第8章  新しきビルの中で起こる出来事③

 仕事を終え、どうにか部屋に着いた奈都芽だったが、ドアを閉めるとすぐにまるでフルマラソンを走り切った後のように玄関に倒れこんでしまった。


「最悪な一日。あんなに失敗するなんて……先生の所で仕事をしていた時と同じだ……」



 奈都芽は今日の仕事を振り返ってみたが、我ながらあまりに単純なミスの連続にすっかり自信を無くしてしまった。


「薫さんの言う通りかも。私みたいな偏差値の低い大学出身者では、あの事務所で仕事はできないのかもしれない」


 そう落ち込む奈都芽をどこかで見ていたかのように、着信音が鳴った。あまりのタイミングの良さに思わず奈都芽は驚いた。


「ご飯、食べました?」


 陽ちゃんの声は奈都芽を少しだけ元気にした。先生が亡くなって以来、悲しむ奈都芽を心配した陽ちゃんは毎日連絡をしてきた。




 同じ部署で働くことになった金村や藤田、南野の話をした奈都芽は今日やってしまったミスの話などをした。


 いつものように明るく喋る陽ちゃんだが、新しい事務所で上手く働けるかどうかを心配している。そのいつもと微妙に違う声の様子から奈都芽は陽ちゃんの心の内を察した。


「今週末、そちらに遊びに行きますので、気分転換にどこか美味しい店にでも」




 最後に奈都芽は陽ちゃんにあることを確認した。


「ねえ、陽ちゃん。こないだから何度も確認したと思うんだけど、ってちゃんと守ってくれてる?」


「あれ?」


「ほら、こないだも言ったと思うけど、まだ絶対に内緒に——」


「ドン!」奈都芽の言葉を遮るように陽ちゃんが胸を叩いた。


「大船に乗ったつもりで、ご安心ください!」






 それから数日間、奈都芽は新しい仕事場で必死に働いた。


 仕事を覚えようと懸命に働く奈都芽だったが、やはりあいかわらずミスが多かった。


 その都度、奈都芽は薫に言われたことを思い出した。


 ……やっぱり私みたいに無名の大学出身者ではムリなのかも。みんなにも『ミスばかりでできない人』とか思われているのかな……。


 だが、


「まあ、徐々に本領を発揮してくれればいいよ」


 ミスをする度に、金村弁護士は奈都芽をそう励ました。


「どんまい」


 優しく声をかけてくれる隣の藤田にも奈都芽は随分助けられた。


 初めこそ疑心暗鬼だったが、二人の表情からすると奈都芽のことを温かく見守ろうとする気持ちが伝わってきた。先生の事務所とまではいかないが、二人のおかげで奈都芽は徐々に居心地のよさを感じていた。




