第8章 新しきビルの中で起こる出来事②
「弁護士法人荒井パートナー法律事務所の荒井です。よろしく」
藤田の案内で部屋に入ると、奈都芽に連絡をしてきた『荒井』が挨拶をした。
「すごい人数ですね?」奈都芽はガラスの向こうをきょろきょろ見ながら言った。
「四百名を超えるような日本の五大法律事務所と比べるとそれほどでもないかな。全部で弁護士が約二百名程度だよ」
そう言いながら、荒井はガラスの向こうで忙しそうに働く人たちを横目で見た。それから、荒井はホッとした口調で奈都芽にこう言った。
「いやあ、それにしてもよく来てくれたね、川田さん。本当によかった。君が事務所に来てくれなかったらどうしようかと悩んでいたんだよ」
「悩んでいた?」
「なんとていってもあの『道上先生』から直々に頼まれたんだから。僕としては、あの偉大な先輩から依頼を受けただけで、もう光栄で」
それを聞いた奈都芽はビクッとした。
まだ先生との別れから立ち直れていない奈都芽はその名前を聞くだけで、悲しい気持ちになってしまった。だが、すぐに心が温かくなるのを感じた。先生は亡くなる前に私の為に次の仕事を探してくれていたんだ。
しかし、そう思ったのも束の間、ある疑問が湧き、質問をした。
「あの、お二人はどういった関係なんですか?」
「『道上先生』は、——大学の大先輩」
誰もが知っている日本で一番偏差値が高い大学。『道上先生』って、超エリートだったんだ。奈都芽はこの時、初めてそのことを知った。
「それに僕の若手時代の直属の上司でもある。以前の先生は日本で一番大きな弁護士事務所の大エースだったんだよ」
しかも、大エース。私、もう少しで『おじいちゃん』って呼ぶとこだった。
「今の僕があるのは、『道上先生』の指導があってのことだから。たとえどんなに些細なことでもいいから恩返しをしたい。だから、喜んで君を事務所に受け入れようと思ってね」
そう言われた奈都芽は、突然、不安に襲われた。
改めてオフィスの外を見る。いかにも仕事のできそうな弁護士らしき男女が忙しそうに動き回っている。
「そんな大学しか出ていない人がこのハイレベルな事務所で仕事ができるのかしら?」
もちろんそう言われた時は腹が立ったが、冷静になってみると受付係の薫の発言が正しいことのように思われた。
たしかに薫さんの言う通りなのかもしれない。たぶん、みんな私とは比べ物にならない優秀な大学を出ているに違いない。
「あの、荒井先生……私……こんなすごい事務所で働いていけるかどうか自信がなくなってきました……」
それを聞いた荒井は、ぽんぽんと奈都芽の肩を軽く叩いた。
「そんなに謙遜しなくてもいいよ。なんといっても君はあの『道上先生』が見込んだ最後の弟子だよ。あの弟子を滅多に取らない先生が太鼓判を押したようなものだよ」
そう言うと、荒井は満足そうに笑った。
いえ、実は、私は仕事が……それだけじゃなくて、大学もたいしたところを出てないし、その上勉強もあまりできなくて……。そのことを言えなかった奈都芽は部屋を出た後、不安でいっぱいになった。
代表である荒井の部屋から出ると、外には藤田が立っていた。
藤田の誘導で、奈都芽は所属先の部署へと案内をされた。部屋に入り、周囲より大きな机の前まで来たところで、
「金村先生、すみません。少し、お時間よろしいですか?」
と、藤田が男に声をかけた。
年は五十代半ば、銀縁の眼鏡をかけ、いかにも頭のよさそうな顔をしていた。紺色のどこの量販店にでも売っていそうなスーツを着ており、少しだけお腹が出ていた。
「先生、こちらが、今度この部署に配属されることになった川田奈都芽さんです」
そう紹介された奈都芽は反射的に相手の顔も見ずに素早く頭を下げた。
「この部署を統括している弁護士の金村です。あなたが、川田さんですか。荒井代表から話は聞いてますよ。あの伝説の弁護士といわれた『道上先生』——」
