第8章 新しきビルの中で起こる出来事①
先生を失った奈都芽は抜け殻のような日々を送っていた。
一日に何度もその姿を思い出しては涙を流した。悲しさのあまり、まる一日何も食べない日があるほどだった。
先生という強い味方がいなくなってしまった奈都芽は、自分ひとりの力で弁護士になれるとは到底思うことができなくなっていた。
さらに、それ以外にも問題があった。次の事務所が決まらないのだ。
元来、友人がほとんどおらず、その上とうてい積極的とは言えない奈都芽にとってこの大都会で次の法律事務所を探すことは困難に思えた。砂漠のど真ん中で黄土色の小さなボタンを探すぐらい困難に思えた。
「ふー」
通帳を手にした奈都芽は深いため息をついた。「どんどん、残高が減っていく」
マイナス思考に陥った時の奈都芽ほどマイナス思考な人間はそうはいない。
「このまま仕事が見つからず、貯金を崩しながら生活しなくてはいけなくなったらどうしよう。そのうちお金が底をつき、電気とガスが止められ、家賃は滞納。最終的にはマンションを出ていけと言われて……そして、ついに、公園で野垂れ死に」
一度動き出した奈都芽の妄想のエンジンを止めることはできないように思えた。だが、その時、突然、着信音が鳴った。まさに『死体のように』力なく床に寝ころんでいた奈都芽は慌てて跳び起きた。
「川田奈都芽さんでしょうか? 私、弁護士をしております『荒井』と申します。突然のお電話申し訳ございません。早速ですが、『道上先生』の方から——」
道上先生? 奈都芽は、一瞬、誰のことかわからなかった。だが、すぐに、もちろん、それがお世話になったあの弁護士の先生の名前であることを思い出した。
思わず奈都芽は空を見上げた。
赤で塗られたタワーのすぐ近くにあるその高層ビルは、それでなくても高い周りのビルからさらに頭ひとつ飛び抜けていた。キラキラと窓が輝き、人の出入りが激しいそのビルは先生の三階建てのそれとはまったく違うものだった。
「こんな場違いなところに来てはダメ」
そう何度も引き返そうとした。先生のオフィスは一階にあったから大丈夫だったが、今回はそうはいかない。高所恐怖症の奈都芽は足がすくむのを感じた。だが、その都度先生の優しい笑顔が思い出され、結局、奈都芽は勇気を振り絞り、ビルへと入っていった。
エレベーターの前で左手にした時計で時刻を確認する。
約束の時間まであと十分。陽ちゃんがくれた時計の長針が大柄なピエロの顔を差していた。そのふっくらした顔つきは奈都芽の緊張を少し和らげた。
エレベーターのドアが開き、左手に見えたオフィスに向かって歩いていると声が聞こえてきた。
「どちらさまでしょうか?」
受付の女性はまるでアナウンサーのような綺麗な声だった。良いのは声だけでなく、マナー講師になれそうなくらい口角の上がった素晴らしい笑顔を見せていた。
奈都芽はすぐに名前を答えた。
「
「いえ、クライアントじゃなくて、ここで働くことになったもので——」
そう奈都芽が言いかけた途端、先ほどと同じ人物とは思えない声を出してこう言った。
「あ~、さっき内線で聞いたわ。あなたなのね。今日から働く『助手』って」
一転、冷たく事務的な口調になった女性の顔からは、すっかり笑顔が消えていた。その豹変ぶりに奈都芽は言葉を失った。驚かされたのはそれだけではなかった。
『助手』という言葉を口にした女性は、チラリと横目で奈都芽を見ると、あからさまに目をそらしたのだ。
その表情は奈都芽に何かを思い出させた。
……この人の今の目つき……人を見下すような……これって、どこかで見たことが……。
奈都芽の頭の中にある人の目がぼんやりと浮かんできた。その映像が鮮明になった時、奈都芽の気持ちは一気に暗くなった。
……母そっくり……。
よりによって、同じ職場に母みたいな人がいるなんて。
だが、さらに奈都芽の気持ちを暗くさせることが起こった。
「ナツメでいいわね?」
ナツメ? 会って数分、初対面でいきなり呼び捨てされたことに奈都芽は驚いた。女はどう見ても大学を出たばかり、二十五より上には見えない。明らかに奈都芽より若い。
「……えっと……」
動揺した奈都芽がなにかを言おうとした。だが、そんな奈都芽の言葉を遮るように受付係の女性が言った。
「ここでは、わたしの方が先輩だから。そう呼ばせてもらうわ。わからないことがあったら、聞いて。指導してあげる」
