第4章  奈都芽の進む道②

 目から出た涙は顔からぼとぼと、滝のようにシャツに流れつづけていた。



 奈都芽の心の内を心配するうちに陽ちゃんは悲しくなってしまったようだった。


 奈都芽は陽ちゃんのポケットからハンカチを取り出し、涙を拭いた。

 陽ちゃんのハンカチは、ハンカチというよりは風呂敷のような大きさで、左右の胸に赤と黒の金魚の入れ墨をした力士の模様がプリントされていた。陽ちゃんのオリジナルハンカチだった。拭いても、拭いても、どれだけ拭いても陽ちゃんの涙は止まらなかった。


「もしかして、あの二つの湖は陽ちゃんの涙でできているのかも」


 奈都芽がそう思うほど涙が止まらなかった。




 そのうち少し落ち着いてきた陽ちゃんが


「もちろん家元さまの言うことは絶対です。絶対ですけど……絶対ですけど……なにも目の前で成績表を破ることはないじゃないですか……あれでは、あまりにもおじょうさんがかわいそうで——」


 と、今度は声を上げて泣きはじめた。


 気がつくと、いつのまにか、落ち込んでいた奈都芽が励ますことになっていた。


 ベンチに座った陽ちゃんの手を握り、優しい声をかけつづけた。





「でも、母が怒るのもムリないのよ」


 ようやく泣きやんだのを見て、奈都芽はそう言った。


「私なんていいところが何もないんだから」


 それを聞いた陽ちゃんは大きく首を振った。


「なにをいってるんですか。おじょうさんはいいとこばかりですよ」


 奈都芽のことはなにがあっても守り通す。陽ちゃんの顔にはそう書かれていた。


「たとえば?」とゆっくり奈都芽が聞いた。


「え?」


「だから、たとえば、どこ?」


「たとえば……」


「たとえば?」


 陽ちゃんは考える人のように頬に手を当てしばらく黙り込んでいた。

 宇宙の成り立ちの解説を求められているのか、といった様子だった。そして、ようやく口を開いた。




!」




 この世紀の大発見をすぐにでも発表しよう。そう言わんばかりの自信に満ちた表情だった。


「あたしもいつも感心させられます。誰にでもできることではありません」


 陽ちゃんにそう褒められた奈都芽は照れた表情を浮かべ答えた。


「小さいころ、お父さんが教えてくれた。ウソだけは絶対つくなって」


「まあ、そうでしたか……お父さんが……」


 それを聞いた陽ちゃんは、自信に満ちた表情から一転、悲しそうな顔をした。家で禁止されている父のことが話題に出て、どうすればいいのかわからない、といった様子だった。




「ウソはやめろ」




 それは、この神社と同じ名前の神社によく連れていってくれた父が奈都芽に教えてくれた生き方だった。


「ウソをついて、誰かをだますようなことはやめろ」


 陽ちゃんの話を聞きながら、奈都芽は父のことを思い出した。




「お父さんは今頃、何をしているんだろう? まだ、あの夢を忘れていないのかな? 夜空の星に願いをかけているだろうか? 小説家になるという夢を」




 そして、奈都芽は何度か見たあの夢のことを思い出していた。




 ハンドルを握る父の手。その手には銀色に輝く手錠がかけられている。


「なあ、よく聞いてくれ。今から言うことをしてくれれば、お父さんはここから出ることができる。まずは、奈都芽が——」




 いつもそこで止まった。そして、奈都芽の中に疑問がわいた。




「あのあと、お父さんは何を言おうとしているんだろう? そこにお父さんを助け出す大きなヒントが隠されているのではないか?」





 神社から戻ってくると、母の姿はなかった。


 陽ちゃんがスケジュール帳を確認した。


「あら? そうだわ。今日は地元の社長さんたちとホテルでパーティーでした」


 そう言うと、陽ちゃんはテーブルの上を見た。


「あれあれ。これはまた困りましたね」


 だが、奈都芽は知っていた。陽ちゃんが一切困っていないことを。腕をまくりながら陽ちゃんが言った。


「一気に食べてしまわなければ」


 大きなテーブルの上には古代から悠久の時を越えてきたように和菓子のピラミッドがそのまま形をとどめていた。それは、さきほど陽ちゃんが奈都芽の為に積み上げたものだった。




 壊れることのないはずのピラミッドが、陽ちゃんの手によってどんどん壊されていった。


「あら、おじょうさん。食べないんですか?」


 どうにか三個食べた奈都芽を、陽ちゃんは不思議そうに見ていた。だが、最後の土台の部分にさしかかった時に突然陽ちゃんが声を上げた。


「そうだ……」




 そう言うと、陽ちゃんは机の上のお菓子のごみを片づけはじめた。片づけ終えた陽ちゃんは、奈都芽を手招きした。そして、陽ちゃんは足を忍ばせるようにして、そっと部屋を出ていった。


「?」


 不審に思いながらも、奈都芽は陽ちゃんのあとをついていった。


 音を立てないようにして、廊下を歩いた陽ちゃんが連れていってくれたのは、母の着物でいっぱいの衣裳部屋だった。いくつもある和箪笥の一つの前で陽ちゃんは止まった。


「あの、実は。家元さまには絶対に見せるなって、言われていたんですけど」


 そう言いながら、観音開きの戸を開けた。中は木でできた引き出しが幾つかあった。


「さっき、神社でおじょうさんが『お父さん』って言うのを聞いて。もう、あたし、いつまでも黙っているのがつらくって——」


 そういうと、一番下の引き出しを開け、なにかを取り出した。


「……あの……これ……」




 それを見た奈都芽の鼓動が一気に高まった。


 白い封筒の上には『奈都芽へ』という文字が書かれていた。




 その文字が誰によって書かれたのかはすぐにわかった。


 受け取った封筒を震える手で、奈都芽が裏返してみると、やはり、そこには『』があった。


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