第5章 テーブルの向こうの母①
「いやぁ、それにしても今日は楽しみですな」
いかにも高そうな和服を着た初老の男が歩きながら母に話しかけた。母は黙ってうなずいた。もう一人、その横にいるこれまた裕福そうな老紳士が声をかける。
「質素ながらも趣のある茶席ですからな、家元さまのは」
「はは」
「はは」二人の男が大きな声で笑った。
母は二人の男を引き連れるようにして庭の一角にある茶室へと入っていった。
プロゴルファーでもやってくるのかと思うほど綺麗に刈られた緑の芝生、澄み渡った青空には真っ白な雲がくっきりと映えている。夏のこの地方特有の湿った空気がどこからか吹いてきた。
「ねえ、鯉こいさんたち。あなたたちはいいわね。進学とかなくって」
奈都芽は庭の池の縁にしゃがむように座り、そう鯉に話しかけた。池には石造りの橋がかかっており、向こう岸に渡ることができた。池のそばには大きな松の木が一本植えられていた。
「それにしてもなんであんなこと言っちゃたんだろう……やっぱり、弁護士とか、ムリだよ」
そう言うと、奈都芽は大きなため息をついた。
弁護士になると宣言をして以来、ここ数日、奈都芽はため息ばかりついていた。だが、そうもの思いにふけっていられるのもそう長くはなかった。次の瞬間、空から何かが降ってきて、大きな音を立てた。
「バサッ、バサッ、バサッ」
あまりの音の大きさに、思わず奈都芽は池に落ちそうになった。
「もう、びっくりするじゃない」
「あら? 驚かせちゃいましたか。すみません」
対岸にいた陽ちゃんが申し訳なさそうな顔をして謝った。だが、そう謝ったにもかかわらず、すぐに大きな音がした。
「バサッ、バサッ、バサッ」
陽ちゃんが手にしたブルーの巨大なバケツの中には鯉のエサが大量に入っていた。
そのエサを大きな手で鷲づかみにした陽ちゃんは大空に向かってそれを投げていた。その様子は、まるで取組前の力士が塩をまいているかのようだった。
「それにしても、どうしたんですか? さっきから、ため息ばかりついて」
こちらの岸にやってきた陽ちゃんがそう尋ねた。
奈都芽はここ数日、自分の現在の成績をもう一度見直していた。
今のままでは、地元の大学、いや、短大、それでも合格できなければ専門学校にでも入るのがやっとだろう。そして、数年後は母の跡を継いで茶道の家元になるのが現実的な案のような気がしていた。
誰が見てもそれが地に足のついた考えではないか。そして、おそらく母もそう考えているに違いない。
現に、三者面談で先生がその話をした時も母は否定をしなかった。
「まあ、この成績では家に置くしかない」
そんなふうに思っていることだろう。
「ねえ、陽ちゃん。やっぱり難しいと思うの。弁護士」
「え? おじょうさん。まだ、そんなこと言ってるんですか?」
「あれから何日か考えてみたんだけど、やっぱり私バカだし……」
「いいえ、おじょうさんは決してバカではありません」と陽ちゃんはきっぱりと言った。
「そういうけど、あの成績では……ね?」
「もちろん、これまではそうでしたよ。ですけど、毎日一緒にいるあたしにはわかるんです。決して、おじょうさんがバカじゃないってことが。誰が何と言おうとわかるんです。ただ、単に、これまで勉強してこなかっただけだ、ってことが」
そう言うと、陽ちゃんは胸を張ってこうつづけた。
「では、あたしが今からおじょうさんがバカじゃないってことを証明してみせましょう。いきなりですが、今年読んだ本の冊数は?」
「八十九冊」早押しクイズならイチ抜けの速さだった。
「その中で一番面白かった本は?」
これも、速かった。「ミザーリの憂鬱」
「その本の中で主人公が言ったセリフで一番気に入っているものは?」
そう聞かれるとすぐに、奈都芽の口からスラスラとセリフが湧きでてきた。
「風が吹いたからって、何が起こる? フンコロガシにでも聞いてみな」
「ほらね? すごい記憶力じゃないですか? しかも、おじょうさんの本の記憶は今年の分だけではないんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「おじょうさんは勉強のコツがわかってないだけです。それさえ掴めば、弁護士だろうと、医者だろうと何にでもなれますよ! 能力にはなんの問題もありません。なんといってもあの『——大』出身のお父さんの娘なんですから!」
そう言うと、陽ちゃんは鯉のエサやりを再開した。巨大な手から放たれたそのエサは、池の水面に大粒の雨が激しく打ちつけるような音を響かせていた。
「さあさあ、おじょうさん。おフトンの準備ができましたよ」
そう言うと陽ちゃんは電気を消した。が、パチンという音がするやいなや、耳を塞ぎたくなるような大きないびきをかきはじめた。いつものことだが、陽ちゃんのいびきの音は凄い。専門家にお願いして、デシベル測定を一度してみたいぐらいだ。奈都芽はそんなことを考えながら、天井を見つめた。
「弁護士になる夢か……」
奈都芽は将来のことを考えていた。
「私みたいな成績で弁護士なんて目指す人いるのかな?」
奈都芽は頭の中でそう自分に問いかけた。小さいころからずっと勉強が苦手だったのだから、そう考えるのも無理はなかった。
「でも、昼間、陽ちゃんが言ってくれたように、もしかすると記憶力には問題がないのかもしれない……だって、生まれてから今まで読んだ本のことをほとんど覚えているんだもん。それって、記憶力がいいって、ことじゃない? だから、陽ちゃんの言うように勉強の方法さえ身につけてしまえばなんとかなるんじゃない?」
そう考えると、奈都芽は少し勇気が出てきた。そして、さらにつづけた。
「そうだ。よく考えたら、『弁護士になれないかも』なんて考えてる場合じゃないのよ。だって、私には弁護士にならなくちゃいけない理由があるんだもの。なんといっても、あの無実の罪で捕らえられているお父さんを助けなきゃいけないんだから」
誰にでもよくあることだが、フトンの中で興奮するようなことを考え出すと、もちろん眠ることができなくなる。しかもすぐ隣では、騒音認定されそうな陽ちゃんの大きないびきが鳴り響いている。
「何年かかっても、私は弁護士になってお父さんを助け出す」
そこまで考えると、奈都芽は今すぐにでも弁護士の勉強を開始したいような気持になった。
「……でも……」
しかし、やる気に満ちた奈都芽はあることを思い出し、一気に気持ちが萎えた。
「母になんて言えばいいんだろう?」
夢でいっぱいになっていた奈都芽の頭の中に母が登場した。そして、その中で母と二人で話をしてみた。
「あの……私、将来……弁護士になろうと思って」
「……」
どの口が言ってるの? 無言の母の目は如実にそう語っていた。〈おっしゃる通り〉と、奈都芽は心の中で相槌を打った。成績表を破り捨てた時の母の表情が思い出された。
「どうしたものか?」と、思いながら奈都芽は寝返りを打った。陽ちゃんの寝顔が見えた。口が大きく開き、そこからよだれが出ていた。
「いいな。陽ちゃん。幸せそうで。おいしいものをお腹いっぱい食べて、大好きな金魚と遊んで、ゆっくり寝て……」
奈都芽は陽ちゃんを見ながら、小さく呟いた。だが、その瞬間、あることを思いついた。そして、慌てて、枕元に置いてあったスマホを手にして、検索をした。
「そうか。それでいこう。母にはこれで——」
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