。
「まずい。時間がない。朝のノルマ分の暗記をしなくちゃ」
電車を降り、オフィスに向かう途中でも奈都芽は暗記をつづけた。
テキストこそ持たないが、頭の中にそれを浮かべ、口をモゴモゴ動かした。だが、すぐにその暗記を邪魔するように陽ちゃんとの会話が思い出された。
「母は私に弁護士を諦めさせたいの?」
そう問いつめられた陽ちゃんは、明らかに動揺していた。
どうやら、あの問いは何かしらの核心をついているに違いない。それにしてもなぜ母は私を弁護士にさせたくないんだろう? 有罪と考えている父を刑務所から出したくないからだろうか?
「だめ、だめ。勉強に集中しなきゃ」
そう切り替え、暗記を再開した。いつの間にかビルの入り口に着いた奈都芽はエレベーターのボタンを押した。
ようやく忘れられたと思った奈都芽だったが、すぐに母や陽ちゃんとの出来事について考えてしまった。
「そうか。こういうことかもしれない。もし、仮に私が弁護士となりお父さんの『冤罪』を証明したとしても、母はそんないわくつきの夫を『家元さま』と慕われて過ごしている今の生活に組み入れたくないんじゃないの?」
いや、待てよ。それだけじゃない。こういうことも考えられる。
「実はそのことを陽ちゃんにきつく言い含めている、とか。そして、それを陽ちゃんは私に隠している……」
奈都芽をのせたエレベーターがどんどん上昇した。
「チン」
という小さな音が鳴るとすぐに扉が開いた。開くと同時に、オフィスに向かって歩き出したが、奈都芽は自分に向けられたあの冷たい声を思い出した。
「やめれば」
そう言うと、母は一方的に電話を切った。先週の金曜日の母との会話を再現した奈都芽の心が激しくうねりをあげた。
「あいつ」
陽ちゃんに聞かれるとすぐに怒られる言葉を、奈都芽は心の中で呟いた。
鞄からスマホを取り出した奈都芽は母との通話履歴を消去しようとした。消去しようと画面を覗いたのだが、そこに冷めたい母の表情が浮かんできたように奈都芽には思えた。
着物姿のその顔を消そうと、ボタンを押そうとした時に、声が聞こえてきた。
「ストップ!」
ついさっきまで奈都芽は母より嫌な人がこの世にいるはずなんてないと思っていた。だが、その考えは彼女が登場するまでの話だった。あの金曜の夜のように二人が揃った。
「そこで、止まって。ナツメ」
白の上下のスーツにロイヤル・ブルーのスカーフを首に巻いた薫が冷たく言い放った。
……よりによって、朝から、薫さんか……。
口にこそ出さないが、奈都芽はがっかりした。
奈都芽の全身を舐めるようにして見た薫が首を傾げながら言った。
「このままだと、あなたオフィスには入れないわよ」
そう言われた奈都芽の頭の中で『?(はてな)』が点滅した。
「わかってるとは思うけど、関係者以外は立ち入り禁止なのよ。このオフィスは」
奈都芽の頭の中にさらにもうひとつ『?(はてな)』が増えた。
「実は、この前から言おうと思ってずっと我慢してたの。一週間も我慢したのよ。でも、もう今日がリミット、限界ね。あなたのその明らかにサイズの合っていないタブタブの服って、何人も人が入れそうじゃない? 本当にそこに誰も潜んでいないでしょうね?」
そう言うと、薫は底意地の悪そうな表情を浮かべた。露骨に服を悪く言われた奈都芽はさすがに反論しようとした。
「な、なによ——」
だが、それを押さえるように薫が畳みかけた。
「ほら、なんて言うんだっけ? 背中側に人が入って、前の人に熱いものを食べさせたりするやつ」
そう言うと、薫は高笑いをしながら歩いていった。
朝から嫌な気持ちになった奈都芽だったが、今週こそは、と意気込んでいた。
だが、そう気合を入れて臨んだ奈都芽だったが、先週同様、やはりミスを連発することになった。提出した書類を金村に優しく訂正され、「どんまい」と藤田に笑顔で励まされた。
あいかわらず斜め前に座る南野とは「おはようございます」と挨拶をしたきり、言葉を交わすことはなかった。とはいえ、もちろん奈都芽だけでなく、他の二人とも話さないのだから、特に南野に嫌われているわけではなさそうだった。
午前中落ち込んでばかりだったが、この日、奈都芽はある『大きな収穫』を得た。何度かミスを指摘されたあと、例のことを思い出した。
右手の人差し指を左手の親指の爪の上にゆっくりとのせる。
生前、『道上先生』がよくやっていたその癖をまねると、途端に気持ちが落ち着いてきた。もちろん一気にゼロというわけにはいかないが、明らかに凡ミスが減っていった。
……なぜか気持ちが落ち着く。なるほど、先生がよくこれをしていたのも納得……。
どうしてして今までしてこなかったんだろう? そう思いながら奈都芽は仕事に励んだ。
「ちょっとランチに行ってくるね」
昼休み、そう言うと、隣の藤田が席を立った。
陽ちゃんが大量に作り冷凍してくれているおかずをランチボックスに詰めて持ってきた奈都芽は机の上で食事をすませた。食事を終えた奈都芽はいつもオフィスに置いている小振りの手提げバッグに荷物を入れ、休憩室へと向かった。そこには自動販売機などが据えつけられており、白のテーブルや椅子が何組か置かれていた。
バッグには陽ちゃんからもらったお菓子があり、その他には朝ポストで見つけた先生の妻からの手紙と、参考書が入れてあった。お菓子は同じ部署で働く四人分を用意していたのだが、
「『そんな田舎のお菓子いらない』とかバカにされたら嫌だし」
と、考え一人でそっと食べることにした。
休憩室の入り口に近づくと、中から声が聞こえてきた。声は奈都芽の方に近づいてきた。その声を聞くと、奈都芽は咄嗟に斜め前の洗面室に入り、ドアの隙間から様子を伺った。
「ア~、曲がってますよ~」
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