第3章  黒い影の正体③

「さあ、早く用意しろ! 今から『大きいほうの』図書館に行くぞ!」



 突然、奈都芽の前に父が現れた。


 見上げるほどの大きな身体。父はいつもの優しい笑顔を見せた。

 車に乗り込んだ父は、美味しそうにタバコを吸った。


「なあ、奈都芽。今日はスペシャルコースと行くか? 図書館に行って、そのあと、プールで泳ぐとするか!」


 カーステレオから、夏の日の恋を歌った曲が流れてきた。父はその歌に合わせて鼻歌を歌った。一切風の吹かない夏の日で、青空には大きな白い入道雲があった。


「……お父さん……」


 助手席のシートに座った奈都芽は信じられない思いだった。


「ねえ……お父さん……出てこられたの?……」


 そう奈都芽が聞いた瞬間、突然、それまで笑顔だった父の表情が曇った。


「なあ、奈都芽……信じてくれ。お父さんはウソなんかついていない……でもな、喜べ……ようやく、ここから出られる方法がわかったんだ」


 父はそう言うと奈都芽の顔をじっと見つめた。


 そこでようやく、奈都芽はあることに気づいた。ハンドルを握る父の手には銀色に輝く手錠がかけられている。


「なあ、よく聞いてくれ。今から言うことをしてくれれば、お父さんはここから出ることができる。まずは、奈都芽が——」


「え? なに? お父さん! 私が何をすればお父さんがそこから出られ——」


 と、言いかけたところで、奈都芽は冷たいものを感じた。




「キャア」


 驚いた奈都芽は大声を上げた。


「すみません。おじょうさん、大丈夫ですか?」


 目を開けると、目の前に『』があった。

 だが、それはついさっきまで見ていた父のものとは違った。奈都芽は夢を見ていた。これまでも何度か父の夢を見た。いつも同じ夢だった。父はその中で冤罪を晴らすためのヒントのようなものを言おうとした。だが、なぜかいつもいいところでこの『』が邪魔をした。




「ついうっかりつまずいちゃって……」


 床は陽ちゃんが全国のあちこちから取り寄せた食材で溢れ、ほとんど見えなかった。食材の中に二組、ふとんをしいているようなものだった。


「水を換えようして。慎重に歩いてたんですけど……」


 そう言った陽ちゃんの手には口のあたりが青い透明の金魚鉢があった。かつて江戸時代、この土地を収めた殿様が愛したと言われる金魚を陽ちゃんは大切にしていた。そして、


「ご先祖様がお世話になったもので」


 と、よく口にした。


 金魚と相撲を愛したその殿様は陽ちゃんの先祖の力士を厚く支援した。その話を聞いた陽ちゃんはなぜか金魚に恩義を感じ、それ以来飼うようになった。




「さあ、それよりおじょうさん——」


 話を切り替えるように、陽ちゃんは床に落ちていたタオルで奈都芽の顔を拭きながら言った。


「早く起きてください。朝食の準備ができていますよ」




 テーブルをはさんだ向こうに座る母は朝から着物を着ていた。奈都芽は陽ちゃんが用意してくれたねずみ色のぶかぶかのワンピースを着ていた。髪はまだ跳ねていた。


 母は奈都芽と目を合わせることもなく、無言でご飯を食べていた。そのすぐうしろには陽ちゃんが緊張した表情で立っていた。手をピタッと体につけていた。わかる、わかる。高校三年生になった今でも、奈都芽も母の顔を見るだけで緊張した。




 〈食事は母屋ですること〉




 これが家のルールだった。


 逆にいうと、それ以外はこの広い平屋で過ごすことがほとんどなかった。


 美術館と間違われるほど広大な敷地の隅にある使用人の部屋で——それはもちろん陽ちゃんの部屋ということだが——奈都芽は寝起きをした。もちろん母屋の方に奈都芽の部屋がないわけではなかった。エアコンがなかなか利かないほど広い部屋だったが、奈都芽がそこにいることはほとんどなかった。なんといっても、この母屋にはこの母がいた。母と二人だけで過ごすなんて、奈都芽のか弱い心ではとうてい耐えられそうになかった。




「ガタッ」


 その音を聞いた奈都芽はビクッとした。母のうしろに立つ陽ちゃんもすぐに反応した。


 朝食を食べ終えた母は無言で席を立った。

 そのまま部屋を出ていくのを奈都芽は横目で確認をした。だが、出ていくのかと思った途端、急に奈都芽のことを横目でジロリと見た。


「……え?……なにか問題でも……」


 奈都芽の頭が高速に回転した。だが、次の瞬間、すぐに安心をした。


 母は、何ごともなかったかのようにして部屋を出ていった。言うまでもないことだが、あいかわらず母の部屋は出入りが禁止されていた。




「なによ、あの目つき」


「まあまあ、そう言わずに。おじょうさん」


「朝からあんなに睨まれたら、ご飯も喉に通らないわ」


「大丈夫です。なにがあろうと、ご飯はどんどん入っていくものです」


 陽ちゃんはおどけるように微笑んだ。「ハー、それにしてもよかったです」


「なにが?」


「だって、今朝はこんなにも食べてもらえたんですよ」


 陽ちゃんはほっとしたように言った。


「なに言ってるのよ。おかしいよ、こんなに机いっぱい陽ちゃんに料理を作らせておいて。 結局食べたのは、シャケ半分と、きんぴらを少し、それに漬物を二切れ食べただけじゃない」


