第7章 《黒魔術》迷いし者に課された使命①
支配人である黒江が電話を切り、ホテルから庭に戻ってきたとき、ウサギはまだ先ほどのイチゴの手前で浮いていた。『ご主人様』から白ウサギに下された『処罰』を聞かされた黒江の手には黒い鞄のようなものがあった。
石のように固まったウサギは、あいかわらず『ご主人様』のイチゴの数ミリ手前の空中で、ピタリと止まっていた。庭に入ってきたときには黒だったはずのウサギは全身真っ白になっていた。ただ、鼻の先だけが、例外的に黒であることを許されたようで黒かった。
すべての黒という黒を奪われた(鼻だけは別として)白ウサギのすぐそばに立った黒江は語りかけた。
「『黒』を奪われてしまったのですね」
そう言うと、黒江は深いため息をついた。そして、さらにつづけた。
「まったく、なにを考えているのですか? あなたは……このイチゴはわたくしが『ご主人様』のために丹精込めて育ててきたものですよ。カバラ様以外の者が口にすることが許されるわけが——」
そう言いかけた黒江は、何かを思い出したように黙りこんでしまった。しばらく白になってしまったウサギを見ていたが、タキシード姿の黒江はホテルの方に向かい、深々と頭を下げた。
——カバラ様、このホテルはあなたのすべて。あなたのすべてがこのホテル。
落ち度など、許されるはずがないのです——
心の中でそう呟いた黒江は、手に持っていた黒い鞄をウサギに見せるように顔の前に上げた。
「早速ですが、カバラ様から言いつけられた仕事に取りかかるとしましょうか。この庭に迷いし者、あなたに課された使命ですが……」
そう言いながら、黒江が手にした鞄を開けると、音を立てることもなく、スルスルと一枚の紙が空中に浮かんだ。
そして、次の瞬間、その浮かんだ紙がゆらゆらとウサギの手のすぐそばに近づいてきた。
「さて、まずはこの契約書にサインをしてもらわなくてはなりません」
そう言うと、黒江は空中で止まった白いウサギの手を契約書に押しつけた。
ウサギの手が紙から離れた時には、まるで拇印ぼいんをしたように、はっきりとウサギの手の跡が紙に記されていた。紙には黒い手の跡が残されていたが、不思議なことに、ウサギの手は白のままだった。
黒江が手にした契約書の内容を確認し、それを鞄に直したとたん、空中で固まっていたウサギの体がゆっくりと地面に落ちてきた。緑の芝生に寝ころんだ白いウサギを見ながら、黒江が言った。
「残念ながら、もう引き返すことはできませんよ。とはいえ、それもしょうがありません。なんといっても、あなたは『ご主人様』の大切なイチゴを奪おうとしたのですから。しかも、ウソをついて……しかし……たった一度のウソをついたばかりにね」
そう言うと、黒江はウサギの頭や顔、そして全身を優しく撫でた。
「気の毒ではありますが、この過ちは償ってもらわなくてはなりません。あなたは、このホテルで働かなくてはいけなくなりました。ついては、このホテルのオーナーである『カバラ様』からあなたに『名前』と『仕事』が与えられました」
黒江が撫でてきた甲斐があったのか、意識を取り戻すようにして、ウサギがゆっくりと目を開けた。その目を覗きこむようにして、黒江が言った。
「今日から、あなたの『名前』は『ラパン』です。そして、あなたに課せられた『仕事』は『このホテルの時間を管理すること』です」
そう言うと、黒江は黒い鞄から何かを取り出した。そして、それを白ウサギの首に巻きつけた。カチッ、カチッ、カチッ、という規則正しい音がした。
「この白い首輪に小さな時計が埋め込まれています。あなたは今日からこの時計とともにこのホテル・ソルスィエールの『時とき』を管理するのです。それがあなたに課された使命です」
こわばっていた白ウサギの体にようやく温もりが戻ってきた。微かではあるが、吐息が聞こえてきた。胸の中に抱かかえるようにして黒江はウサギを抱きかかえた。小刻みに震えるその小さな体を優しく撫でながら黒江は言った。
「……しかし……今、思えば……わたくしも、あなたと同じように『迷いし者』だったのかもしれません——」
黒江はわが身に起こった過去のある出来事を、すっかり白くなってしまったウサギに語りはじめた。
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