第6話 逃走
――大いなる空の覇者、ドラゴン。
俺達は一番会いたくない存在と出会ってしまった。
「まさかいきなりドラゴンと出くわすとはなあ……っ」
「は、はは。一体どんな確率なんですかね……?」
圧倒的な威容。咄嗟に抜いた鉈が酷く頼りなく感じられる。
今のところ、ドラゴンは大きな動きを見せていない。
ただ岩場に降り立ち、辺りを睥睨しているだけ。
だが、たったそれだけの動作ですら周囲に威圧感を振り撒いていた。
「……今日がオレの命日かもなあ」
「……そう考えるのはまだ早いですよ」
「……けどどうにもならんくないか、こいつは」
「……それはそうかもしれませんけど」
ドラゴンを視界の中心に収めつつ、こそこそと会話する。
とはいえ会話内容はネガティブなものだ。
状況が状況だから当然と言えば当然だが。
――ドラゴン。あるいは竜。
ファンタジー系の小説やアニメを齧った事があれば……いや、例え関わりがなくとも一度は見た事聞いた事があるだろう、ファンタジーの象徴とも呼べる幻獣。そう遠くない過去の時代では空想の存在でしかなかったという、伝説の生物。
そして現代では――確かな恐怖と共に語られる恐ろしき怪物。
たった数十体で一千万もの人々を殺した、ニッポン国の敵。
――それがドラゴンという化け物だ。
そんな化け物に目を付けられれば間違いなく終わる。
俺が死に、獅子島さんも死ぬだろう。逃げる暇すらもなくだ。
果たしてどんな死に方をする事になるのだろうか?
鋭い爪で切り裂かれるならまだマシな方で、場合によってはその巨体で踏み潰されるかもしれないし、もしかしたら生きたまま喰われる可能性だってある。
そんな死に方は絶対に御免だ……! なんとしてでも生き延びてやる。
「……動くんじゃねえぞ坊主。絶対に動くんじゃねえ。ドラゴンは逆鱗にさえ触れなきゃ意外と寛容だって聞いた事がある。刺激しなけりゃ大丈夫なはずだ」
「う、動くなとか言われてもですね? めちゃくちゃ怖いんですけど……?」
獅子島さんの忠告されるが……俺の顔は引き攣っていた。
――何故って、目と鼻の先にドラゴンの顔があるからだ!
少しの間、ドラゴンは落ち着いた動きで岩場全体を見回していた。
なんて言えばいいのか。まるで支配者が己の領域を確認しているような――潔癖な人が部屋の状態を厳しく見定めているような、緩慢ながら威厳のある動きだった。
そんな行動を、恐らくは5分から10分程度は続けていた。
しかし何を思ったのか、突然俺達に近付いてきたのだ。
一切反応を示さないから無視されているのかと思ったが。
いや。俺達というよりは、俺に……だろうか。
見たところ獅子島さんには興味を示していない。
ドラゴンが反応しているのはあくまで俺だけだ。
ギリギリまで近付くドラゴンの鼻先。
何かを確かめているのだろうか? 何度も鼻を鳴らしている。
すんすん、すんすん、と。その度に突風が起きた。
だが中々確信が得られないようだ。かなり長い時間嗅がれ続けているのに、一向に終わる様子がない。流石に30分以上も匂いを嗅がれ続けるとうんざりする。いい加減に終わってくれと願いつつも何も出来ず、大人しくされるがままな時間が続く。
――もしかしてこのドラゴンが匂いフェチとかだったりするのか? 仮にそうなのだとしても、匂いを嗅がれるぐらいは我慢する。殺されなければ、の話だが。
俺はそう考えていたのだが、一つだけ問題があった。
――こ、このドラゴンの口めちゃくちゃ臭い……ッ!!!
