第6章  飛び立つ奈都芽・開きかけた夢への扉③

「え?」


 ……先生……もしかしてこれってセクハラ? でも、先生はそんな方じゃないし……だけど、私も一応、年頃の女だし……。




 そう考えた奈都芽は咄嗟に箸を置き、胸を隠すように両手でそれを覆った。


 そんな奈都芽の仕草など目もくれないようにして先生は




「座る姿勢が美しい」




 と、感心するように言った。


 取り越し苦労に終わった奈都芽は胸から両手を降ろした。




「失礼ですが、奈都芽さん。お家うちはどんなことをされておるのですか?」


 奈都芽は実家の説明をした。母が江戸時代から続く茶道の家元であることを話した。


「それは、それは。立派な家柄ですね」


「いいえ、たいしたことはありません。所詮、田舎の茶道の先生です」


「何を言ってるんですか、奈都芽さん。もっと自信を持ってください。それだけ長く続いているのは、ご先祖様が苦労を重ねてきた証です。立派ですよ」


 そう言うと先生は思い出したように言った。「そうだ。ところで、奈都芽さん——」


 何を言いだすのだろう? 奈都芽はその先の言葉を待った。


「今日、仕事が終わってから、何か予定はありますか?」


 念のため、ぱらぱらとめくってみた。


 だが、あいかわらず奈都芽の予定表に予定という文字はなかった。


「そうですか。では、少し試験に向けた勉強でもやってみませんか?」






 夕方、その日の仕事を終えると、先生は奈都芽を応接室に招き入れた。


 奈都芽が席に座ろうとしていると、退社の時刻が来たようで、応接室の扉がそっと開いた。寡黙な事務員が頭を下げ、黙って出ていった。


 二人になった応接室で、先生はニコニコしながら


「では、奈都芽さん。ここからここまで、十問解いてみてください」


 と言った。


 解き終えると、先生が答え合わせをしてくれた。だが、机の向こうの先生の赤のペンが『〇』の動きを見せることは一度もなかった。


 できることなら大型のドリルで掘った深い穴に逃げこみたかった。奈都芽は顔が真っ赤になっていくのを感じた。




「なるほど。わかりましたよ、奈都芽さん。点数が取れない原因が」


「わ、私、バカなんです」


 それを聞いた先生は首を大きく振った。


「いけませんよ、奈都芽さん。そんなに自分を責めては。よく聞いてくださいね。あなたは決して馬鹿なんかじゃありません」


「で、でも、わ、私……子供のころから勉強なんかほとんどしたことがないし」


「ほほほ。そうですか。でも、大丈夫。『


 そう言われても納得ができない奈都芽に、先生はいつもより優しい口調でつづけた。


「あれば越したことがありませんが、『経験』がなくてもなんとかなります。逆にいうと、これまでの『経験』があるからといって、うまくいくとは限りません。なにせ、『』ですから。今日と同じ朝は二度とやってこないのですから」





 その次の日から毎晩、事務員さんが黙って礼をして退社した後、先生は授業をしてくれることになった。


すじはいいんですよ、奈都芽さんは。基礎ができてないだけですから」


 先生は中学からの学び直しを提案した。


 英、国、数、理、社。参考書を使って、わかりやすい授業をした。


 温かみのあるその授業は奈都芽をまるで父と過ごしているような気持ちにさせた。


「東京のお父さん……いや、おじいちゃんみたい」


 授業が終わり、その日の復習や宿題をするとき、奈都芽はよくそう思った。


 ひと通り基礎力がついたところで、先生は弁護士の勉強へと奈都芽を導いた。






 授業を受け始めた当初こそ成績はほとんど変わらなかったが、先生の授業が進むにつれ、数ヶ月に一度受ける模試の成績がどんどんよくなっていった。


「奇跡だ」と奈都芽が言うと、先生はすぐに答えた。


「いいえ、元から『』があったんですよ。奈都芽さんの中に」


 先生との勉強が始まった年の受験の結果は、残念ながら、不合格となってしまった。


 だが、勉強のコツを掴んだ奈都芽は猛烈に勉強をし、奇跡的な成長カーブを描いた。そして翌年、奈都芽は一次試験に当たる短答式の試験に合格をした。




「合格おめでとうございます」


 事務所の応接室でソファに座った先生は合格証を手に喜んでくれた。


 先生の向かいに座る奈都芽は合格できたことがまだ信じられないでいた。ささやかな祝賀会を先生が開き、普段すぐに帰る事務員も一人だけ『立食パーティー』の形式(先生がどれだけ座ることを提案しても拒否された)で参加をした。