 卓球の試合が二組ぐらい同時にできそうな大きなテーブルの上に料理がぎっしりと並べられていた。「こんなに残して、、どんな神経してるのよ」


「あの人なんて。家元さまに向かってそんな言葉を使ってはダメです」


 陽ちゃんはすぐに奈都芽をたしなめた。


「いいんですよ、おじょうさん。あたしはどれだけ残してもらっても、何も困りませんから」


 そう言うと、陽ちゃんは台所から持ってきた専用の巨大なジャーを足元に置き、お茶碗にご飯をよそった。そのお茶碗は、お茶碗と分類されるにはあまりにも大きすぎるサイズで、ラーメンやうどんをいれるドンブリと呼ぶのが正確だった。




 陽ちゃんはよく食べ、よく笑い、そしてよくしゃべる。


 たまたま入ったスーパーで奥のほうから話し声が聞こえてきて「陽ちゃん」とわかることがよくあるほどだった。人見知りのまったくない性格で、すぐ誰とでも友達になってしまう。


 だからこそ、奈都芽は不思議に思うことがある。



「こんなにしゃべる人が、あの夜、あの車の中で、なぜあれほど長く黙ったままだったんだろう? あの夜、陽ちゃんは何を考えてハンドルを握っていたんだろう?」




 陽ちゃんはまるで早送りの映像のように片っ端からテーブルの上の料理を食べていった。


 みるみるうちに皿が空っぽになっていった。信じられないことに、おかわりをするたびに陽ちゃんのペースがどんどん上がっていった。



「ねえ、それにしても、陽ちゃん。あんなに急いでご飯を食べなきゃいけないのかな?」


 母とは違い、奈都芽は人の何倍も時間をかけて食事をした。


 一つ一つの食材をゆっくり噛みしめながら食べるのが好きだった。時にはその食材の歴史にまで思いを馳せることすらあった。


「ジャガイモといえば、アンデスの……」




「まあまあ、おじょうさん、家元さまはお忙しい身ですから食事に時間を割くのが惜しいのでしょう。いつも書斎でおられますが、やらなくてはいけないことが沢山あるのでしょう。今日だって、ほら。お昼から知事さんとの食事会がございますし——」


 陽ちゃんの話を聞いていた奈都芽だったが、思わず、席を立った。顔から血の気が引いていくのを奈都芽は感じた。陽ちゃんのすぐうしろにさっき食事をすませたはずの母が冷たい表情を浮かべ立っていた。


「それにしても、このぶり大根はおいしいですね」


 母がいることに気づいていない陽ちゃんは、あいかわらず口の中に料理を運びつづけていた。


「陽ちゃん」


 立ったままの奈都芽は、気づいてもらえるように、声をかけた。


「それにあたしの好きなのは。ほらっ、このお肉」


 陽ちゃんは厚めにカットしたステーキを口に頬張った。


「陽ちゃん!」


 さっきより大きな声で奈都芽は叫んだ。そこでようやく、陽ちゃんはうしろの気配を感じた。




「いっ、家元さま!」




 すぐうしろに母がいることに気づいた陽ちゃんは飛び上がるようにしてその場に立った。


 陽ちゃんの大きな手には、猫でも入りそうな大きな茶碗があった。青ざめた陽ちゃんの顔色が、次の瞬間、まるで漂白されたように白へと変わっていった。


 無言のまま部屋に入ってきた母はチラッと奈都芽を見ると「ふん」と鼻を鳴らした。そして、陽ちゃんの目をじっと見ると、背中の帯の真っ赤な椿を見せるようにして、部屋を出ていった。去って行く母の後ろ髪は一糸乱れることなくひとつに結いあげられていた。髪の毛一本、跳ねていなかった。




「え? ちょっと、なに? いまの?」


 ようやく息ができるようになった奈都芽が口を開いた。立ったままの陽ちゃんがしどろもどろで答えた。


「おっ、おじょうさん、今日の予定はなにか?」


 どこをどれだけ探しても、奈都芽の予定表に予定というものはなかった。


「べ、べつに……」


「すぐに予約しときますので」


「予約?」


「髪を切りにいきましょう」 


 奈都芽はテーブルの近くにある大きな鏡を見た。四方八方に髪が跳ねていた。


「それと、服も買いにいきましょう」


 もう一度、奈都芽は鏡を見た。

 ねずみ色のぶかぶかのワンピース姿がそこに映し出された。十代の女の子がする格好じゃないことは奈都芽にもわかった。


 さらに、たとえ何着、いや、何百着、服を買いにいったとしてもたいして変わりのないこともわかっていた。

 服を選ぶのが「少し大きめ」のサイズを手にする陽ちゃんだったからだ。


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