年下の初対面の相手に呼び捨てにされムッとした奈都芽だったが、そう言われると確かにこの女性の方が先輩だな、と納得をしてしまった。
「受付係の
そう言いながら、その女性が自分の胸のあたりの名札を指さした。
指した右手が抜かりなく手入れされており、心なしか冷たく光っているように奈都芽には見えた。その冷たい輝きに目を奪われていたのだが、突然、その名札を差していた指がまっすぐに奈都芽の顔に向けられた。
「ねえ、ナツメって、どこの大学?」
畳みかけるように薫が奈都芽に尋ねた。
指を差され、大学名を聞かれた奈都芽は答える気にはなれなかった。
呼び捨てにされるのは百歩譲って許したとしても、会って数分の相手に大学名を言う必要はない。薫から目をそらすと、奈都芽はこの場を去ろうとした。
「待ちなさいよ」
そう言うと、カウンターの向こうの薫がその場で席を立った。その姿を見た奈都芽は思わず息をのんだ。
まるでモデルのようにすらりと背が高く、手足も長い。白の上下のスーツで、ピタッと吸いつくような短めのスカートが目につく。肩の下まである髪は文句のつけようのないストレートで、首には空を飛ぶⅭAのようなロイヤル・ブルーのスカーフが巻かれていた。
一方、奈都芽はあいかわらず髪はボサボサで、メガネをかけ、明らかにサイズの合っていないぶかぶかのスーツ(もちろん陽ちゃんが用意したものだ)を着ている。
奈都芽がその姿に引け目を感じていると、まるで試験官のように薫がもう一度聞いた。
「で、どこ? 大学」
薫のロイヤル・ブルーのスカーフが目についた。
言いたくはなかったが、威圧的な薫の態度に押しつぶされるようにして奈都芽は小さな声で答えた。
大学名を聞いた薫は冷たい声でこう言った。
「そんな大学しか出ていない人がこのハイレベルな事務所で仕事ができるのかしら?」
そう言われた奈都芽は頭が真っ白になった。ここまであからさまに学歴を馬鹿にされたことがなかったからだ。
「ど、どうしてあなたにそんなことを——」
思わず奈都芽がそう反論しようとしたところで、薫がストップとでもいうように奈都芽の前に右手を出し、受話器を取った。
「ハイ、了解しました。すぐ、そちらに向かいます」
初めに聞いたアナウンサーのような声が戻っていた。
相手が目の前にいないのにもかかわらず、例のマナー講師のような笑顔も戻っていた。どうやら内線のようで、電話を切った薫は奈都芽のことなど一切見ずにどこかに行ってしまった。
走り去る薫の姿を呆然と見ていると、後ろの方から別の女性の声がした。
「川田さん?」
振り返ると、グレーのスーツを着た女性が立っていた。奈都芽より少しだけ背が高い、四十代半ばの女性だった。
「藤田です。よろしく」
そう挨拶をした藤田は奈都芽を先導するように歩き出した。
「それにしても、さっきのはちょっとどうかと思うわね」
「さっきの?」
「ほら、あの受付の薫さんとの会話よ。ごめんなさいね、初日から嫌な思いさせちゃって。川田さんを迎えに来てたのに、受付のすぐ近くでスマホに電話がかかってきて。二人のやり取りは聞いていたんだけど、相手がクライアントで切れずに助けることができなかったの」
「いえ、助けるなんて」
「いきなり呼び捨ては失礼よ。あの人『ナツメ』って呼んでたわよね」
「ええ、まあ……でも、たしかに薫さんの方が先輩ですから」
「そうかもしれないけど、年齢は川田さんの方が上よ。それに先輩といっても、薫さんはまだ三ヶ月しか勤めてないのよ」
まるで自分のことのように藤田は不快な表情を浮かべた。
「それに、あの人、川田さんの出身大学を聞いてたでしょ? 初対面の人にそんなこと聞くなんて、本当に最低ね」
「その……あの……仲良くなろうとしてくれているのかな、って」
「それは違うわ。あの人、川田さんが『助手』として採用されると聞いて、態度を決めたのよ。私も『助手』だからわかるの。いつも、私のことも見下したような目で見てくるのよ。弁護士の先生に接するときとまったく違うから」
それを聞いた奈都芽は先ほどの薫の目を思い出した。たしかに、あの目は人を上から見下している。
そう、まるで母がそうしているように。
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