そう、ドラゴンから漂ってくる口臭がとても酷かったのだ。
激臭と言ってもいい。気を抜くと顔を顰めてしまいそうだ。
ちゃんと歯を磨いていないんだろう。ドリルで抉り込むような恐ろしく不快な匂いが鼻の奥をつんざいてくる。距離が近い所為で嫌でも嗅ぎ取れてしまうのだ。
そもそもドラゴンは野生……野生? の生き物だ。
ダンジョンの自然? の中で生きている。
歯磨きという概念がそもそもないのかもしれない。
だがこれは酷い。あまりにも酷い。天罰だってもうちょっと優しいはずだ。
俺が一体何をしたというのか。こんな拷問の如き悪臭に苛まれなければならないほどの罪を、俺が犯したとでも言うのか? なら教えてくれ。すぐに償うから。
もうなんか必死だった。俺は必死で顔が歪むのを我慢していた。
もしドラゴンの前で顔を歪めれば――最悪だ。
それによって機嫌を損ね殺されるかもしれない。
その場合、俺の死因は『悪臭』になる。
そんな死に方は御免だ。絶対に、御免だ!
耐え切れなかった時は大人しく自裁しよう。
俺がそんな悲壮な覚悟を抱いていた――その時。
――かつん。ころんころん、と。
何処からか音がした。何かが転がった音だ。
はち切れそうな静寂の中、その音はよく響いた。
視線が一斉に音がした方向へと向けられる。
ドラゴンも。俺も。獅子島さんも。
音の正体は一体なんだ? と。
目を凝らして注視した。
「あそこにいるのは……」
「文句を言ってきた奴か……?」
姿を見せたのは――先程俺達に文句を言ってきた連中の一人。
そいつは大慌てで岩場の影から飛び出すと、何かを拾った。
太陽が照り付ける中、キラリと輝くソレは――宝石。
どうやら運悪く落としてしまったらしい。だから慌てて拾いに来た、と。
「なんて間の悪い奴だよ……」
ぽつりと。獅子島さんが小さくこぼす。
俺も心からその言葉に同意した。
咄嗟の行動だったんだろうが、状況が悪すぎる。
あいつの命運は――今日、ここで尽きた。
そいつは宝石をポケットに仕舞い込むと、顔を上げ――
――そして。自分を見つめる黄金の輝きに気付き、硬直した。
次の瞬間。
【――――――――――ッッッッッ!!!!!!!!!!】
ドラゴンが咆哮した。
大気が揺れ、世界が悲鳴を上げる。
先程と違い、尋常でない怒気が含まれていた。
「――今だっ!! 逃げるぞ坊主!!!」
「う、うぉおおおおお!?」
直後、俺は獅子島さんに強引に引き摺られた。
「ちょ、獅子島さん!? 急に何をするんですか!?」
「今を逃せばもうチャンスはねえ!! あれがドラゴンの気を引いてくれている内に逃げんだよ!!! じゃねえとオレもお前さんもあの化け物にやられてお陀仏だ!」
そう言ったきり、獅子島さんは黙って走る事に注力する。
急な事で驚きはしたが、俺も彼の意見には賛成だった。
だから黙って獅子島さんの後に追従していた。……が。
好奇心からつい、俺は後ろを振り返った。
そして――あまりにも凄惨な光景を目にしてしまった。
そいつは必死にドラゴンから遠ざかろうと走っていた。
しかしドラゴンがブレスを吐くのだ。
まるでそいつの逃げ道を潰すように。
だから他の方向に逃げる。……が。
結局どちらに走っても逃げ道を塞がれる。
東へ走っても。西へ走っても。
北へ走っても。南へ走っても。
何処へ行ってもブレスが降る。
何処にも逃げられないように。
じわじわと嬲り殺すように。
最終的に元の場所へと戻っていた。
逃げられない事を悟ったそいつは青くなっていた。
ぶるぶると震え、もはや動けなくなっていた。
その姿を情けないとは口にするまい。
同じ状況に立たされれば、多分誰だって同じ状態になる。
その姿を見てドラゴンは笑い――大口を開けて齧り付いた。
その後の事は語らなくてもいいだろう。
グロテスクな描写なんて俺もしたくない。
「獅子島さん! あれ、あそこ!」
「うん? こんな時にどうしたってんだ!?」
「あれ、古川さんじゃないですか!?」
「……おぉ! 本当だ! あの嬢ちゃん生きてやがったのか!」
そして逃げる最中、俺達は古川さんを発見した。
彼女がいたのは大きな岩の麓。
岩に背中を預け、気を失っていた。
彼女の姿が見えなくなったのは、リザードマンとの戦闘の最中。
もしかしたらと考えていたけれど、無事生きていたみたいだ。
右目は垂れた血で隠れ、左腕にも重傷を負っている。
しかし胸はしっかりと上下していた。
見た感じ致命傷にはなっていない。十分助けられるはずだ!
