第5章 テーブルの向こうの母②
朝食を食べるために母屋にやってきたが、テーブルの向こうの母はいつものように朝から着物を着てご飯を食べていた。
あれから頭が冴え、なかなか眠ることができなかった。だが、奈都芽は昨晩フトンの中で考えた作戦で母に弁護士の件を言おうと決めていた。とはいえ、先ほどからそのチャンスを伺っているが、あいかわらずつけいる隙が見当たらず、時間だけが刻々と過ぎていった。
「だが、そうはいっても言わなくては」
と、考えた奈都芽は決心を固めた。「なんてことはない。簡単だ。『私、卒業後は——に行って……』。そう言うだけだ」
しかし、そのようにようやく声をかけようとした時に、電話のベルが鳴り、電話口で話を聞いた母はすぐに部屋を出ていった。テーブルの上に残った大量の朝食を陽ちゃんが一皿も残すことなく食べつくした。
ようやく母に話を切りだせたのは、昼食後のことだった。
奈都芽は、昼食を食べ終え、席を立とうとした母に勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、あ、あの。し、し、進路のことなんですけど——」
言葉が上手く出てこない。
喉がカラカラ。声も少し震えている。そう感じた奈都芽は大きく息を吸った。その様子を見た母が椅子に座り直した。そのすぐうしろに立っている陽ちゃんが母には見つからないように、笑顔で奈都芽のことを見ていた。がんばれ! 陽ちゃんの顔には、はっきりそう書かれていた。
少しだけではあるが、その顔を見ていると、奈都芽の中で勇気が湧いてきた。
「わ、私、こ、高校を卒業したら、——に行きたいと思っています」
口ごもりながらも、奈都芽はどうにかそう言った。面と向かって、奈都芽が自分の考えを母に伝えたのは初めてのことかもしれなかった。手が汗でべとべとになっていた。
「……」
何も言わなかったが、母の体が少し前のめりになった。それを見た奈都芽はさらにつづけた。
「じ、実は、大学で勉強したいことがあって。わ、わ、私の学びたいことは——」
そこまで言うと、奈都芽は少し間を置いた。
おじょうさん、そこよ! と、言いたいところを陽ちゃんがグッとこらえていた。その無言の声援を受けて、奈都芽は震える声で母にこう言った。
「——で、に、に、『日本の和』の歴史について学びたいと思っています」
これが一晩中、フトンの中で奈都芽が考えた作戦だった。
弁護士になりたい。
そう言われても、あの成績では母も納得がいかないだろう。だが、将来、茶道の家元を継ぐことを考えると『日本の和』について学ぶことはけっして邪魔にはならない。現に、陽ちゃんによると母も学生時代、この街を離れ、茶道の勉強に行っていたとのこと。
「とにかく、——に行けば、なんとかなる」
スマホで色んな情報を検索しながら、奈都芽はそう考えるようになった。
大学の法学部に入学することが一般的であることはわかった。だが、よく調べてみると、弁護士志望者の多くは大学に通いながら法律の専門学校に通っている。ということは、もしも、法学部に入れなくても母に隠れて弁護士を目指したとしても問題がない。
つまり、弁護士になるといえば、反対されるが、『和の道』を学びたいと言っておけば母は大学に行かせてくれるに違いない。そうして、学生中に勉強をして弁護士に合格してしまえばいいんだ。そうすれば、父をこの手で助け出すことができる。
このように考えた奈都芽は、今まさに、その作戦を実行した。
「奈都芽。立派ね。あなたももう大人。素晴らしい考えじゃないの」
もしかして、生まれて初めて母にそう褒められるかもしれない。
フトンの中で奈都芽は想像を膨らませていたが、現実はそうはならなかった。
奈都芽の話を聞いた母は、なにも言わず、席を立った。だが、心なしかいつもより柔和な表情を浮かべ部屋を出ていった。その母の顔を見てホッとした奈都芽は心の中でこう思った。
「よし、なんとか作戦はうまくいったみたい」
褒められこそしなかったが、あの母の顔つきはまんざらでもない。
作戦を遂行した奈都芽は、後片付けをしている陽ちゃんより先に、陽ちゃんの部屋に一人で帰った。部屋に着くなり、充電が切れたようにバタンと床に倒れてしまった。
母に自分の思いを伝える。