「さて、いよいよ次は論文試験です。読書が好きな奈都芽さんの本領発揮ですよ!」


 そう言うと、先生が乾杯の音頭をとり、パーティーが始まった。


「今日だけは勉強を休みましょう。でも、明日からはどんどん勉強を進めて行きますよ!」


 楽しい宴は夜遅くまでつづいた。






 だが、その次の日から数日間行われた後、奈都芽は先生の授業を受けることができなくなってしまった。


 ある朝、仕事場に行くと、いつものように年老いた事務員が先に来ていた。先生はいつものようにゆっくりと出社する予定だった。奈都芽が今日の予定を確認しているときに、電話が鳴った。


「——」


 向こうの部屋で電話を取った事務員が、何かを話していた。


 電話を切った事務員が奈都芽の部屋にやってきた。そして、この事務所に来て初めて、奈都芽は声をかけられた。


「もう、手遅れだそうです」


 少しして奈都芽はあることに気がついた。年老いた事務員の目から涙が出ていた。




 先生は心臓の状態が悪化し、病院に担ぎ込まれていた。


 聞いたところによると、心臓に持病を抱えていたとのことだった。危険な状態のため、面会謝絶となっていた。ひと目でいいから会いたい。奈都芽はそう願った。


 だが、知らせを受けてから数日後、先生は帰らぬ人となった。




 病院から自宅に戻ってきたことを聞き、奈都芽はそちらに向かった。先生の妻が涙ながらに言った。


「お医者さんに、『オーバーワークが原因では?』と言われました。その話を聞いたとき、それはないんじゃないか、とわたしは思いました。ここ数年、検診の度に注意を受け、そうならないように仕事をセーブしていましたから。朝も負担がかからないようにゆっくりと出社してました……だけど、よく考えてみると、ここ最近家に帰ってくるのが遅かったような気もして。やっぱり、働きすぎたのかしら」


 その話を聞いた奈都芽は心を痛めた。


「先生は出社時刻を遅くして働かないようにしていたんだ……それなのに、私に勉強を教えるためにムリをして……あれだけの授業をしてくれたんだもの。もしかしたら、家に帰って来てからも遅くまで準備をしてくれていたのかもしれない……そして、それが原因で——」


 自分の受験のために、『大切な人』の命が。


 そう考えたとたん、奈都芽の目から涙が溢れ出した。






 出棺の日、死ぬ間際に心臓をかきむしるようにして苦しんだはずの先生は棺ひつぎの中でいつものようにニッコリと微笑んでいた。


 白のタキシード姿にサスペンダーでズボンを吊るした先生は、茶色のステッキを手に持ち、白のハットを被っていた。そして、いつもそうしていたように右手の人差し指を左親指の爪の上に置いていた。それを見た奈都芽はいつものように温かい気持ちになった。







 本人には言わなかったが、奈都芽にとって先生は肉親のようなものだった。


「私の目の前から、お父さんにつづき、『おじいちゃん』までいなくなってしまった」


 一心同体、マンツーマンで指導してくれた先生を失ったことに、奈都芽は途方に暮れた。


 また、あることにも不安を抱かざるを得なかった。


「先生がいなくなった今、弁護士になって父を救うことはもう無理なのではないだろうか?」






 先生という強力な支援者のおかげで開こうとしていた奈都芽の扉が、今まさに不吉な音を立てながら閉じられようとしていた。


 その先にあるものは暗い闇しかないように奈都芽には思えた。


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