30.二十日目。疑わない王子様

 いよいよ明日は建国祭だ。

 昼前まで宿でゆっくりしていた私たちは、さすがに腰を上げて王都を目指した。

 知り合いに会う可能性もあるので気を揉んだけれど、パレード目当てにあちこちから人々が集まっていて、うまい具合に人に紛れることができた。

 町外れだったけれど宿も手配できて一安心だ。

 リスクを減らすべく、城下には行かずに宿で時間を潰す。

 移動だけでほとんどの時間が消えてしまった。

 もう明日がパレードだなんて……イライジャ様とお別れだなんて、信じられない。


 狭く質素な宿ではあったけれど、ここもあの小屋と比べれば天国のような場所だ。

 雨で濡れたマットはもう乾いているだろうなと思いながら、荷物を整理する。

 ふと手に触れる、冷たい感触。取り出すと、からになった香水の瓶が姿を現した。


「その香水にも世話になったな」


 後ろから顔を覗かせるイライジャ様。私の手に握られた瓶を、同じように後ろから伸ばされた手が、私ごと優しく包んでいる。


「まさか、この香水がなくなる日が来るとは……」

「ほぼ毎晩であったからな」


 はははと笑うイライジャ様に、私は少し呆れ顔を向けた。

 これはイライジャ様と別れた後も、大事に置いておきたかったのに。


「足りぬようなら、またプレゼントするが」

「そういうことではないのですが……」


 イライジャ様が私の後ろ髪を撫で、そのまま前へと寄せた。うなじが外気に触れると同時に、イライジャ様の吐息を感じさせられる。

 ほんのり湿り気を帯びたくちびるが、私の左耳に寄せられてぴくんと動いてしまう。


「イライジャ様……っ」

「そなたはもう、香水に頼る必要はない。違うか?」


 最初は香水のせいにしていた交わり。始まりの合図となっていた香水。

 確かに今はもう、必要としていない。

 月下の踊り子がなくても、私たちは自然と体を重ね合える関係になってしまった。


 それでも後ろから鎖骨に手を這わせられると、乙女のように鼓動が鳴るのです。


 今日で最後。

 明日の今頃は、互いに違う道を歩まなければならないのだから。


「愛している」


 何度も言ってくれたこの言葉も、もう聞けなくなる。

 ちゃんと覚えておかなくては。そうすれば、一人になっても生きていく糧になる。

 寄せられる想いを噛み締めていると、イライジャ様が息を吐いた。


「クラリス……そなたは……一度も好きだと言ってくれないな」


 悲しげな声が出されて、私は慌てて振り返る。

 私がなにも応えていなかったこと……気にしておられたのか。


 見上げた先の瞳に、いつものような煌めきはなくて。凛々しいはずの眉が、ゆるりと下がっていて。


「そなたの、心が知りたい」

「イライジャ様……」

「俺のことを好いていると思っていたのは、俺の勘違いか? 俺が王族だから、断れなかっただけか?」


 まさかイライジャ様がそんなことを思い悩んでいただなんて、気づきもしなかった。

 いつも楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうだったから。

 いつだって自信満々だったから、疑っていないと思っていたけれど……。


 私はなんと答えれば良いのだろう。

 素直に愛しています、と?

 そうすれば、きっとイライジャ様は喜んでくださるだろう。けれど明日が永遠の別れになるのだ。なんでも素直に伝えれば良いというわけではない。


 ならば、愛していないと答えるか。

 イライジャ様のために、仕方なく抱かれていたのだと。

 傷つけるとわかっている。けれどそう言った方が、別れた後に前を向けるかもしれない。


「答えられないのか、クラリス」

「私……私は……」


 言わなければ。

 愛してなどいないと。

 イライジャ様の勘違いで、仕方なく抱かれていたのだと。

 伝えなければ。鉄の意志を持って。


「クラリス……俺はそなたを、心の底より愛している」

「イライジャ様……私も愛しております……!」


 なにを! 言っているというのか!! 私は!!

 鉄の意志はどこへお散歩中ですか!!!!


 あああ、イライジャ様のほっとしたお顔が可愛らしゅうございます……!

 愛してないだなどと、言えようはずがないではないですか……!

 だって、これほどまでに愛してしまっているのですから……っ


「まったく、そなたは焦らすのがうまい」


 部屋に花が咲きそうなほどの笑顔で、私の髪を指でなぞるように撫でていく。

 そのままゆっくりと腰まで下ろされたかと思うと、ぐんっと体を引き寄せられた。


「イライジャさ、ま」

「愛している。そなたももっと言ってくれ」

「そんなこと、恐れ多くて……」

「言わなければ、こうだ」

「んっ」


 イライジャ様に強くくちびるを塞がれてしまう。こんなの、ずるいのですが!


「ぷはっ」

「言う気になったか?」


 言わなければ、キス攻撃が終わらないということですね!?

 もう、この王子様は……!


「……私も、愛しております」


 あああ、顔が熱い。

 想いを伝えるというのは、こんなにも嬉しくて恥ずかしい。


「クラリス、もう一回」

「……愛しています」

「もう一回」

「愛しています!」


 一体何回言わせるのですか!

 嬉しそうなんですから、もう。


「ははっ、少しは慣れたか?」

「な、慣れません……っ」


 愛してると言うたび、心臓が飛び出すのではないかと思うほど跳ねているのですから!


「かわいいな、そなたは。顔を真っ赤にさせて」


 誰のせいだと思っておいでですか……! イライジャ様のせいなのですからね!?


「もう一度言ってくれるか」

「何度言わせるおつもりですか!」

「何十回でも、何百回でも、何万回でも聞きたいが?」

「そんなに言えません!」

「言える。俺は一生、クラリスのそばにいるのだから」


 私が一生そばにいると信じて疑わない言葉。

 明日私が消えれば、裏切られたと思うだろう。きっと、たくさん傷つける。

 なのにもう、愛していないとは言えなくて。


「イライジャ様……私はあなたを愛しています」


 きっと、一生。

 イライジャ様が私ではない誰かと結婚しても。

 私はきっと、イライジャ様だけを想って生きていく。その確信がある。


「クラリス。俺もそなたを愛している」


 そうしてまた塞がれるくちびる。

 結局、愛していると言っても言わなくても、キスはなさるのですね。


 明日は建国祭。

 これがイライジャ様と過ごす、最後の夜になる。


 何度伝えても足りないくらいに、私の想いは溢れ続けて──


 私たちは初めて、月下の踊り子をつけることなく、愛を交わし合った。

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