 だが、斜め前の南野だけは別だった。


 奈都芽がどんなにミスしようとも、一切目もくれず仕事に没頭していた。『道上先生』の名前が出たときだけ、例外的にその顔を少し上げるだけだった。




「おはよう」「おつかれさま」




 南野が口にするのはその言葉だけで、あとは誰とも口を聞くことはなかった。


 藤田によると、とりわけ女性と会話をすることは滅多にないそうで、長年同じ部署で働く藤田も仕事以外の話をすることはほとんどないとのことだった。




 ミスばかりの一週間をどうにか乗り切り、奈都芽は金曜日の夜を迎えていた。


 部屋でひとり食事をすませると、論述試験に向けてテキストを読むつもりだった。だが、何度も試みるが、やはり勉強には集中できなかった。


「……先生……」


 良き指導者であり、「おじいちゃん」と心の中で呼ぶほど親しみを抱いていた『道上先生』を失ったことから、奈都芽はまだ立ち直れずにいた。


 重くなってしまった気分を変えるように、奈都芽は先生のおかげで仕事につけたことに感謝をした。


 ……先生が荒井先生に頼んでくれてなかったら、私、仕事につけてないわ……。


 だが、そう思っていると、ふとこの一週間の仕事ぶりが思い出され、また暗い気持ちになってしまった。


「……それなのに、あんなにミスばかりして……」


 そう言うと、奈都芽は深いため息をついた。


 だが、その時、本棚の上に置いてある卓上カレンダーが奈都芽の目に飛びこんできた。


「そうだ、明日は陽ちゃんと会うんだ。美味しいものでも食べて気分転換しよう」


 陽ちゃんのことを思い出したのが功を奏したのか、奈都芽はようやく勉強に集中できるようになった。しかし、ようやく気持ちが乗りかけた時に、着信音が鳴った。




 画面の中の『』を見て、奈都芽は心臓が停まる、と思った。


 もちろん心臓は停まっていなかったが、その瞬間、確実に呼吸は止まっていた。




 出るかどうか悩んだ末、どうにか六回目のコールで緑のボタンを押した。




が決まったそうね」


 久しぶりとも、元気とも、こんばんは、とも言わず、突然、母がそう言った。


 何を答えたらいいかわからないまま、どうにか相槌だけは打った。「はい」


 そう答えた瞬間、奈都芽の頭が高速に回りだした。


 ……言っていないはずなのに、新しい事務所のことを……誰が母に?……。


 だが、すぐに答えは出た。奈都芽はある会話を思い出した。




「こないだも言ったと思うけど、私、母にあれこれ言われたくないのよ。だから、新しい事務所の仕事が落ち着いて、弁護士試験の勉強が軌道に乗るまでは絶対に言わないで。ね?」




 その会話の相手がだった。




 ……まったく、陽ちゃんは……あれほどのことは母には内緒だと口止めしておいたのに……。




 しばらく重い沈黙がつづいたが、母が口を開いた。


「で、どうなの? 新しい法律事務所は?」


 あいかわらず冷たい口調だった。そんなはずはないのだが、あまりにも雰囲気が似ているため、画面に出ている名前が『受付係の薫』でないことを、奈都芽は思わず確認した。




 どう答えるか迷ったが、奈都芽は正直に話をした。


 ウソをつくな。父のその教えを守るように、奈都芽は馬鹿正直に入社後の働きぶり(ミスが多い働きぶり)や弁護士試験に手を焼いていることを話した。


 奈都芽が話す間、何も言わず聞いていた母が突然言い放った。







 そして、突然、電話が切れた。


 しばらく奈都芽は画面を呆然と見つめていた。


 画面の中に着物姿の母とロイヤル・ブルーのスカーフを巻いた薫が二人で並んでいるように奈都芽の目には映った。


 その残像をかき消すように頭を強く振った奈都芽はふと母との会話を思い返した。


「やめればって、なにをだろう?」






 次の日、土曜日の午後、待ち合わせをしていたホテルのカフェで奈都芽は陽ちゃんと会った。


「このホテルのケーキバイキングは最高です!」


 そう言うと、陽ちゃんは一気に三個のケーキを平らげた。


 皿の上に乗った四個目のケーキに手をつけようとした陽ちゃんがようやく『異変』に気づいた。


「どこか具合でも悪いんですか?」不安げな声だった。


 そう声をかけられた奈都芽だが、しばらくテーブルの向こうの陽ちゃんをじっと睨んでいた。


「そんな怖い目で見て。問題でもございましたか?」


「どうして、母に言ったの?」


 そう聞かれた陽ちゃんの顔色が変わった。しらを切ろうとしたが、すぐに観念した。




「『絶対、娘には言わないから』と家元さまはおっしゃっていたのですが」


「約束がちがうじゃない。絶対、母には内緒って言ったじゃない」


「は、はあ……でも、よく考えてください。おじょうさんのことを知りたいと思っているのですから、やはり家元さまは『おじょうさんの幸せ』を願っているのですよ」


「なにが『おじょうさんの幸せ』よ。昨日なんて散々人にしゃべらせておいて『やめれば』、って電話切っていったのよ」


「え? 家元さまが『やめれば』と?」


「そうよ。いったいなにを『やめれば』いいのかわからないんだけど」


「そ、そうですか……」そう言うと、陽ちゃんは明らかに奈都芽の目から視線を外した。


 奈都芽はその表情を見逃さなかった。


「陽ちゃん、もしかして、母がなにをやめさせたいか知ってるんじゃないの? それって、新しい事務所のこと?」


「そ、それは……」


「ねえ、もしかして……」


 そこまで言うと、奈都芽の中である考えが浮かんだ。


「母はもしかして、私に弁護士を諦めさせたいんじゃないの?」




 ……間違いない。母は私を弁護士の道から遠ざけようとしている。それは、やはり……有罪と考えている父を助けるのを辞めさせたいからなのだろうか?


 でも……それ以外にも、なにかが?……。




 結局、その問いに陽ちゃんが答えることはなかった。


「そうだ。まだ食べていないケーキがあったわ」


 いかにもわざとらしい言い方をすると、陽ちゃんは急いで席を立った。




 陽ちゃんは何かを知っている。


 私に言うことができない『』を握っている。


 いったい、陽ちゃんは私に何を隠しているんだろう? 

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