また、先生の名前を聞いただけで心がざわついた。しかし、すぐに冷静になろうとした。いま、たしか伝説の弁護士って……。奈都芽は改めて先生の偉大さを感じた。だが、次の瞬間耳を疑う言葉が飛びこんできた。
「『道上先生』の最後の弟子で、とても優秀な方だと」
ゆ、優秀? 体中にイヤな汗が流れるのを奈都芽は感じた。
「そ、そんな、優秀だなんて——」
慌てて、奈都芽がそのことを否定しようとしたところで、金村が言った。
「それと、あちらに座っているのが、弁護士の
金村の声が聞こえたのか、男はすっと席を立った。
「弁護士の
「……」
本来、奈都芽は「よろしくお願いいたします」とすぐに挨拶すべきだった。
だが、奈都芽の口からは言葉が上手く出てこなかった。机の向こうに立つその男の姿が、あまりに眩しすぎたからだった。
奈都芽に軽く頭を下げたその男は見上げるほど背が高く、髪がサラサラで、雑誌に出てきそうなほど見事にスーツを着こなしていた。
「弁護士というより……俳優か、モデルみたい」
学生時代、いや社会人になってからも、ほとんど男性と話をしたことのない奈都芽は、我を忘れてしまった。しばらく口を開けたまま呆然としていた奈都芽を不審に思った藤田が声をかけた。
「どうしたの、川田さん? 南野先生に挨拶を」
そう言われて、ようやく奈都芽は口を開いた。
「か、川田奈都芽といいます。よ、よろしくお願いします」
どもりながらもどうにか挨拶をした奈都芽だったが、すぐに俯いてしまった。とても相手の顔を見られる心理状態ではなかった。
学生時代、私と最も遠いところに住んでいた人。
友達がおらず、常に、ひとりで読書ばかりして過ごしていた自分とは住む世界が違う。
奈都芽は少しだけ顔を上げて、南野の胸のあたりを見た。
金色のバッジが見えた。ひまわりの花びらの中で、公正さを保つように天秤がバランスを完璧に維持していた。それは長年、奈都芽が憧れるバッジだった。
「仕事の初日で、いきなりで悪いんだけど——」
後ろの方から聞こえてきた金村の声で、奈都芽は我に返った。
「ここに書いてある書類を作ってくれないかな?」
そう言いながら、金村は一枚の紙を差し出した。
奈都芽がそれを受け取ると、金村は笑顔でこう言った。
「なんだかこちらの方が緊張しちゃうな。あの『道上先生』のお弟子さんに頼むなんて」
斜め前に座る南野を見ることすらできない奈都芽は依頼された書類を作成した。
『道上先生』という名前が出る度に、金村も隣に座る藤田も、そして斜め前に座る南野も顔つきが変わることに奈都芽は気づいた。そこに敬意の眼差しがあることに気づいたのだ。先生の顔に泥を塗るわけにはいかない。そう思いながら集中した奈都芽だったが、書類を確認した金村は困惑の表情を浮かべた。
「す、すみません! すぐに訂正します!」
奈都芽がそう言うと、金村が優しい笑顔を見せた。
隣の席の藤田も「どんまい」というように目を合わせ、小さな笑顔を見せた。
……こんなミスをして、本当は二人にどう思われているんだろう?……。
二人は決して責めているようには見えなかったが、奈都芽は不安でしょうがなかった。
二人以上に気になるのが斜め前の南野だった。
どう思われているか心配だったが、南野は自らの仕事に没頭しているようで、奈都芽のことを気にしている様子はまったくなかった。南野が顔を上げるのは『道上先生』の名前が出たときだけだった。
気持ちを入れ直して作業に取りかかった奈都芽だったが、もう一度書類を手にした金村にすぐに訂正を求められた。「ゆっくり直してくれればいいよ」
金村に優しく声をかけられた奈都芽だったが、その後も同じようなミスがつづいた。
最後は隣に座った藤田が「よかったら手伝いましょうか」と手を貸してくれた。
それで、ようやく書類が完成した。
日が沈み赤く染まりかけていた西の空がもうすでに真っ暗になっていた。
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