第1章 海の上で生まれた少女③
しかし、十歳の少女の好奇心の力は予想以上に強く、気がつくと奈都芽は隣の母の部屋のドアの前に立っていた。
母の部屋は入り口近くにあったので、すぐそこには玄関のすりガラスが見えた。もしいま父が帰ってきたら。奈都芽は一瞬不安に思った。
「だけど」
と、すぐに少女の好奇心が反撃をした。
「タイトルを見たら、すぐ居間に戻ろう」
奈都芽はドアに手をかけた。
ドッドッ。心臓が一気に高鳴った。生まれて初めて入る母の部屋。いったいこの先になにが待ち受けているのだろうか? 緊張のあまり手が震えたが、どうにかドアを開けることができた。
「空っぽみたい」
奈都芽は率直にそう思った。部屋の真ん中に膝より低い小さな机があるのと、隅っこに木製の小さなゴミ箱がひとつあるだけだった。玄関の方に一度目をやり、人影がないことを確認すると一歩足を踏み入れ、ゆっくりと部屋中を見回した。
「あのタイトルさえわかればいい」
そう思い、例の目当ての本を探してみるが、どこにも見当たらない。
机の上には何も置かれておらず、ティッシュペーパーの箱すら見ることはない。だが、ふとその時、あることに奈都芽は気がついた。壁際に天井の上の方からだらりと白い布のようなものがかかっている。その布の一番下の方を見ると、本棚の足らしき木が四本見えている。おそらく目的の本は、布の向こうにあるに違いない。
本棚のところまで行って、あの布をめくるかどうか。
奈都芽の小さな心が激しく揺れた。あの本のタイトルが知りたい。でも、母の部屋に入ることは禁止されている。それはこの家で平穏に暮らしていくための絶対的なルールだった。だが、そうわかっていても、奈都芽はどうしてもあの本が見たかった。できれば、触れてみたかった。
あの母に声を出させる本なんて、どんなにおもしろいんだろう?
もう一歩前へ進もうか、やめようかと奈都芽が悩んでいるときに玄関の方から音が聞こえてきた。
「カチャカチャ」
慌てて、玄関に目をやる。そこには大きな男の影が映っていた。鍵を開けようとしている。奈都芽は慌てて、ドアを閉め、居間に戻った。
「ただいま」
テレビの前に座るやいなや、大きな声が聞こえてきた。真冬だというのに、奈都芽の手は汗でべっとり濡れ、三日間漂流したかのように喉がカラカラになっていた。
玄関から母の部屋の前を通り、居間に入ってきた父はいつもの笑顔を見せた。
その笑顔を見ると、奈都芽は少しホッとした。母の部屋に入ったことはばれていないのだろう。握りしめていた手を少しだけ緩めた。
父は奈都芽の隣りに座り、フーッと一息つくと、顔は向けずにこう言った。
「何してた? 奈都芽」
そう言われた奈都芽は緩めた手をもう一度強く握りしめた。父はさらにつづけた。
「お母さんの部屋のドアが少しだけ開いていた。あの部屋に入ったのか?」
脇のあたりに汗がにじんでくるのがわかった。恐る恐る奈都芽は父の顔を見た。だが、意外なことに父はいつもの笑顔のままだった。そして、父はもう一度質問をした。
「あの部屋に入ってはいけない決まりは知っていると思うんだけど。なあ、入ったのか?」
奈都芽は父の顔をじっと見た。父は怒っているに違いない。そう思いもう一度見てみたが、予想に反しやはり父はいつもの笑顔のままだった。
「入ってないよ」
ようやく奈都芽は答えることができた。だが、その答えは真実ではなかった。答えを聞いた父は、笑顔でこう言った。
「お母さんの部屋のドアが少しだけ開いていたんだ。なあ、奈都芽。本当に部屋には入ってないのか?」
大好きな父。優しい声。本当のことを言ったほうがいい。奈都芽はそう感じた。だが、口から出てきた言葉はそうではなかった。
「知らない」
父は、笑顔のままそれを聞いた。奈都芽はその笑顔を見て、少し安心した。いつも通りの優しい父だ。これ以上何も言われることはないだろう。だが、次の奈都芽のひと言ですべてが変わった。
「さっき、私もドアが開いてるのを見た」
その場の辻褄を合わせるようにして、十歳の少女の口から反射的に出た言葉だった。深い考えも悪意もなかった。
次の瞬間、父の顔から笑顔という笑顔が消えた。顔が真っ赤になり、肩は小刻みに揺れていた。
「おまえの父さんは怒ると鬼になるから」
街で会った父の友人が言っていた言葉の意味を奈都芽はこの時はじめて知った。
