第2章  星に願いを・不都合な結末①

「どんな些細なウソでも、一度つくとそれはどんどん成長しつづける。だから、絶対、ウソはよせ」



 奈都芽はあの冬の夜、父に言われたこの教えを忠実に守るようになった。


 友達に今からお菓子を買いに行こうと誘われた時にも、今日は用事があって、と体裁よく断ることはなかった。


「ゴメン、お金ないんだ」


 恥ずかしくないと言えばウソになるが、ウソをつくわけにはいかなかった。



 奈都芽ちゃんの家に遊びに行っていい? と女友達に聞かれた時も、うまくやり過ごすことはなかった。母がずっと部屋で籠っているけどいい? それを聞いた友人たちは作り笑顔をした。


 あなたが落としたのは金の斧ですか、それとも——の話ではないが、奈都芽は実直に、ウソをつかないことを徹底した。



 父とのあの約束から、二年が経とうとしていた。


 奈都芽はちょうになる前のさなぎのように少女から大人の女性へと変わる準備をしようとしていた。


 誕生日が来ると十二歳になる奈都芽だったが、この心と体が揺れ動く不安定な二年間も、やはり、母はあいかわらず関わろうとしなかった。


 言葉を交わすことも、目を合わすこともほとんどなく、たいてい自分の部屋でひとり本を読んでいた。時折、部屋から声が漏れてくることもあったが、その時には父が「静かに」というように唇と手で十字を見せた。母がどんな本を読んでいるのか、もちろん興味があったが奈都芽はそのことを考えないようにした。



 だが、その母とは一転、父はあいかわらず奈都芽を支えつづけた。フラフラと海の上を彷徨ってもおかしくない奈都芽をしっかりと支えつづけた。


 ほぼ毎週末、二人で図書館(『大きいほう』か、または『小さいほう』、そして時には両方)に向かい、本を借りた。無音なのに激しい避難警報が母の部屋から発せられた時には、その大きな体で奈都芽をかばうようにして、近所の神社に誘導した。そして、暑い夏の日には、プールに出向き、奈都芽を背中にのせ飛ぶように泳ぎつづけた。



 仕事を終えた父は、毎晩、本を読み、そして小説を書いた。


 仕事が忙しく、どんなに帰宅が遅くなった時でも、それは変わることがなかった。小説家になるという夢を実現するべく、父は毎日努力を積みかさねていた。そして、父はよく星空を眺めていた。口にこそしないが「星に願いを」かけているに違いなかった。


 父の努力、さらにくわえて星に願いをかけたその効果が現れたのか、応募する小説のコンテストの結果が一次審査突破、二次審査突破……と徐々に向上していった。



 祖父の愛した仕事と自分の愛する小説家という仕事。


 父がその両者を手に入れるのはすぐ目の前に来ているように思われた。




 それは、やはり、ある冬の日におこった。


 その日、父はいつものように仕事を終え、帰宅すると食事をすませ、居間でノートを広げた。母は早々に食事をし、自分の部屋に入っていったが、「ん」という小さな吐息が聞こえてきた。隣の母の部屋の方を見ると、父は奈都芽に「シー」というように唇の前で人差し指を立てた。


 片づけをすませた父は、小説のアイデアをまとめようと、ノートを前に座ったが、


「ウーン」


 と、小さな声で何度もうなった。


 なんとかひねり出そうとするためなのか、頭を掻きながらタバコに火をつけた。そのとき、奈都芽は一瞬不思議に思った。


「いつものシルバーのライターじゃない……」


 だが、そのことはそれほど気にはならなかった。


 たしかに父はそのライターを大切にしてはいたが、これまでにも何度か忘れてきたことがあったからだ。それは仕事場の更衣室や車の中に忘れてきたのだが、いずれも小説のアイデアが浮かんだときにおこった。小説のことに集中すると父は細かいことに気がまわらなくなることがあるのだ。



「なあ、奈都芽。びっくりしたよ。今日、仕事が終わってロッカーで着替えていたら、今書いている小説の主人公が、『月が二個あると助かるのに』って言いだしたんだ」



 なるほど、お父さんが「ウーン」とうなり、愛用のライターを忘れてくるはずだ。

 奈都芽は心の中でそう思った。もし、自分の頭の中でそんな声が聞こえたらどんな気持ちになるんだろう? 実際にはこの世にいないはずの人が話しかけてくるなんて。


 そのあとも、父は頬杖をつき、何度も小さなため息をついていた。だが、そのうち


「ちょっと、歩いてくるわ」


 と言って、黒いコートを羽織り、寒空のもとひとり散歩に出かけていった。


 小説のアイデアに煮詰まると、父はよくそうしていた。元々、運動神経が発達しているせいもあってか、散歩をすると様々なアイデアが浮かび、執筆が進むとのことだった。



「寒い、寒い」


 二時間ほどして父がようやく帰ってきた。おかえり、と言いながら奈都芽は掛け時計を見た。時刻は九時を少し過ぎたところだった。


「大収穫だ」


 と、父は満足げに言うと、小説用のノートに一心不乱にアイデアを書きはじめた。




 が起こったのは、父がアイデアを『大収穫』した二日後の朝だった。



 奈都芽と父はいつも同じ時刻に家を出ることになっていた。

 ランドセルを背負った奈都芽は荷物を持った父と二人で居間をあとにした。あいかわらず母はひとりで自分の部屋の中にいた。その母の部屋のすぐ隣が玄関だった。


 母の部屋を過ぎ、二人で玄関に向かうと、ガラス越しに赤いランプがグルグル回るのが見えた。


 そのすりガラス越しに見える赤は、明らかに警告を発していた。隠れるようにして、奈都芽は父の大きな背中にしがみついた。父がいなかったら、すぐにでも泣きだしてしまいそうだった。




 玄関の向こうには黒い制服を着た男たちの姿があった。ひとり、ふたり、さんにん……数えきれないほどたくさんの男たちが家を取り囲むようにして立っていた。


 父はその姿を無言で見つめていた。ほんの数秒のことだったと思う。だが、そのときの奈都芽にはそれが何時間にも感じられた。




「行かないで!」


 生まれて初めてのことだが、とにかく奈都芽は大声でそう父に叫びたかった。


 どこにも行かないで! 私を置いて行かないで! と。


 だが、そう叫ぼうとする奈都芽をなだめるように父はニッコリと微笑み、玄関を開けた。




「いや!」


 誰になんと言われようと、奈都芽はそう叫びたかった。


 大切な父がどこかに連れ去られ、二度と会うことができない嫌な予感がしたからだ。だが、玄関を開けた父はゆっくりと奈都芽の肩に手を置いた。


「大丈夫、大丈夫」


 奈都芽はその分厚い手がそう語りかけているように感じた。


 大丈夫、と。


 そして、父は一歩外に踏みだした。




 奈都芽の前に大きな、とても大きな、あの夏の日プールで見た巨大な背中が現れた。


 その背中は奈都芽に安心感を与えた。


 だが、ほんの数秒後、奈都芽の心から一気にその安心感は消えてなくなった。




 両脇を警察官に押さえられた父はその大きな体を丸めるようにして、パトカーの後部座席に押しこめられ、奈都芽の前から姿を消した。


 父を乗せたパトカーの赤いランプが見えなくなったあとでも、奈都芽は魔法をかけられた石像のようにその場に立ちつくしていた。


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