第4章  奈都芽の進む道①

「——じょう



 この街は、はじめ、じめじめとした湿地の寒村だった。


 だが、江戸時代、この城ができてからはガラリと変わり、栄えるようになった。




 この街に住む人々は、奈都芽が生まれ育った『海の上』の民とは違った。


 山を越えるとそこには海があり、その向こうにはかつて高貴なお方が島流しされたとされる大きな島があったが、陸続きにはなっていなかった。さらにこの街を挟むように左右に大きな湖があったが、それもまた自らの土地にすることはなかった。




 現在もこの地方の中心都市として栄えるこの街にあって、最も特筆すべきは江戸時代後期にこの地を収めた




「——こう




という人物であろう。


 現在もこの街が「文化の街」と評価される礎を作った人物である。




 財政難に陥っていたこの街の立て直しに成功した「——公」は、禅学や茶道に長けており、その影響からこの街で茶道が栄えた。




「——流」




 これが奈都芽の母の茶道の流派の名前だったが、この殿様の名前からきたものだった。




 この大名が与えた影響は今なお根強く、街のあちらこちらに茶器の銘品や日本庭園、茶室などが数多く見られる。さらに、茶道だけではなく武道にも長けており、相撲取りのパトロンであったことも知られている。また、金魚を愛するあまり、部屋の天井にガラスを張り鑑賞していたことが伝えられている。




 この「——じょう」の堀に住む奈都芽だったが、最終学年である高校三年生の日々はあっという間に過ぎていった。四月の始業式が終わり、ゴールデンウイークがきたと思ったら、もう一学期の終業式を迎えていた。奈都芽の高校時代最後の夏が始まろうとしていた。




 テーブルの向こうの母は、何も言わず、じっと書類に目を通していた。

 すぐうしろには陽ちゃんが緊張した面持ちで立っていた。奈都芽は母を見ることができなかった。さっき三者面談で渡されたばかりの成績表が奈都芽の心に重くのしかかっていたからだ。


 はじめテーブルに置いて成績表を見ていた母が、ゆっくりとそれを目線の高さまで持ち上げた。


「なに? あの動き?」


 そう声にこそ出せないが、奈都芽は不思議に思った。


 母が持ち上げた成績表を奈都芽はじっと見ていた。母のうしろに立っている陽ちゃんも不思議そうな顔をして見つめていた。だが、次の瞬間


「ビリッ!」


 という大きな音を立てて、成績表は真ん中から無残にも破られた。


「え!」


 思わず奈都芽は声を上げたが、母はそんなことは気にせず、二つにわかれた成績表をゴミ箱に捨て、部屋から出ていった。




「怒るのもムリはない」


 母のことが嫌いな奈都芽ですら、今日ばかりは母の気持ちが理解できた。


 三者面談で担任は呆れはてたように奈都芽の成績を一科目ずつ批判していった。成績が悪いと、人から怒られ慣れている奈都芽だったが、母はそうではなかった。


 担任がボールペンで机を叩く度に、目つきが厳しくなっていった。その担任は新任で、PTAの役員でもある母のことをよく知らなかった。だが、四科目目の『国語』の成績あたりで、その異変に気づいた。




「鬼みたい」




 母の横顔を見た奈都芽は怖くなった。そして、もちろん、担任も怖くなった。


 急に声色を変えた担任は




「でも、奈都芽さんの場合は将来安泰ですね。地元の大学でも出られて、お母様の跡をお継ぎになるでしょうから。はっはっはっ」




 と、どうにかその場を収めた。もちろん、母の目は鋭いままだったが。




 『地元の大学』と担任は震えながら言っていたが、それも怪しい、と奈都芽は思った。


 『専門学校』に入ることができれば十分だろう、いや、高校を卒業させてもらえるだけでも、とその無残な成績表を見ながら思った。






「さあ、どうぞ」


 取り残されたようにテーブルに座っている奈都芽の前に陽ちゃんが何かを差し出した。それは地元の銘菓で、かの江戸時代のお殿様が作らせたとされる茶菓子だった。


「まあ、甘いものでも食べて。ね?」


 励ますように陽ちゃんは言った。


「ありがとう。でも、いらない」


「まあ、こんな美味しいものを……」


 そう言う陽ちゃんに悪気はなかった。だが、サービス精神旺盛な陽ちゃんがピラミッドのように積み上げた和菓子に、奈都芽の食欲がわくことはなかった。




 落ち込む奈都芽を励ますように陽ちゃんは散歩に出かけることを提案した。


 家を出て、堀にかかった橋を渡り、城の中の敷地を抜けていった。


「ビリッ!」


 ついさっき聞いた紙の破れる音が耳に残っていた。奈都芽は、学校の友人たちが噂していることを思い出した。


「奈都芽ってさ、いつも本ばっかり読んでいるのに、なんであんな成績なの?」


 それはこちらが聞きたい。奈都芽はいつもそう思った。




 ……でも……あの成績では……たいした大学に行けないだろうな……そうしたら、先生の言うように地元の『短大』か『専門学校』を出て……どうせたいした就職先も見つからないだろうから、母の跡をついで『茶道』の家元に……。




 そこまで考えると、目の前に母の厳しい冷ややかな顔が浮かんできた。


「はー」


 思わず、奈都芽は大きなため息をついた。


 その時、何かが触れるのを奈都芽は感じた。


 奈都芽が落ち込んでいると察した陽ちゃんは奈都芽の手を握っていた。落ち込んだ時はいつも陽ちゃんがこうして手を握ってくれた。


 二人は何もしゃべらず歩きつづけた。




 この街は、奈都芽が生まれ育った『海の上』の街とは違った。


 夏になると風が吹いてきた。


 海の向こうの広大な大陸から吹いてきた風が山を越え、『フェーン現象』といわれる湿った空気で街は覆われた。






 陽ちゃんは父と同じくらい大きな船だった。


 父と同じように、彷徨い漂ってしまわぬように奈都芽をしっかり守ろうとした。

 だが、たしかに大きな船ではあったが、底の方から水が入ってくるのではないかと、時々、奈都芽は不安に思うことがあった。




 階段を登って、ようやく目的地についた。高台にあることから眼下の街が見渡せた。


 辛いことや悲しいことがあると、父とよく過ごしたあの神社と同じ名前のこの神社に陽ちゃんと二人でやってきた。神社につくと、ベンチに腰をかけたが、そこでようやく奈都芽はあることに気づいた。






 ふと隣を見ると、陽ちゃんは音を立てずに泣いていた。


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