それでなくても大きい身体が、さらに大きく見えた。いつの間にか、時刻は夕暮れとなっており、部屋の中に真冬の夜の闇が訪れようとしていた。
父はか細い奈都芽の肩に分厚い手を置いた。
「出かける前にはいつものようにあのドアは閉まっていた。いいか、奈都芽。よく聞け。ルールを破ったことはもちろんよくない。あの部屋に入ってはいけない、それは我が家のルールだからな」
父はじっと奈都芽の目を見つめた。
「ルールは破ってはいけないが、それはまだ許される。人というのは間違いを犯す生き物だから。そうしようと思っていなくても、破ってしまうこともある。だが、最もいけないのは——」
奈都芽の肩に置かれた父の手に力がこもった。そして、怒りに満ちた声でこう言った。
「最も許されないのは『ウソをつくこと』だ。だから怒っているんだ。奈都芽はあの部屋に入ってはいけないというルールを破ったが、正直にそのことを言ってくれれば、許そうと思っていた。誰にでも過ちを犯すことはあるからな。それなのに……あんなウソをついたら駄目だ」
とんでもないことをしてしまった。
奈都芽の小さな心は激しく揺れた。これまで経験したことのない嵐が奈都芽を襲っていた。前も後ろも右も左も上も下もわからない。真っ赤な鬼のような形相となった父の顔を横目で盗み見ることしかできなかった。
「奈都芽、これだけは覚えておけ。たとえ誰も傷つけないウソであったとしても、絶対にウソだけはつくな。誰かをだましたり、利用したりしながら生きるのはやめろ。誰かにウソをつくなんて、本当に嫌なことだ」
そこまで言うと、父は「わかったか?」と聞いた。
奈都芽は、うん、と小さくうなずいた。
それを聞いた父の顔にようやくいつもの笑顔が戻った。
部屋はすっかり暗くなっていた。
床に座った二人を照らす電灯はまだ点いていなかった。真冬の暗闇の中で父がシルバーのライターで火をつけた。炎の影が父の顔に映り、オイルの香りが部屋に漂った。炎に顔を近づけ、父はタバコを吸った。煙を吐きだす父の視線の先には冬空に輝く星があった。
このときの光景が奈都芽の心の中に深く刻み込まれた。
それは、生まれて初めて父に怒られたことが関係しているに違いない。誰の心の中にもあるように、感情が激しく揺さぶられた時に見た光景は永遠に消え去ることはない。それはその瞬間、魂の奥深くに激しい熱のようなものと共に刻印されたものだから。
タバコをくわえた父は立ち上がり、テーブルの上に小さなスタンドライトを持ってきた。電気をつけると、机の上に一冊の本があることがわかった。
〈ピノキオ〉
それは父が何度も読んでくれた絵本だった。父はその映画もお気に入りで、図書館の視聴室で数えきれないくらい二人で見たものだった。本を手にした父はページをめくり、ある場面を見せた。
青いドレスを着た星の女神がピノキオに忠告をしているシーンだった。
父はその絵を見せながら言った。
「ウソは一度つくとどんどん成長しつづける。このピノキオの鼻のようにな」
そう言うと父はピノキオの映画で流れる歌を歌った。
When you wish upon a star. Your dreams come true.
(あなたが星に願うとき、夢はきっと叶う)
歌い終わると、父は手にしたタバコを灰皿につっこんで消した。
「いいか、奈都芽。生きていくのにウソなんてつく必要はない。そんなことをしなくても夢は叶う。やるべき努力をかさね、あとは星に願いをかければいい」
そう言うと、父は本棚から一冊のノートを持ってきた。それは父の小説用のノートで、何かアイデアが湧くと父は嬉しそうにそこによく書き込んでいた。奈都芽はこの時父のことを理解した。
「お父さんは毎日小説家になることを夢見ながら、努力をしている。星に願いをかけながら」
ノートを手にした父の顔にはいつもの笑顔があった。夢見るその目はキラキラと輝いていた。夜空には星がきらめき、奈都芽の心にもその光が映し出されていた。
「ウソはつくな」
この冬、十歳の奈都芽は父から大きな学びを得た。
生まれて初めて奈都芽は父に叱られた。まるで赤鬼のような形相で。だが、奈都芽の父への思いは一ミリも変わることはなかった。父が好き。
しかし、父を愛する奈都芽はまだこのときわかっていなかった。
その大海に浮かぶ奈都芽という流木がこのあと奇妙な方向に流されていくことを。
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