第1章  海の上で生まれた少女②


父との専らの遊び場は、やはり図書館だった。



 この平坦な街には珍しく、小高い山に囲まれたところに住んでいた奈都芽だったが、その山を抜けるように工場地帯に向かって車を走らせると、二人のお気に入りの図書館があった。


 『小さいほう』と『大きいほう』。


 二人はよくそう呼んでいたのだが、幸せなことにわりあい近い距離に、図書館が二館もあった。




 母は自分の部屋でひとり過ごすことがほとんどだった。


 部屋のドアは、(もちろん)しっかりと閉められていた。

畳の部屋で正座し、背筋を伸ばして、本を読む。どんな本を読んでいるのかそれはわからない。母の部屋に入ることは誰も許されていなかったからだ。




「母の部屋に入らないこと」




 それはこの家のルールだった。




 母が部屋で読書をしているときは、家の中の音という音が消えてしまったような静けさだった。


 その際、二人は、隣の居間でテレビもつけずに借りてきた本を静かに読んだ。たいていは、それでやり過ごすことができたが、そうでないときもあった。


 母の機嫌が特別悪い日は、閉じこもった母の部屋から無言のサイレンが発せられた。家中の空気という空気が吸い取られ、呼吸するのが困難に感じることすらあった。スーパーで見かけたあの真空パックみたいにされるのでないか。子どもながらに奈都芽はそう心配した。




 そんなとき、奈都芽を助け出してくれるのは(言うまでもないかもしれないが)父だった。




 本をそっと置くと、父はシーッと言うように唇の前で人差し指を立て、そのあと玄関の方を二、三度指さした。廊下が軋きしまないようにと願いながら、どうにか外に出ると、二人はようやく笑顔になった。そのあと向かう先はいつも決まっていた。


 家のすぐ近くに古い由緒ある神社があった。


 鳥居を過ぎると、左手に『——親王』と書かれた大きな墓があり、そこを過ぎると、山の麓に大きな社務所が見えてきた。そこまで来ると、父は社殿に向かって深々と頭を下げ、そちらには入らずに道を挟んだ逆側の原っぱのようなところに行った。


 その原っぱのような隅に、膝より少し低いぐらいの小さな小屋のようなものがあった。その中はのぞけるようになっており、そこには小さな井戸があった。井戸の中ではコンコンと水が湧きでており、父はその湧水を満足そうに眺めた。




「ずっと昔、偉い人がここに島流しにされたという記録が残っている」




 そこに来ると、いつも父はそう言った。


 奈都芽はその話を聞くと、いつも疑問に思った。島流し? ここは島?




 だが、その時の奈都芽はその疑問を父に伝える言葉を持っていなかった。

どちらにしても、父とその神社で過ごすその時間は奈都芽にとって魂が救われる時間だった。原っぱに咲いている黄色い小さな花を摘み、ベンチで並んで本を読んだ。本を手にすると、父はすぐにイニシャルの入った愛用のシルバーのライターを取り出した。炎が揺らめき、父は美味しそうにタバコを吸った。


 幸運なことに、奈都芽には他にも思い出があった。もちろん、父、とのだが。






 風力、ゼロ——。 




 プロペラも風見鶏もピタッと動きを止める。電池が切れたようになにがあっても動かない。真上に放り投げた芝が静かにその場に落ちてくる。


 『なぎ』と呼ばれるこの地特有の風の吹かない夏の日。そんな日は逃げ場のない焼けつくような猛暑となり、奈都芽はぐったりと部屋で横になっていた。だが、そんな日も母は一ミリもドアを開けることなく、自分の部屋でひとり過ごしていた。




「パシャ、パシャ、パシャ」


 そう口にするわけではないが、顔中汗だらけの奈都芽に向かって、父はクロールする動きを見せた。


 部屋から出てこない母に気を使いながら、父は子ども用のピンクの水着を透明のプールバッグに詰め、車に乗り込んだ。カーステレオから流れてくる夏空が頭に浮かんできそうな音楽に合わせ、父は口笛を吹いた。


 『大きいほう』の図書館のすぐ隣にあるプールに着くと、家では出すことのできない大きな声を上げながら父はプールに飛び込んだ。


「ジャンプ! ジャンプ!」


 プールサイドでモジモジと水に入るかどうか悩んでいる奈都芽に父はそう声をかけた。さらに、不安げな娘の手を父はそっと引き寄せこう言った。


「大丈夫、大丈夫」


 運動神経抜群の父は、その大きな背中に小さなか細い奈都芽をのせると、まるでエイを思い起こさせるようなバタフライをした。疲れを知らない父はプールを何往復もし、少しずつではあるが、奈都芽の水への恐怖心を和らげた。






 




 母なる大地の上ではなく、海の上で。




 だから、奈都芽はプカプカと不安げに漂う流木のように生きてもおかしくはなかった。大地である母が彼女を支え、しっかり繋ぎとめておかないのだから。だが、海の上で生きる奈都芽には救いがあった。どんな嵐が来てもビクともしない、基地が二、三個入るぐらいの大きな船。そう、父という名の船があったのだ。


「この背中さえあればいい」


 子供ながらに奈都芽は、父の背中の上でいつもそう感じていた。


 たしかに母との交流はほとんどなかったが、こうした父の支えのおかげで奈都芽はその傷つきやすい柔らかな心をどうにか守ることができた。いつも笑顔を絶やさない父のことが奈都芽は大好きだった。






 だが、その笑顔を絶やさない父が一度だけ奈都芽に怒ったことがあった。




 それは奈都芽が小学四年生、十歳のころにおこった。


 吹きつける風が冷たい真冬の日だった。その日は珍しく母が外出をしていた。親戚かその知人か何かが会いに来た、ということで駅前のホテルに行っていた。父と二人で留守番をしていたのだが、近くの友人から電話がかかってきたということで、父はその家に向かった。




「すぐ帰ってくるから」


 父は笑顔でそう言った。




 居間で一人になった奈都芽は、ふと昨夜のことを思いだした。父と二人で、居間にいたのだが、


「ふん」


 隣の部屋から声が漏れてきた。母の部屋から声が聞こえてくることは滅多になかった。父もそのことに驚いたらしく、家を出ていく前にこう言った。


「昨日のアレ、なんだったんだろうな? 面白い本でも読んだのかな?」


 家には居間にしかテレビがなく、母が部屋でいるときは読書をしていると考えられた(固く閉ざされたドアの向こうではなにが起こっているのかはわからない)。


「あの母が……あの母が面白いと思う本ってどんな本だろう?」


 奈都芽は心の中でそう呟いた。


 せめてタイトルだけでも知りたい。

奈都芽の好奇心はどんどん大きくなり始めた。何度も忘れようと試みたが、その力はアスファルトをも突き破らんばかりの強さで彼女の心を大きく揺さぶった。


 だが、大きな問題があった。




「母の部屋に入らないこと」




 この家のルールが奈都芽の前に大きく立ちふさがった。

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