「担いできます!」
「おう! 急げよ坊主!」
獅子島さんの後ろから離れ、古川さんの元へ。
近付けばハッキリと生きている事が確認できた。
実は死んでた、なんて事がなくて本当によかった。
「すみません。出来るだけ優しく運びますから」
意識のない彼女にそう声を掛け、丁寧に背負う。
確か怪我人を揺らすのはまずいとどこかで聞いた気がする。
けれど、そんな事を気にしている余裕はない。
彼女には悪いけれど、全力でここから離脱しなければいけない。
「急げ坊主! 急げ!」
「分かってます!」
急かしてくる獅子島さん。つい荒い口調で返事をした。
最新の注意を払いながら、全力で足を交互に動かす。
だが……ゴールである森がいやに遠く感じる。
どうしてだ? 他人を背負っているからか?
いや……考えてみれば当然の事だった。
ダンジョンに入ってから、俺は一度も休んでいない。
ダンジョン突入から洞窟を歩き続け。
内部に着いたら即キャンプの設営。
それからすぐにリザードマンとの戦闘。
今はドラゴンとの逃走劇に勤しんでいる。
身体の調子が良くても、精神に限界が来ていた。
【―――ッ!? ―――――ッッッ!!!!!】
「やべえ気付かれた!? 追って来てるぞ!!!」
「くっそ、勘弁してくれ……ッ」
しかもドラゴンが逃走に気付いてしまった。
ドスドスと地響きを鳴らしながら追い掛けてくる。
……なんだか、さっきよりも怒っているように見える。
くそっ、本当に勘弁してくれよ……!
こっちはもうくたくたなんだ!
少しくらい休ませてくれたっていいだろう!?
だがそんな俺の怒りをドラゴンが考慮してくれるはずもなく。
怒り狂いながらも更に速度を上げ、全力で追い掛けてきた。
「急げ急げ急げ急げ急げ!!!」
「やばいやばいやばいやばい!!!」
ダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュ!!!!!
とにかく全力で走った。死に物狂いで走った。
背負っている古川さんへの配慮とか考える暇もなかった。
結果――。
「うぉおおおおおおっっっ!?!?!?」
「喰われてたまるかぁあああああああッッッ!!!!!」
ガチンッ!!! と背後で音が鳴りながらも。
俺達はギリギリで森に飛び込む事が出来た。
「はぁ、はぁ。これで、大丈夫なはずだ……っ」
「ふぅ。そう願いたいですけど……!」
必死に呼吸を整えながら森の外に視線を送る。
ドラゴンは森の手前で立ち止まっていた。
この森は樹々が異様に太く、また間隔も狭い。
俺達人間なら十分余裕を持って通り抜けられるスペースがあるけれど、10メートルという巨体を誇るドラゴンには、この森の中は少しばかり狭過ぎる。
つまり、ドラゴンはこの森に入る事が出来ない……はずだ!
いや本当に頼む! マジで頼む!
これがダメならもう本当に打つ手がない。
どうにかこれで俺達を追い掛けるのを諦めてくれ!!!
【――――――――――――ッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!】
ドラゴンはめちゃくちゃに怒り狂っていた。それはもう怒っていた。
やたらめったらにブレスを吐き、突風を撒き散らし、近くの樹々や岩々を鋭い爪で切り刻んだ。とにかく周囲に当たり散らし、無差別に破壊を振り撒いていた。
……しかし。暴れてもどうにもならないと悟ったのだろう。
十数分ほども暴れればやがて大人しくなった。
そして最後に――チラリ、と未練がましく俺を見て。
ドラゴンは翼を羽搏かせて飛び去って行った。
途端、俺は膝から崩れ落ちた。もう限界だった。
隣を見れば獅子島さんもどっかりと近くの倒木に腰掛けていた。
「……はぁ。ようやく行きやがったか」
「なんとか助かったみたいですね……」
俺と獅子島さんは揃って大きな溜息を吐いた。
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