それだけでも大変なことだった。なんといっても、相手はあの母だ。
あの人を射るような眼差しに耐えて、よくやった。
奈都芽は、何度も自分を褒めた。
だが、そのうち、先ほどの母との会話で疲れたのと、昨日の夜からほとんど寝ていなこともあり、そのまま深い眠りについた。
目が覚めたのは午後の三時前だった。
あまりに深い睡眠で
「丸一日寝ていたのか」
と、思ったほどだった。
「ちょうどいい。おじょうさんが起きてきた」
陽ちゃんが笑顔で言った。「おやつの時間ですよ」
〈食事は母屋ですること〉
母に忠誠を誓う陽ちゃんがこのルールを破ることはなかった。だが、陽ちゃんによると
「『間食』は『食事』には含まれない」
ということだった。
つまり、陽ちゃんの解釈によると、この部屋で食べているのはあくまでも『間食』だから許される、ということだった。
お昼ご飯の時、テーブルの上の食事をすべて平らげたはずの陽ちゃんは大好物の『ステーキ丼』をペロリと平らげた。そして、すぐに
「おじょうさんは?」
と聞いた。奈都芽が首を大きく振ると、陽ちゃんは「遠慮しなくてもいいのに」と言いながら、大盛りのカップラーメンにお湯を入れはじめた。奈都芽の前には、地元でも有名なお茶菓子が置かれた。
どうにか二個目の茶菓子に奈都芽が手を触れようとしているときに、陽ちゃんはラーメンを食べ終えた。そして、奈都芽にこう話しかけた。
「あの、おじょうさん——」
奈都芽はお菓子を握りしめたまま、陽ちゃんを見た。いつも奈都芽といる時はニコニコしている陽ちゃんの表情が心なしかこわばっていた。
「今日のお昼の件なんですけど。ほら、あの進路の話ですよ」
なるほど、と奈都芽は思った。
よく勇気を出されましたね、がんばりました。そう言いたのだろう。
だが、陽ちゃんの口から出てきた言葉はそうではなかった。
「なぜ弁護士になりたい、と言わなかったのですか?」
そう言われた奈都芽はなにも答えることができなかった。無言の奈都芽を見ながら陽ちゃんはつづけた。
「おじょうさん。あたし、ちょっとガッカリです。この前も言ったと思いますが、おじょうさんのいいところは何といっても『ウソをつかない』ところです。それなのに……今日のあの話だと、家元さまにウソをついたことになりませんか?」
それを聞いた奈都芽はしばらく何も考えることができなかった。
「ウソはつくな」
父から学んだあの教えを知らないうちに破ってしまった。
しかし、落ち着きを取り戻した奈都芽は陽ちゃんにこう言った。
「そうね、たしかに、陽ちゃんの言うように私は母にウソをついたかもしれないわ。でもね、よく考えてよ。私みたいな成績の人間が弁護士になりたいだなんて言っても、反対されるだけよ。だってあの成績じゃあ、まったく説得力がないもん」
「それでもですよ、おじょうさん。ウソはいけません。ウソは。ロクなことが起こりませんよ」
そう言われた奈都芽はすぐに反論した。
「でも、陽ちゃん。冷静になってみてよ。こないだ陽ちゃんも言ってたじゃない。『たとえ弁護士になっても、将来茶道の跡継ぎをすればいい』って。それなら『和の歴史』を学びながら弁護士を目指すというのもいい案じゃない?」
奈都芽が弁護士を目指すことになって以来、二人はこの話をよくしていた。
「いいえ!」
陽ちゃんの声が桁外れに大きくなった。
「それは違います! おじょうさん、そんな考え方、あたし、大嫌いです!」
あまりの声量に奈都芽は驚いてしまった。思わず陽ちゃんの顔をじっと見つめた。
「そんなの屁理屈です。家元さまに本当のことを言いましょう。なんといってもおじょうさんと家元さまは親子なのですよ」
「でも、あの人に本当のことを言っても納得するかな」
「あの人はいけません!」
一層大きくなった陽ちゃんの声が部屋中に響き、こころなしか壁が少し揺れた。そして、さらに陽ちゃんはもっと大きな声でこう言った。
「大切なお母さんですよ! おじょうさんはわかってないでしょうが、家元さまは心の底からおじょうさんのことを愛しています。その愛している娘が夢を持ったのですよ! 何が反対する必要があるのですか!」
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